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四方田犬彦『ハイスクール・ブッキッシュライフ』/中井 章子『ノヴァーリスと自然神秘思想―自然学から詩学へ』

☆mediopos2930  2022.11.25

『ハイスクール・ブッキッシュライフ』と題された
本書を偶然の必然のように古書店で見つけた

刊行されたのは二〇〇一年
四方田犬彦は高校生だった三〇年前に魅了された
世界の文学作品である
『ヨハネ黙示録』を皮切りに
ノヴァーリスの『青い花』
ロートレアモン伯爵『マルドロールの歌』
ランボー詩集
ニーチェ『悲劇の誕生』
プルースト『失われた時を求めて』
魯迅『故郷』
ジョイス『ユリシーズ』
カフカ『審判』
フォークナー『八月の光』
セリーヌ『夜の果ての旅』
ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』
ボルヘス『不死の人』
レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』
レアージュ『O嬢の物語』
を読み返しそこで立ち現れるものを書き記している

魯迅とレアージュを除けば
ぼくの手元にもいまも残っている本たちだし
当時刊行されることの多かった
「文学全集」に収められていた有名な「世界文学」である
おそらくいまはもうこうした「文学全集」は流行らず
Z世代にとってはこれらの多くが
名前さえ目にしたことのない作家であり作品かもしれない

Z世代がいまだ世界文学を読む機会があるとして
三〇年後に読み返す本のことを想像してみる
それはどういう作品となっていることだろう

さて本書のなかでとりわけ印象深く
共感を持ったのはノヴァーリスの章である

四方田犬彦は大学院で南原実のゼミに出席し
その頃『ザイスの学徒』という作品に出会う
そのゼミにはなんと中井章子!が席を同じくしており
その二〇年後にその中井章子から
『ノヴァーリスと自然神秘思想』を贈られ
「長らくわたしにとって謎であったことがらの
いくつかを、みごとに解明してくれた」のだという

四方田犬彦は映画に関する著書が多いが
それだけではなくその射程がずいぶんと深く広いことを
日頃から感嘆することも多いのだが
『ノヴァーリスと自然神秘思想』の視点が
共有されていることを知り
少しばかり感慨に耽っている

中井章子の『ノヴァーリスと自然神秘思想』は
ぼくの座右の書でもあるからだ
この一冊がなかったとしたら
ぼくのなかでも『ザイスの学徒』や
さまざまな『断章』として書かれてあることも
いまだ謎のままであったかもしれない

そういえばとくに
『ノヴァーリスと自然神秘思想』と出会った後
地層や鳥や虫や樹木やらに逢うために
ずいぶんといろんなところに出かけていくようになった
おそらくじぶんも『ザイスの学徒』になろうとして

■四方田犬彦『ハイスクール・ブッキッシュライフ』
 (講談社 2001.10)
■中井 章子『ノヴァーリスと自然神秘思想―自然学から詩学へ』
 (創文社 1998/3)

(四方田犬彦『ハイスクール・ブッキッシュライフ』〜「はじめに」より)

「これからわたしは、高校時代に読み耽った外国の文学作品を十何冊か選んで、もう一度読み返してみるという作業を自分に課してみたいと思う。この間にはすでに三十年以上の歳月が経過している。わたしはその間に大学を卒業し、いくつかの職業に就いたり、何度かにわたって海外で生活を行ったりもした。こうした体験が積み重ねられて、経験という名前を帯びるにいたったとき、それではそれ以前に熱中したことのある書物は、どのような姿をして再度わたしのもとに立ち現れることだろうか。ときどき思うことだが、現在の自分がものを書く姿勢を築くにあたって、もっとも根底的な選択を行ったのは高校生時代の読書が契機であったような気がする。」

(四方田犬彦『ハイスクール・ブッキッシュライフ』〜「ノヴァーリス『青い花』」より)

