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文月悠光(連載書評 文一の本棚)「石原吉郎『石原吉郎詩文集』」(『群像』)/野村喜和夫『証言と抒情 詩人石原吉郎と私たち』

☆mediopos3495  2024.6.12

石原吉郎は
「詩は、「書くまい」とする衝動なのだ」としながら
一九七七年六十二歳の晩年まで詩を書きつづけた

文月悠光は一九九一年生まれの詩人だが
『群像』の「連載書評 文一の本棚」で
『石原吉郎詩文集』をとりあげている

ひとは必ずしも年齢ではなく
それぞれの体験の質はひとの数だけあるだろうが
三十代の文月悠光にとって
そしてその「詩」の言葉にとって
石原吉郎の「沈黙と失語」は
どのように位置づけられ得るのだろう
そんなことを考えさせられる書評となっている

石原吉郎の

〈詩は、「書くまい」とする衝動なのだ〉
〈詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、
「沈黙するための」ことばであるといっていい〉
〈いわば失語の一歩手前でふみとどまろうとする意志が、
詩の全体をささえるのである〉

という「詩の定義」に対して
文月はこう書いている

「三十代になった今の私は、この言葉をどこか警戒する。」
「この考えはあまりに究極的で、
その究極性ゆえに感染力が強い。
だからその魅力は理解しながらも、
ある詩人の姿勢として素朴に捉えたい。」
「「詩とは何か」という問いに対する答えは、
詩人によって全く違うのだから。」

文月は大学の授業で
「さまざまな作家」と出会い
そのなかで石原吉郎の詩とも出会う
そして現在は三十代

なぜ石原の「言葉をどこか警戒する」のだろう
「失語」「沈黙」を「警戒」しているのだろうか
なぜ「ある詩人の姿勢として素朴に捉えたい」
としているのだろう

だれもが「失語」「沈黙」を
余儀なくされるわけではないが
おそらくそこでは
「言葉」はいうまでもないが
「詩」や「詩人」の存在さえ
自明のものとされてはいないだろうか

書評の最後には
「「他者の詩を読む」という行為は、
自分にとっての「詩とは何か(きっとこういうものだろう)」
という価値観を揺るがされる体験といっていい。」とあるが

そこで「価値観を揺るがされる」のは
あらかじめ決められたジャンルとして
文学や詩に向かうのではなく
言語そのものの根底における「体験」であって
はじめて意味をもつのではないか

「存在(有)」の淵源には「無」があるように
「言葉」の淵源には「沈黙」がある
そして文学や詩の淵源には「言葉」がある

「言葉ありき」からはじめた表現は
おそらくその深みに「沈黙」を持ちえないのではないか

ちなみに野村喜和夫によれば
『現代詩度読本2石原吉郎』に収められた「代表詩50選」で
三人の選者(鮎川信夫、谷川俊太郎、清水昶)が
一致して選んでいるのは「葬式列車」と
「世界がほろびる日に」だけだという

「世界がほろびる日に」には
石原吉郎ならではの「イロニーとユーモア」がある

「世界がほろびる日に」とは
「私がほろびる日に」であるのは勿論
「詩がほろびる日に」とも
「言葉がほろびる日に」とも
置き換えることができるかしれない

「世界がほろびる日に」
「かぜをひくな/ビールスに気をつけろ
 ベランダに/ふとんを干しておけ
 ガスの元栓を忘れるな
 電気釜は/八時に仕掛けておけ」
というのである

死を前にして
詩がほろびても
淡々と生きるということを
「イロニーとユーモア」を用いてさえも
決してわすれてはならない・・・

とはいえ石原吉郎は
「私がさびしいのは」という
死の直前に書かれたであろう
一九七七年十二月に発表された詩で

「私がさびしいのは」
「私が詩ではないから
 つまり私が私でないから
 ある日とつぜんに
 私はさびしいのだ」

と詠っている

■文月悠光(連載書評 文一の本棚)「石原吉郎『石原吉郎詩文集』」
 (『群像』2024年6月号)
■『石原吉郎詩文集』(講談社文芸文庫 2005/6)
■『石原吉郎詩集』(思潮社 現代詩文庫26 1969/8)
■『続・石原吉郎詩集』(思潮社 現代詩文庫120 1994/4)
■野村喜和夫『証言と抒情 詩人石原吉郎と私たち』(白水社 2015/11)

