見出し画像

武田 砂鉄 『ル・ボン『群衆心理』 』

☆mediopos-2479  2021.8.30

ル・ボンの『群衆心理』が刊行されたのは
一八九五年とのことだが
この後まさにここに書かれてあることが
繰り返しのように起こってしまっている

ひとの意識というのは
「じぶんで考える」ということを
じぶんの考えていると思っていることも
だれかに考えてもらっていることかもしれない
ということまでふくめて批判的に考えるのでなければ
集合的な意識という闇に呑み込まれてしまう
そのときその闇のなかでわずかに照らしてる
小さな灯りさえも吹き消されてしまうことになる

かつてのファシズムの時代がその典型でもあるが
じぶんこそはそんなファシズムに批判的で
民主主義的なな思考をしていると思っていても
その民主主義的な思考そのものが
隠れたファシズムともなっていることも多い

このル・ボンの『群衆心理』の時代以降
「群衆」をつくりだすメディアは
紙(新聞・雑誌)にラジオが加わりさらにテレビ
そしてインターネットが加わりながら
それぞれのメディアが巧妙に活用されてきている

「群衆」をつくりだすために
メディアは単純化されたわかりやすいメッセージを
都合の悪い情報はかぎりなく排除し時に批判しながら
繰り返し反復しながら意識下に刷り込んでいく

ひとの意識はほとんどが意識下で
集合的に働いているイメージでできているので
繰り返し刷り込まれたイメージは
批判的に考える力を失わせてしまう
そして「みんなもそう考えている」
「そういうものだ」と考えて疑わなくなる

かつては宗教的な教条が力をもっていたが
現代でもっとも大きな権威を
もっているのが「科学(主義)」だ
ほんらいの科学は常に認識に対して批判的であろうとするが
道具として用いられた「科学(主義)」によって
単純化された「客観的事実」なるものが
権威として掲げられると
それはまるで預言者の言葉であるかのような力を発揮する

その「わかりやすさ」の前では
あらゆる批判や疑念は封印されてしまい
省みられることはなくなる

悪いことに科学者自身がその権威に
善意で従ってしまっていたりもする
「群衆」も決して悪意ではなく
善意のもとで行動しているのだが
その善意こそが「群集心理」そのものとなり
その善意こそが魔境であることに気づくことができない

そこで働いているのは「恐れ」なのだろう
「わかりやすさ」が効果的に働くのは
そこに「恐れ」を忍び込ませておくことだから

じぶんの生や健康に対する恐れ
みんなと同じでないことへの恐れ
みんなに批判されるかもしれないという恐れ

おそらく現在いままさに
そうした『群衆心理』の実験の只中にある
そのなかで醒めていられるために必要なことを
ひとりひとりが模索していくことこそが必要なのだが・・・

■武田 砂鉄 『ル・ボン『群衆心理』 』
 (NHK1出版 NHK100分de名著 2021/8)

「  群衆は、歴史上に重要な役割を演じてきたが、この役割が今日ほど顕著なことはかつてなかった。
『群集心理』の序文に、著者
 一八九五年にフランスで刊行されたギュスターヴ・ル・ボンはこう綴っています。」

「本書が書かれた当時のフランスは、市民の蜂起と産業革命によって、社会が大きく変化していました。一般市民という「群衆」が急速に存在感を増しており、王侯貴族ではなく、群衆が歴史を動かすようになったとル・ボンは指摘します。そんな時代に、群衆とは何か、それはいかに形成され、どのような特質・心理・行動様式をもっているのかを解明したのが『群集心理』です。」

「そもそも「群衆」とは何でしょうか。ル・ボンがどのように定義していたのかを押さえておきます。

  普通の意味で、群衆という言葉は、任意の個人の集合を指していて、その国籍や職業や性別の如何を問わないし、また個人の集合する機会の如何を問わないのである。
 心理学の観点からすれば、群衆という語は、全く別の意味をおびるのである。ある一定の状況において、かつこのような状況においてのみ、人間の集団は、それを構成する各個人の性質とは非常に異なる新たな性質を具える。すなわち、意識的な個性が消えうせて、あらゆる個人の感情や観念が、同一の方向に向けられるのである。