「ノヴァーリスのなかには、さらに多様な可能性が隠されているように思われる。そこには現在ではまったく分離してしまっって、相互に交渉を疎んじるようになってしまった人間の知、すなわち人文知と自然科学の両者の間に、もう一度、かつて存在していた豊かな連帯性を回復し、ポエジーの名のもとにそれらを統合しようという理想主義が明確に記されている。(・・・)わたしは今回、彼が『青い花』を構想する二年前に、ほとんど最初のメルヒェンとした執筆した『ザイスの学徒』を読み直して、その感想をまたしても新たにした。
 『ザイスの学徒』は、時代の場所も定かでない学堂の物語である。語り手はどうやらそこで学んでいる青年らしい。彼の眼を通して師や同窓の弟子たちとの対話が記されてゆく。師が説くのは、人間の手になる書物を離れ、自然こそを神秘の書物として探求すべきであるという哲学である。ただしその書物は平常の文字ではなく、深遠な秘文字で記されていて、それを読み解くには研鑽が必要である。加えて「われわれの見る一切のものは、すでに天国の略奪、そのかみの栄華の一大廃墟、恐るべき宴の残りもの」である。かつては星が人間であり、雲が草木であるといった、自然と人間との信頼に満ちた照応関係があったが、それは今では断たれてしまった。自然の喪失された精神の全体を認識するために、人はさらなる神秘的炯眼に訴えねばならない。時満ちたとき、未来の賢者は、子供が戯れるようにすべてを知るようになるだろう。」

「大学院に進学したわたしは、その関心の自然の延長として、ヤコブ・ベーメの研究家である南原実のゼミに出席することになった。ゼミの参加者はそれぞれ神秘主義者を一人ずつ担当し、それについて発表を行った。わたしはクエーカー教徒の起源と、ユングの『ヨブ記』解釈について発表したことを記憶している。わたしがノヴァーリスの『ザイスの学徒』という作品の存在を知ったのは、ちょうどその頃である。

 「この現象は、鳥の翼や卵殻の上に、雲や雪や結晶体や岩石の構造の中に、凍った氷の上や、山嶽や草木や動物や人間の内部や外面に、天上の月日星辰に、硝子板の上に瀝青をこすり合わせたときに、あるいは磁石の周囲に酔ってくる鑪屑の中や、偶然の出来事のふしぎな廻り合わせなど、いたるところに見かけられるあの偉大な暗号文字のひとつであるようだ。こうしたものの中に、ひとはこの不思議な文字をとく鍵、それの言語学を予感するのだが、ただこの予感は、いっこうにはっきしりた形をとろうとはせず、それ以上の良い鍵になろうとはしないように思われる。人間の感官には、一種の万能溶解液が注ぎかけられているらしい。彼の願望や思念は、ただ瞬時にだけ凝縮するように見える。こうして予感が起こってくるが、またまもなく一切はふたたび忽然と溶け去って行くのだ。」(山室静訳)

 ノヴァーリスが書き記したこの一節を、わたしはあたかも夜半に枕元の水を呑むような清麗な感情のもとに受け取った思い出がある。
 パラケルススの時代には宇宙と人間との照応関係が安定した秩序をもっていたたまに、自然をアルファベットで記された一冊の巨大な書物と見なすことができた。だが近代が開始され、ノヴァーリスの時代にまで下ると、この秩序は破壊され、自然の記号を自明のものとして読み解くことが困難となってきた。意味するものと意味されるものの間の関係が恣意的なものとされるに至ったのだ。そのため彼は、自然は秘文字で記されていると記さなければならなかった。この恣意性を克服するには、それを過度にまで高めることしかない。ポエジーが自然と人間の記号関係を和解させる手段として援用されるのはそのためであり、詩こそはすべてを統合する、高度な知のかたちとなることだろう。
 わたしはこうした認識に到達できたのは、南原ゼミでたまたま席を同じくした中井章子が、その後二十年の歳月をかけて完成した『ノヴァーリスと自然神秘思想』(創文社、一九九八)を、著者から贈られて読む機会があったからである。五百頁を超えるこの書物は、長らくわたしにとって謎であったことがらのいくつかを、みごとに解明してくれた。おそらく彼女もまたザイスの学徒の一人だったのだろう。わたしはなにやら秘教めいたところのあった南原ゼミを懐かしく思いだしながら、敬意をもってそう確信した。それではわたしもまた、その学徒のひとりであったといえるだろうか。わたしは自分がゼミのなかで、ただ一人映画にばかり心奪われていて、いっこうに神秘にも哲学にも縁のない分野に進んでしまったことに、苦笑めいた感想を抱いた。「ひとはさまざまの道を歩む。これを辿って比べあわせてみると。ふしぎな形象があらわれてくるのに気がつきであろう」とは、『ザイスの学徒』の冒頭の一節である。わたしが歩いてきた径がどのような形象をなしているのか。わたしはまだ自分に語ることができないでいる。」

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