**(文月悠光(連載書評 文一の本棚)より)

*「石原吉郎の詩との出会いはよく覚えている。大学二年の頃、堀江敏幸先生の授業に潜っていたときのことだ。確か、戦後の日本作家の短篇をメインに扱う授業で、先生と共に作品を精読するのだった。

 堀江先生の教え方は、他の教員とは明らかに違うところがあった。一見作品の欠点と思しき部分も、「この作家の持ち味かもしれないね」と作家が書いたものを信じて受け入れるのだった。」

*「石原吉郎の詩は授業で紹介された作品の中でも異質であった。唯一の詩ということもあるが、彼の背負った思い体験と、硬質な詩語において際立っていた。一九一五年生まれの石原吉郎は、シベリア抑留の経験をもつ詩人である。シベリアの強制収容所に八年間抑留され、戦後もその体験を背負い続けた。異国で言葉を奪われた彼は、詩作によって自分のアイデンティティを取り戻したのだろう。

 最初に触れたのは、「位置」「葬式列車」という詩だった。詩に前者は十三行ほどの短い詩なのだが、それゆえに詩語の重みを感じた。私が胸打たれたのは、その詩行の一切の無駄のなさだった。」

*「戦後、石原は自分のノートにこのようにつづっている。〈体験とは、一切耐え切って終わるものではない。くりかえし耐え直さなければならないものだ〉と。詩「位置」には、まさに体験と向き合うことの壮絶さがにじむ。と同時に、他者の〈位置〉も認める広やかさがある。〈君は呼吸し/かつ挨拶せよ/君の位置からの それが/最もすぐれた史生である〉

 二十代の頃、何かの決断に迷うとき、私は石原吉郎の詩集を開いた。身体に芯が通ったように感じて、胸を張ることができたからだ。

〈なんという駅を出発して来たのか/もう誰もおぼえていない/ただ いつも右側は真昼で/左側は真夜中のふしぎな国を/汽車ははしりつづけている〉(「葬式列車」)

 詩に描かれているのは、栄養失調で汽車に運ばれる抑留兵の姿。戦後七十年を経た今、私たちは〈もう誰もおぼえていない〉歴史の続きを生きている。〈真昼〉からパソコンやスマホの画面を見て作業に没頭し、気づけば〈真夜中〉。そんな都市生活者の姿も、この詩には重なってくるようだ。

 一九五三年、抑留を解かれて祖国に戻った石原はすでに三十八歳。戦後の日本はすっかり様変わりしていた。抑留期間を終えて以降も、彼は己の〈位置〉を問い続けることとなったのだ。

 石原吉郎の詩や文章を、彼のそうした体験と結びつけずに読むことは困難だ。石原の生涯は、明らかに抑留のトラウマと共にあった。しかし、詩はときに、体験を離れた悲哀を帯びることもある。

 詩「泣きたいやつ」にはそんな悲哀を強く感じる。〈おれよりも泣きたいやつが/おれのなかにいて/自分の足首を自分の手で/しっかりつかまえて/はなさないのだ〉。〈泣きたいやつ〉という悲しみの根を自身の中に持つこと。どのようにしても癒やされないこと。その悲痛さを滑稽なまでに読者に曝け出した。」

*「『石原吉郎詩文集』冒頭には、「詩の定義」という文章が収められている。〈詩は、「書くまい」とする衝動なのだと〉。〈詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、「沈黙するための」ことばであるといっていい〉。〈いわば失語の一歩手前でふみとどまろうとする意志が、詩の全体をささえるのである〉。

 三十代になった今の私は、この言葉をどこか警戒する。失語するほどの危機に瀕しながら、それでも言葉にする、かろうじて言葉になったときに残るものが〈詩〉であり、それはいずれ〈沈黙〉にたどり着く————。この考えはあまりに究極的で、その究極性ゆえに感染力が強い。だからその魅力は理解しながらも、ある詩人の姿勢として素朴に捉えたい。当然だ。「詩とは何か」という問いに対する答えは、詩人によって全く違うのだから。