 社会のなかで大多数を占めているというだけなら「大衆」という言い方もできるでしょう。(・・・)
 では、「群衆」とは何か。ル・ボンがそう呼んでいるのは、特定の心理作用を起こした人々です。どんな心理作用かというと、一つは「意識的個性の消滅」。いま一つが「感情や観念の同一方向への転換」です。
 ですから、「群衆」は必ずしも大勢である必要もなければ、一か所に群れ集まっている必要もありません。集団を構成する人々の考え方や感じ方が統一され、濁流のように一つの方向に向かっていく。つまり、心理的にシンクロした集団という意味で、ル・ボンはこれを「心理的群衆」と呼んでいます。
 心理的群衆のなかにあると、個人が単体で動いていた時には働いていた理性や知性、それぞれの個性といったものは鳴りを潜めてしまう。これは、どんな人にも起こりうるし、日常のなかで一時的に群衆化することもある、とル・ボンは指摘しています・
 集団が「心理的群衆」になり変わるには、スイッチとなる何らかの「刺戟」が必要です。それさえあれば、六人程度のグループでも心理的具温州になりうるし、日常の生活基盤を傾かせるような国家規模の大事件が起こると、ネットでつながっているだけのような「離ればなれになっている数千の個人」の心が強烈に揺さぶられて、心理的群衆の性質を具えることもある。」

「では、なぜ人間は集団精神に染まってしまうのか。その理由の一つとして、ル・ボンは人間の「無意識」の働きを指摘しています。

  精神の意識的生活は、その無意識的生活にくらべれば、極めて貧弱な役目をつとめているにすぎない。(中略)われわれの日常行為の大部分は、われわれも気づかない。隠れた動機の結果なのである。

 さらに、人間は「単に大勢のなかにいるという事実だけで、一種不可抗力的な力を感ずる」ものであり、そのため、理性的に考えて行動するより、無意識下の「本能のままに任せることがある」といいます。この指摘にたじろぐ人も多いのではないでしょうか。自分ひとりで考えたり、行動したりしている時は「こんなことをしてはマズい」という理性が働くのに、群衆のなかにいると話が違ってくる。」

(・・・)
  活動している群衆のさなかにしばらく没入している個人は(中略)あたかも催眠術師の掌中にある被術者の幻惑状態に非常に似た状態に陥る。

 催眠術にかかった人は、「脳の作用が麻痺させられてしまうので、無意識的活動の奴隷」となり。意思や弁別力を失ってしまう。群衆の一員となった人も、これと同じだというのです。しかも、群衆は全員が同じ暗示にかかるため、その相乗効果で、より強く暗示が浸透していくというわけです。

  群衆中の個人は、もはや彼自身ではなく、自分の意志をもって自分を導く力のなくなった一箇の自動人形とまる。

 なかなか恐ろしい指摘です。」

「ル・ボンは、心理的群衆の特性として、第二に「暗示を受けやすく、物事を軽々しく信ずる性質」を挙げています。
 暗示にかかりやすいのは、前述した通り「無意識的活動の奴隷」となっているからですが、昂奮した群衆が「何かを期待して注意の集中状態にある」ことも被暗示性を強めているといいます。催眠術と同様、暗示は人間から批判精神や観察力を奪い去ってしまうのです。そのため、群衆は物事を極度に信じやすく、また、「極めて単純な事件でも、群衆の眼にふれると、たちまち歪められてしまう」とル・ボンは断じています。
 第三の特性は「感情が誇張的で、単純であること」です。ル・ボンは、群衆が「微妙な差異(ニュアンス)を解し得ず、物事を大まかに見て、推移の過程を知らない」と指摘しています。つまり、ひとたび群集心理の暗示にかかると、自分で考えることができなくなるため、感情移入しやすい「わかりやすさ」を求めてしまうというわけです。」

「群衆の特性として第四に指摘されているのが「偏狭さと横暴さと保守的傾向」です。ル・ボンは次のように分析します。

  群衆は。弱い権力には常に反抗しようとしているが、強い権力の前では卑屈に屈服する。(中略)常にその極端な感情のままに従う群衆は。無政府状態から隷属状態へ、隷属状態から無政府状態へと交互に移行するのである。(中略)放任されていても、やがて自己の混乱状態に飽きて、本能的に隷属状態のほうへ赴くのである。」

