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東畑 開人『心はどこへ消えた? 』

☆mediopos-2552  2021.11.11

「心」という漢字は
孔子の時代にはなかった
その後編纂された「論語」には
「心」の文字が使われているが
孔子の時代にはまだ使われていなかったそうだ
たとえば「不惑」の「惑」ははじめ「或」だった
「或」とは境界を区切ること・限定すること
それを教えてくれたのは能楽師の安田登氏

本書『心はどこへ消えた? 』を読みながら
まず思い出したのはそのことだ

おそらく「心」は
「自我」「個」といったものが
生まれるように生まれてきたのではないか

心は消滅の危機にさらされているという
「物」が豊かだった時代には
「心」はまだ守られていたが
「物」にかえて「リスク」の豊かな現代では
「心」を守る場所が失われてきている

かつて「大きな物語」のなかで
人の「心」は守られていた
しかし「ポストモダン」の時代
「大きな物語の終焉」が盛んに語られていた後から
かつての「大きな物語」は
「個人の時代」の物語へと向かって行ったが
やがて「物」の豊かさが失われ
「リスク」の社会へと向かって行くなかで
かつて守られていた「心」は行き場を失っていった

そしてコロナに象徴されるような
別の「大きすぎる物語」がやってきた
コロナだからというのではなく
すでに「大きすぎる物語」はその前から
管理社会というかたちなどで
小さな心をかき消すように働きかけてきていた

「心」が生まれて2000年
それが「個」の種として
少しずつさまざまなかたちで育ってきていたのだろうが
いまだ「個」つまり「自我」は
大海原を航行するほどに育ってはいない
現代の私たちの「心」はまだ小さな小さな舟でしかないのだ
小さな舟は「大きすぎる物語」に翻弄されつづける

臨床心理士である東畑開人氏は
そうした翻弄されている小さな舟の語る
「小さすぎる物語の中の、これまた小さすぎるエピソードに」
立ち現れる「心」をみつけようとしている

わたしたちのそんな「心」は
これからどこへ向かっていくのだろう
大海原でも翻弄されずにすむような
たしかな「個」「自我」は育つだろうか

危機の時代はおそらく常に
可能性の種の蒔かれる時代でもある
「種」がたしかに育っていくためになにが必要なのか
「心」はあらたな姿を得ることができるだろうか

東畑開人氏の『居るのはつらいよ』は
このmedioposでもご紹介したことがあるが
氏の言葉は常に率直で切実である

「頻繁にかき消される」心
「何度も何度も心を再発見し続ける」ために
「私たちは話し合いを続ける」のだという
その小さな小さなエピソードに宿る心は
やがてたしかに育っていけるだろうか

「心はつらい」けれど
それでも海を渡っていかなければならない

■東畑 開人『心はどこへ消えた? 』
 (文藝春秋 2021/9)

「この本は2020年5月から2021年4月にかけて、週刊文春で連載した「心はつらいよ」をまとめたものだ。」

「春にはコロナがあった。だから、「コロナ禍の心」を書こうと思った。
 だけど、すぐにネタが尽きたから、夏にはなんでもいいから心を探すようになった。
 それでも心は見つからない。観念した私は、次第に「心はどこへ消えた?」と問うようになった。それが秋。
 冬の訪れとともに、わかってきたのは、大きすぎる物語によって、心がかき消されてしまっていることだった。そしてそれが、決してコロナのせいではなく、この20年一貫して進行してきたことに気がついた。
 心は今や小さすぎる物語になって、ひどく脆弱になっている。それがこの連載の最終盤、2度目の春を迎えたときの私の危機感だった。
(・・・)
 だからこそ、連載が終わった今、私は思う。
 心は何度でも再発見されねばならぬ。
 大きすぎる物語は心をかき消す。それは抗しがたい。
 それでも、私たちは心をもう一度見つけることもできる。小さすぎる物語が完全に消失してしまうことはないからだ。
 それでも個人は存在する。それぞれの複雑な事情は存在する。
 私はそういうものを取り扱う仕事をしている。

 この1年、コロナの最中でも、私はカウンセリングの仕事をし続けていた。
 東京の片隅にある小さな雑居ビルの、そのまた小さな一室でクライエントと会い続けてきた。
 来談が難しくなってオンラインになったクライエントもいたし、対面で通い続けたクライエントもいた。
 いずれにせよ、私たちは心について話し合うことを続けたのだ。

 そのとき語り合われたのは、大きすぎる物語ではなかった。コロナのことや、政府のことや、グローバル資本のことではなかった。もちろん、そういう大きすぎる物語も彼らの小さすぎる物語の遠景にはあった。
 だけど、結局のところ、クライエントたちが語り続けたのは身の回りの小さな人間関係のことであり、彼らが置かれているきわめて個別の複雑な事情であった。
 カウンセリングルームでは、大きすぎる物語に抗して小さすぎる物語が語られる、表ではできない裏の話がなされる。誰にもわかってもらえる気がしない自分だけの孤独が、小さな声で語られる。
 心は頻繁にかき消される。それをもう一度見つけ出す。だがそれもつかの間再び心は失われる。それでも、何度も何度も心を再発見し続ける。そのために、私たちは話し合いを続ける。

 だから、心理士として言わねばならぬ。
 それでも、心は存在する。
 どこに?
 エピソードの中に。

 クライエントの語る小さすぎる物語の中の、これまた小さすぎるエピソードに、彼や彼女の心が立ち現れる。ときにほのかに、ときにあざやかに。
 心とは何か。それは事典で定義されるものではない。心は理論の言葉で語られた途端に、灰色の標本になってしまう。大きな物語の中で心は窒息してしまう。
 そうではない。心はごくごく個人で、内面的で、プライベートなものだ。だから、心は具体的で、個別的で、カラフルなエピソードに宿る。緑なす文学的断片こそが、心の棲家なのだ。」