 「他者の詩を読む」という行為は、自分にとっての「詩とは何か(きっとこういうものだろう)」という価値観を揺るがされる体験といっていい。」

**(『石原吉郎詩文集』〜「詩の定義」より)

*「私には、私なりの答えがある。詩は、「書くまい」とする衝動なのだと。このいいかたは唐突であるかもしれない。だが、この衝動が私を駆って、詩におもむかせたことは事実である。詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、「沈黙するための」ことばであるといっていい。もっとも絶えがたいものを語ろうとする衝動が、このような不幸な機能を、ことばに課したと考えることができる。いわば失語の一歩手前でふみとどまろうとする意志が、詩の全体をささえるのである。」

**(『石原吉郎詩文集』〜「一九六三年以降のノートから」より)

*「沈黙するためには、ことばが必要である。」

「詩とは、〈沈黙するための言葉〉の秩序である。」

**(『続・石原吉郎詩集』〜大野新「初源からみる石原吉郎」より)

*「昭和35年6月1日発行の「鬼」26号のあとがきで石原吉郎は書いている。

 「詩がぼくを書きすてる日が、かならずある。おぼえておこう。いちじくがいちじくの枝にみのり、ぼくがぼくにみのり次ぐ日のことだ。(中略)殺到する曠野がぼくへ行きづまる日のために、だからいま、いかなる備えもしてはならぬ、いかなる日の備えもしてはならぬと。

 詩が石原吉郎を書きすてることはなかった。石原吉郎がいのちを書きすてた。」

**(野村喜和夫『証言と抒情』〜「Ⅱ変奏 六つの旋律/言語」より)

・沈黙から言語へ

*「この詩人のさらに特異なことは、言語をたえず失語や沈黙との関係において考えたことである。彼ほど失語や沈黙にさらされつづけ、脅かされた詩人というのもめずらしいのではないだろうか。じっさい、評論・エッセイの類を集めた『石原吉郎全集Ⅱ』の目次をみても、「沈黙と失語」「沈黙するための言葉」「失語と沈黙のあいだ」と、似たようなタイトルの文章が三篇もあって、いかに石原が失語や沈黙という問題に囚われていたかを物語っている。

 もちろん、どんな詩人の場合でも、発話の背景は沈黙である。沈黙を破って言葉は発せられ、発話が一応の終結をみたとき、ふたたび沈黙が訪れる。あるいは終結もみないうちに、発話を中断させるように沈黙がすべてを覆ってしまう。それは詩人の生涯にとってもそうだろう。たとえばランボーの沈黙といえば、この天才少年詩人がわずか二十歳で詩を書くことをやめてしまったその事実を、あるいはそれ以降の、詩から離れたままアフリカで交易にたずさわるようになったその驚くべき転身をさしている。そこで、なぜランボーは沈黙したのか、というような設問が立てられる。

 だが石原の場合は、言語と沈黙の関係はもっと同時混在的に、あるいは相互嵌入的に捉えられている。」

・イロニーとユーモア

*「石原吉郎におけるユーモア。それはもしかしたらこの特異な詩人をめぐる最重要なテーマのひとつかもしれないのである。」

*「比較的後期の作品においてさえ、ときにユーモアが噴出している場合がある。たとえば、『禮節』に所収の、「世界がほろびる日に」という詩————

  世界がほろびる日に
  かぜをひくな
  ビールスに気をつけろ
  ベランダに
  ふとんを干しておけ
  ガスの元栓を忘れるな
  電気釜は
  八時に仕掛けておけ

 世界の終末論的展望というキリスト者石原にとって避けられないテーマがいきなり提示され、かつまた、それがユーモアによって徹底的に相対化され無化されている。ちなみに、『現代詩度読本2石原吉郎』に収められた「代表詩50選」に、三人の選者(鮎川信夫、谷川俊太郎、清水昶)が一致して選んでいるのは、「葬式列車」とこの詩だけである。ある意味でこのたった八行の短詩は、石原詩のひとつの頂点であり、あるいは石原詩のあらたな可能性をひらく萌芽ともいえるだろう。それが晩年に十分に展開しなかったことは、いや、「日本的美意識」のほうへと奇怪にねじれてしまったのは、やはり痛ましいということになるのだろうか。

 しかしながら、石原にとってもともと詩とは、「沈黙するための言葉」である。晩年の彼の詩作が「詩がおれを書きすてる」ように衰微していったのも、言葉は最終的に沈黙にいたるということを、身をもって示したということなのかもしれない。」

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