見出し画像

ビョンチョル・ハン『透明社会』

☆mediopos-2527  2021.10.17

十八世紀のイギリスの哲学者ジェレミ・ベンサムは
「パノプティコン」という
全展望監視システムを構想した

そのシステムでは
円形に配置された収容者の個室が
多層式看守塔に面するよう設計され
収容者たちには互いの姿や看守が見えなかったが
看守はその位置からすべての収容者を監視できた

最初のパノプティコン型刑務所はアメリカで建設されたが
のちには学校や病院や工場などの施設にも
応用されることが意図されていたという

ミシェル・フーコーは『監獄の誕生 監視と処罰』で
その「パノプティコン」を
管理・統制された社会システムの比喩として使ったが

二十一世紀の「パノプティコン」
とくにデジタル・パノプティコンでは
中心と周縁の区別は完全に消え去り
「人はあらゆる側面から、あらゆるところから、
それどころかあらゆる人から照射されうる」ものと化す

言葉をかえれば
完全な相互監視システムである

「管理社会」といえば
だれかがつくりだしたシステムによって
管理するというイメージをもちやすいが
このシステムはだれもみずからすすんで「透明」化し
ひともじぶんも互いに管理していく

そのシステムを象徴的にあらわしているのが
「デジタル・パノプティコン」としての
インターネットである

「管理社会の住人はたがいにネットワークを結」び
「過剰なコミュニケーション」を行っていく
それは外的な強制ではなく
みずからの「露出症と窃視症」によって
「透明」化へと互いを導いていく
自分のプライベートを好んで露出し
その「構築と維持に積極的に加担」しているのだ

「露出症」というのは
じぶんをまるで芸能人のようにして
個人的なことを自己表現と錯誤し露出していく欲望
「窃視症」というのは
芸能人のプライベートを覗きたがるように
ひとのプライベートを覗き込もうとする欲望

インターネットとくにSNSには
そうした病的な欲望に満ちていて
それがエネルギー源となって
「相互管理社会」を強化していくことになる

それが危険なのは
マスメディアをはじめとしたメディアが
その「相互管理」を容易にするような
情報管理を強化しているからだ

ネットワークと「過剰なコミュニケーション」が
みずから情報を集め考えていく力をむしろ奪い
管理された情報だけが共有されていく
そこにみずからを疑う力さえすでにない

そこで権威をもつのが
極めて管理されたかたちで
信仰化した「科学(主義)」である

そこでは与えられた情報以外を
科学的ではないという信仰で拒み
信仰にもとづく「知識(教え)」が真実として
あらゆるメディアで教えられている
多くは悪意ではなく「透明」な善意のもとに

■ビョンチョル・ハン(Byung-Chul Han) (守博紀訳)
 『透明社会』
 (花伝社 2021/10)

(「肯定社会」より)

「透明性はとりわけ情報公開が問題になるような文脈で声高に呼び求められる。透明性を高めよ、という要求は[情報公開の文脈に限らず]いたるところで掲げられており、その要求は透明性を物神化してあらゆる場面にもちこむまでに激しくなっている。この透明性の要求は、政治や経済の領域に限らないパラダイム転換に由来する。否定性を含んだ社会はこんにちでは消え去り、肯定性のために否定性がつぎからつぎへと撤去されていく社会に取って代わられている。こうして、透明社会はまず肯定社会として姿を現す。」

「透明性をもっぱら汚職や情報公開と関連づけて考えると、その射程を見誤ってしまう。透明性はあらゆる社会的事象をとらえて深刻な変化にさらすシステムそのものに内在する強制である。社会のシステムはこんにち、そのシステムのなかで遂行されるあらゆるプロセスを定められた手順にのっとって加速させるために、そうしたプロセスを透明性の強制にさらす。加速せよという圧力は否定性の解体を伴う。コミュニケーションが最大速度に達するのは、同じものが同じものに応答するときであり、つまりは同じものの連鎖反応が生じるときである。他なるもののありかたや真なるもののありかたが帯びる否定性、あるいは他なるものの抵抗するあり方は、同じもののあいだで生じるなめらかなコミュニケーションを乱して遅らせる。透明性は、他なるものや異なるものを排除することによって、システムを安定させ加速させる。このシステムそのものに内在する強制ゆえに、透明社会は、同じもので画一化された社会になる。この点に、透明社会の全体主義的な特徴がある。「強制的同一化を言い表す新しい言葉−−−−透明」。

「人間の魂は明らかに、他者の視線にさらされることなくみずからのもとにあることのできる領域を必要としている。人間の魂には透かし見ることのできない部分がある。全体をくまなく照らそうとするならば、人間の魂は焼き尽くされ、ある特別な魂の燃え尽きがもたらされることになるだろう。透明なのは機械だけだ。自発的であること、出来事のように生じること、自由であること、といった生一般の本質をなすありかたは、透明性をまったく許容しない。」

