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穂村弘「連載 現代短歌ノート二冊目 #036 何故、どうして」(群像 2023年10月号)

☆mediopos3221  2023.9.12

穂村弘の連載「現代短歌ノート二冊目」
「#036 何故、どうして」で
「アルプスの少女ハイジ」の主題歌
「おしえて」の歌詞(作詞:岸田衿子)が
とりあげられている

歌詞はほとんど覚えているほどなのに
その「何故」について
とくに意識したことはなかったが
そこでの「何故」には
一番・二番・三番ともに
二種類の「何故」が問われている

一番の歌詞でいえば
「くちぶえは なぜ
 とおくまで きこえるの」

「あのくもは なぜ
 わたしを まってるの」

前者の「何故」は
科学的な説明が可能な問い
穂村氏の表現では
「摂理へのダイレクトな問いかけ」であり
大人がそれに対して「因果関係の説明」で
答えることもあるような問いであるのに対し

後者の「何故」は
科学的には説明できない
ファンタジー的な問い
穂村氏の表現では
「くも」が「自分と同様の
命あるものと見なされている」問いである

小さな子どもにとっては
どちらの問いも
「謎」への問いとしては違いはないだろうが
それらの問いに大人が答えようとすると
その違いが意識されることになる

科学的な因果関係で対応可能な「何故」は
「心」に働きかけようとするとき
その無力を露呈してしまうことになる

たとえば親しい人の死に直面したとき
「なぜ死んでしまったのか」という「何故」に
具体的な死因で答えても
その「何故」に答えたことにはならない
訊きたい「何故」は物理的な原因ではないからだ
少なくともそうした原因を理解するだけで
「心」が納得できるわけではない

そしておそらくはどちらの種類の「何故」にも
同じく「心」が納得できるような「答え」を
ひとは求めている

さて小さな子どものころは
「何故、どうして」と
ことあるごとに訊くというが
成長するにつれて
そういうこともなくなっていくらしい

ぼくのばあいは
少し異なっているようで
いまに至るまでその「何故」は消えたことがない
おそらくその「何故」に答えようとして
いまも日々煩悶し続けている
むしろなぜ大人になると多くの人は
「何故」と問わなくなるのかのほうが謎である

いうまでもなく「科学」や「数学」も
それはそれで必要である
しかし現代のようにそれで説明することが
最終結論のようになったとき
それはただの「信仰」となってしまう

「あのくもは なぜ/わたしを まってるの」
「あのかぜは どこに/かくれて いるの」
「ねむるとき なぜ/ほしは そっと みているの」

そうした問いでしか
ひらかれない「心」の世界こそが
私たちの「生」にとっては重要である

「おしえて」「おしえて」を
ひとに投げるのではなく
自問自答しつづけることでしか
開示されない秘密がそこにはあるからだ

子どものころ
「おじいさん」に投げる「何故」を
「アルムのもみの木」に象徴される森羅万象や
それらをさらに包み込むものへの「何故」へ

それは「汝自身を知れ」へとつながるような
人が人であるための最も重要な鍵ともなる

■穂村弘「連載 現代短歌ノート二冊目 #036 何故、どうして」
 (群像 2023年10月号)

「小さな子どもの頃、何故、どうして、と親たちに訊きまくっていたらしい。見るもの聞くものすべてが謎に充ちていたのだろう。だが、成長するにつれて、いつの間にかそんな習慣は消えた。謎が解けたわけではない。無数の謎に取り囲まれた世界に慣れてしまったのだろう。大人になった今、何故、どうして、と尋ねまくる子どもを見て怯む気持ちになるのは、そんな自分に後ろめたさを感じているのかもしれない。
 こんなアニメーションの主題歌があった。タイトルは「おしえて」。一番の歌詞を引用してみよう。

  くちぶえは なぜ
  とおくまで きこえるの
  あのくもは なぜ
  わたしを まってるの
  おしえて おじいさん
  おしえて おじいさん
  おしえて アルムのもみの木よ
  ————「アルプスの少女ハイジ」主題歌「おしえて」

 作詞は詩人で童話作家の岸田衿子である、歌詞の二番、三番では「ゆきのやま なぜ/ばらいろに そまるの/あのかぜは どこに/かくれているの」「ねむるとき なぜ/ほしは そっと みているの/わらのなか なぜ/いつも あったかいの」という美しい問いが続いている。
 だが、と思う。どのような素朴な問いに対しても、いや、素朴であればあるほど答えることは難しい。すべての謎の根源には摂理、すなわち造物主による世界の初期設定があるからだ。子どもの、何故、どうして、に対する大人たちの答は、実は答ではなく、摂理の内容の因果関係の説明にすぎないのだ。
 例えば「くちぶえは なぜ/とおくまで きこえるの」という問いに対して、「音は空気の振動によって〜」とか「人間の聴覚は〜」とか「口笛の音域は〜」とか丁寧に言葉を尽くしても、それ自体が何故でどうしてなのかは誰にもわからないまま。だから、本来は摂理の設定者である神が直接答えるべきだろう。でも、それは望めない。
 改めて、この歌詞における問いの内容を見ると、一番、二番、三番ともに二種類に分かれていることに気づく。

 一番「くちぶえは なぜ/とおくまで きこえるの」
 二番「ゆきのやま なぜ/ばらいろに そまるの」
 三番「わらのなか なぜ/いつも あったかいの」

これらは摂理へのダイレクトな問いかけである。だが、以下はどうだろう。

 一番「あのくもは なぜ/わたしを まってるの」
 二番「あのかぜは どこに/かくれて いるの」
 三番「ねむるとき なぜ/ほしは そっと みているの」

 いずれも「くも」「かぜ」「ほし」が自分と同様の命あるものと見なされている。ラストも同様である。(・・・)
 だが、見方を変えると、「アルムの森の木」への「おしえて」は、命あるもの同士の交歓への信頼とも受けとれる。(・・・)もしそうなら、自然の一部である自分自身の中に。世界の謎の答を見出すこともできるのだろうか。」
 
◎アルプスの少女ハイジ OP 「おしえて」
歌:伊集加代子
作詞:岸田衿子
作曲:渡辺岳夫

〈おしえて〉

くちぶえは なぜ
とおくまで きこえるの
あのくもは なぜ
わたしを まってるの
おしえて おじいさん
おしえて おじいさん
おしえて アルムのもみの木よ

ゆきのやま なぜ
ばらいろに そまるの
あのかぜは どこに
かくれて いるの
おしえて おじいさん
おしえて おじいさん
おしえて アルムのもみの木よ

ねむるとき なぜ
ほしは そっと みているの
わらのなか なぜ
いつも あったかいの
おしえて おじいさん
おしえて おじいさん
おしえて アルムのもみの木よ

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