「本当は話を1995年から始める必要がある。その年に心の時代が終わり始めたからだ。」
「かつて、つまり1999年以前には、心はキラキラと輝いていた。
 河合隼雄という臨床心理学者は「物は豊かになったが、心はどうか?」と問いかけて、心に裏があり、深層があることを魅力的に語っていた。それが多くの人の心を打った。」
「なにより臨床心理学は大人気だった。」
「私が臨床心理学を学ぼうと決めた頃には心の時代は終わりかけていたけれど、それでも心がキラキラしていた時代の余韻はあった。」
「しかし、本当のところ、バスは行った後だった。
 私が大学に入ったのは2001年で、大学院に進学したのが2005年。臨床心理士の資格をとったのが2008年で、博士号を取って大学院を出たのが2010年、その後、私は病院やカウンセリングルームで、心の仕事をしてきた。
 その20年、私は徐々に心が逆風にさらされていると感じるようになった。かつてキラキラしていた心は、今ではほとんど人々の関心を集めることがなくなっていたからだ。」
「心の深いところを探索する心理療法は、かつては称賛されていたけれど、今では多くの批判にさらされるようになった。
 密室で二人、ナイショの話をするのは危険ではないか。時間がかかりすぎる。コスパが良くない。さまざまな批判があり、それらには確かに一理あった。
 その代わりに、グループになったみんなで苦しいことをシェアするやり方や、目標を明確にして、短期で効果を出すやり方が支持を集まるようになった。心の新層の魅力はひどく色褪せてしまった。
 それだけじゃない。心をケアするために、内面ではなく、外界を整備することの重要性が強調されるようになった。たとえば、住まいを提供したり、生活費を支給したり、労働環境を変えたり、問題は心ではなく、環境なのだと言われるようになった。メンタルヘルスの最前線は、経済的・社会的な問題へと移っていったのだ。」
「なぜだろうか? 何が起きたのだろうか?」
「もっともシンプルに語ろうとするのであれば、私はそれを日本社会が貧しくなったせいだと言ってみたい。
 そう、「物は豊かになったが、心はどうか?」というあの言葉には深い洞察があったと思うのだ。」

「心は物の反対である。ただし、そのためには物が「確か」でなくてはならぬ。
 だけど、そういうリアリティは消えてしまった。
 今でもお店に行けば物はたくさん並べられている。物自体は溢れている。でも、社会が豊かだとはとても思えない。
(・・・)
 今、豊かなのは物ではなく、リスクだ。私たちはあらゆるところにリスクが潜んでいる世界で、自己責任を背負って生きていかないといけない。
 「リスクは豊かになったが、心はどうか」これこそが現代のリアルだ。
 もはや物は「確か」ではない。社会は貧しい。外界はとても危険な場所になってしまった。
 すると、心は消滅してしまう。心は暴力にさらされたり、危険に取り囲まれると、フリーズしてしまう。あるいは外界のことを警戒し、モニターし続けているときには、内面のことなんて考えていられない。
 心とは「私」の中の鍵のかかる個室のことなのだ。周囲から脅かされることなく、そこに安心して一人でいられるときに、私たちは初めて自分を振り返ることができる。内面を感じることができる。心とは外界が安全なときにのみ可能になるものなのだ。」
「心の個室を可能にするために、まずは外界を安全な場所にするよう整備しなくてはいけない。心の内側ではなく、外界をケアする。それがリスクに満ちた世界の最重要課題になったのだ。」

「結局のところ、個人が脆弱になってしまったことが問題の本質だと私は思う。今私たちの個は脅かされていて、心の個室を維持することが難しくなっている。
 もしかしたら意外に思われるかもしれない。この20年、世の中では「個人の時代だ」と言われ続けてきたからだ。
(・・・)
 経済的には個人でお金を稼げる人が増えたのは事実だ。だけど、それは逆に言えば、個人がマーケットという大きすぎる物語に剥き出しでさらされる世の中になったということだ。個人の時代とは個人でリスクを引き受けねばならない時代なのだ。
 心の時代はまだ牧歌的だった。その頃、個人は直接リスクにさらされないように守られていた。
(・・・)
 心の時代とは、「ポストモダン」という言葉と共に(覚えておられるだろうか?)「大きな物語の終焉」が盛んに語られていた時代でもある。
(・・・)
 それから20年経った。もはや小舟で航海することは解放でも何でもない。望んでいようといまいと、誰もが小舟で生きざるをえない世界になったからだ。もう守ってくれる大船が存在せず、みんな小舟で大海に放り出されるようになった。
 私たちは自由になったのかもしれない。(・・・)だけど、本当のところ、私たちが感じているのは自由の心地よさではなく、脆弱さであり、不安だ。大船に守られることのないままに、大海原の圧倒的な力に脅かされるからだ。大きすぎる物語に私たちは剥き出しでさらされている。

(・・・)

 大海原をこぎ続けるには、小舟はあまりに小さすぎる。
 小さな物語は大船がまだ存在していた心の時代には、個人の人生を支えるだけのサイズに見えた。だけど、今はあまりに無力だ。それは実際のところ、小さすぎる物語になってしまったのだ。
 心はどこへ消えた?
 大きすぎる物語に吹き飛ばされた。
 コロナのせいではない。この20年、小さな物語はどんどん小さくなっていったし、それらを守るための風除けは次々と失われていった。
 だから、たとえコロナが終わったとしても、個人は脆弱なままだろう。
(・・・)
 私たちを取り巻く物語はどんどんと大きくなっていって、私たち自身はもっともっと小さくなっていく。そういう抗いがたい流れに私たちは巻き込まれている。」

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