「人間は自分自身にとってすら透明ではない。
(・・・)
人間が二人いればその二人のあいだにも裂け目が開いている。それゆえ、個人間の透明性を確立することは不可能である。それは望ましいものでさえない。他者の透明性が欠けているというまさにそのことが、関係を生き生きとしたものに保つのである。」
「透明性を高めよという強制にはまさにこの「繊細さ[Zartheit]」が欠けている。これが意味するのは、完全に排除するこよなどできない他者性への尊重という繊細さにほかならない。こんにちの社会をとらえている透明性のパトス[情念]を考えれば、距離のパトス[情念]を養うことが必要だろう。距離と羞恥は、志保にゃ情報やコミュニケーションの加速した循環のなかに統合することができない。こうして、引きこもることができる内密の空間はすべて透明性の名のもとに排除される。そのような内密の空間はくまなく照らし出され搾取される。世界はそれによってより羞恥がなくなり、より剥き出しになる。」

「情報をより多く集めたからといって、必ずしもよりよい決定に辿り着けるわけではない、ということも明らかにされている。たとえば、直感は手に入る範囲の情報を越えて直感固有の論理にしたがう。情報量がますます増大し、それどころか腫瘍のように増殖することによって、こんにちではより高次の判断能力が萎縮している。知識と情報は、より少ないときの方がより大きい効果をもたらすことが多い。」

「肯定社会は否定的な感情もまったく許容しない。そうして人は、苦悩や苦痛とどのようにつきあい、それにどのような形式を与えるかということを忘れる。」

「肯定社会であらゆる場面に使える判断は「いいね」である。フェイスブックが「きらい」のボタン導入を一貫して拒んできたのはいかにも特徴的である。肯定社会はあらゆる否定性を避ける。というのも、否定性はコミュニケーションを停滞させるからだ。コミュニケーションの価値を測る尺度は情報交換の量と速度だけである。大量のコミュニケーションは、コミュニケーションそのものの経済的価値をも上げる。否定的な判断はコミュニケーションを損なう。コミュニケーションの接続は「きらい」よりも「いいね」の方が早くつながる、拒絶の否定はとりわけ経済的観点からいって活用できない。」

(「管理社会」より)

「二一世紀のデジタル・パノプティコンは、もやはひとつの中心かた、専制的な視線の万能から監視されるのではないのであり、そのかぎりでそれは展望する地点を欠いている。ベンサムもパノプティコンにとって本質的な役割を果たす中心と周縁の区別は、完全に消え去っている。デジタル・パノプティコンには展望の光学はまったく必要ない。この点こそがデジタル・パノプティコンの効率性をなしている。展望する地点をくまなく照らし尽くすことは、展望する地点のある監視よりも効果的である。なぜなら、そこでは人はあらゆる側面から、あらゆるところから、それどころかあらゆる人から照射されうるからだ。」

「こんにちの管理社会は、ある特殊なパノプティコン的構造を示している。たがいに隔離されたベンサムのパノプティコンの入居者とは反対に、こんにちの管理社会の住人はたがいにネットワークを結び、激しくコミュニケーションする。隔離による孤独ではなく、過剰なコミュニケーションが透明性を保証するのである。デジタル・パノプティコンの住人は自分自身を見せびらかし、みずから剥き出しになるのだが、それによって、その住人自身がデジタル・パノプティコンの構築と維持に積極的に加担することになる。とりわけこのことが、デジタル・パノプティコンの特殊性である。デジタル・パノプティコンの住人はパノプティコン的な市場で自分自身を展示する。(・・・)露出症と窃視症の栄養源は、デジタル・パノプティコンとしてのインターネットである。管理社会は、その社会で生活する主体が、外的な強制ゆえにではなくみずから生み出した欲求ゆえに剥き出しになるときに完成する。それはすなわち、自分のプライベートな領域や親密な領域を放棄しなければならないという不安よりも、そうした領域をはずかしげもなく見せびらかしたいという欲求が優ったときである。」

「透明性と権力は悪い意味で結託する。権力は秘密のなかに隠れたがる。秘密の実践は権力が用いるさまざまな技術のひとつである。透明性は権力の秘密な領域を解体する。しかし、双方向的な透明性は、つねに監視することによってのみ設立されうるのであって、しかもこの監視はますます極端な形態をとっている。これこそが監視社会の論理である。さらに、全面的な管理は行為の自由を根絶し、最終的には強制的同一化に至る。自由な行為空間をつくり出す信頼は、管理で単純に代替することなどできない。」

「信頼することは、知ることと知らないことのあいだの状態でのみ可能である。信頼するとは、他者のことを知らないにもかかわらず、その他者と積極的な関係を構築することである。信頼することによって、不十分な知識しかなくても行為することが可能になるのだ。」

「こんにちでは地球全体がパノプティコンへと発展している。パノプティコンの外部はない。パノプティコンは全面的になっている。内部と外部を隔てる壁などない。みずからを自由の空間として提示するグーグルとソーシャルネットワークはパノプティコン的な形態をとる。こんにち、監視は、ふつう考えられているように自由への攻撃として遂行されているのではない。むしろ、人びとは自由意志によりパノプティコンの視線にみずからを引き渡しているのだ。人びとは、みずからを剥き出しにして展示することによって、意図的に一緒になってデジタル・パノプティコンの建設に従事する。デジタル・パノプティコンの収容者は犠牲者であると同時に加害者である。この点に自由の弁証法がある。自由は管理であることが明らかになる。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?