「わかりやすい話でなければ聞いてもらえない。だから、どんなに複雑な事象や思想であっても、原型をとどめないほど単純な話にしてしまう。現代日本において、そのような例をあげていけばきりがありません。」
「単純化された思想しか受けいれられないということは、自分なりに考えて正しく推理する力をもたない、ということでもあります。」
「群衆は正しく推理する力をもたない。では、群衆はどうやって物事を考えているのでしょうか。ル・ボンは「群衆は、心象(イマージュ)によって物事を考える」と記しています。

  群衆は、心象によらなければ、物事を考えられないのであるし、また心象によらなければ、心を動かされもしないのである。この心象のみが、群衆を恐怖させたり魅惑したりして、行為の動機となる。」

「経験や道理は、群衆の集団精神の暴走にブレーキをかけうるものの、経験されたことの教訓は、わずか一世代で儚くなるとル・ボンは指摘していました。ものの道理はというと、残念ながらこれも「粗雑な連想しか理解しない」群衆には響かず、消極的な価値しかないといいます。」

単純化されたイメージ(心象)でしか物事を捉えられない群衆は、強い言葉や印象的な標語、魅力的な幻想に、易々と引き寄せられていく、とル・ボンは指摘しています。これは、集団を自分の思い通りに動かそうと企む人間にとってはたいへん好都合です。
(・・・)
 では。指導者たちは人々の考える力や意欲を奪うために、どのような手段を用いるのか。ル・ボンは三つの方法を挙げています。

  群種の精神に、思想や信念−−−−例えば、近代の社会理論のような−−−−を沁みこませる場、指導者たちの用いる方法は、種々様々である。指導者たちは、主として、次の三つの手段にたよる。すなわち、断言と反復と感染である。これらの作用は、かなり緩慢ではあるが、その効果には、永続性がある。」

「ル・ボンが批判しているように、教科書を鵜呑みにしている限り、群衆の精神は改善される見込みがない。裏を返していえば、群集心理の暴走を防ぎうる教育があるとすれば、、それは教科書のような「規範」に対し、違和感を投げかけるタイプの学びでしょう。
 物事を鵜呑みにしないこと、疑う視点をもち続けること、人と違う意見をもつことを恐がらないこと。これらは教育に限らず、あらゆる場面で大事なことだと思います。

(・・・)

 ル・ボンが指摘するように、私たちは誰でも群衆になりえます。知らず知らずのうちに、自分も群衆となって暴走してしまうかもしれない。今も、そのなかにいるかもしれない。その自覚がないことが、まさに群衆の特性の一つなのです・

(・・・)
 たとえば、会話や議論をする時は、「そこから何がこぼれ落ちるか」ということを常に考える。もっともらしく聞こえる主張は、必ずといっていいほど何かを省略していて、断言の体裁をとっています。わかりやすく導かれた正解や、正論とされている言説に対しては、「本当にそうなにか」「それで本当にいいのか」と、しつこく問い続ける。「わかりやすさ」の蔓延に対して「わかりにくさ」を許容する。
 繰り返し目にする主張は、誰かによって反復されている可能性を考える。あるいいは、同じ主張を反復することでその人が何を得ようとしているのかを考える。ル・ボンがいうように、反復された事柄は「無意識界の深奥部に、結局きざみつけられ」、「主張の発言者が誰であるかをも忘れ」る危険性があるため。同じことを繰り返し主張する人物には警戒する。
 周囲と同じ意見をもつことが多くなったり、考えが画一化してきたと感じた際には、誰かが先導した主張に感染していないか、いちど立ち止まって考える。あるいは「自分の意見」だと思っているものが、本当に「自分の意見」なのかどうかを自問する。(・・・)
 つまり、個人個人が「わかりやすさ」に抗うことが、群集心理の暴走を止めるためには必要なのです。」

「『群集心理』は、ある意味で危険な本です。実業家や政治家にとっては、群衆を思いのままに操る裏ノウハウ本になるからです。しかし、これまでにも言及したように、裏を返せば、私たち市民にとっては抵抗のための参考ともなりえます。SNSが発達した現代こそ、必読の一冊だと思います。(・・・)とりわけ二〇二〇年以来のコロナ禍にあって、周囲の動きや空気を互いに読み愛、疑心暗鬼になっている今こそ、価値を増しています。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?