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篠原雅武『人新世を生きる』

☆mediopos-2241  2021.1.4

オゾン層研究でノーベル化学賞を授賞した
大気学者のパウル・クルッツェンが
「今はもう完新世ではなく、
すでに人新世のなかにいる!」と
メキシコで行われた地球科学の会議で
2000年2月に叫んで以来
正式に認証されているわけではないが
「人新世(アントロポセン)」という言葉を
目にする機会が次第に増えてきている

人新世が地質年代として認められるということは
人間の活動が地質年代の指標として
意味を持ちえているということになる

地質学的云々の観点は別としても
いまや人間が地球環境に
大きく影響していることは明らかで
むしろ問題となるのは
これから人間はどのような形で
地球環境に関わっていかなかればならないのか
その問題について具体的に検討をしていくことだろう

そのときすでに
人工環境と自然環境という区分は
切り離して考えることはできなくなっている

自然環境のもとに人間は生きてきた
つまり人間は自然環境によって作られてきたが
その際に人間は自然環境も作り変えてきている

そしてこのまま環境の破壊が進んでいけば
人間はこの地球に住めなくなってしまう
人間という種が終焉を迎えるということだ

いずれ地球そのものも終焉を迎えるので
そのずっと前に人間がいなくなるということになるが
人間という種が終焉を迎える前に
どのようにこの地球のなかで
生きてゆけるかということになる
それが人新世という地質年代の重要な課題である

霊学的にいえば
人間という存在が
地球という惑星を現出させているので
人間のいない地球という惑星は存在し得ないので
「人間以後」の地球は意味を持ちえないともいえるが

とりあえず「私」が身体を失って地球を去っても
地球という居住場所は
人間という種が存在するかぎりにおいて
その存在を続けていくだろうということはいえる
問題となるのは現在の「人間」が
地球とともにどのように変容していくかということだろう

その観点でいえば
「人新世」ということで
人間が地質を含む環境を
地球とともに生きていこうとする
つまり未来を開いていこうとするときの態度であるといえる

篠原雅武はティモシー・モートンという
オブジェクト指向の哲学者が
人間存在の条件を説明するときに使う
脆さと繊細さを意味する“fragile”から示唆を受け
「脆くく繊細でないかぎり、ものは存在できない」
「脆くて繊細だからこそ、存在できている」と論じている

「人新世」という概念は
ある意味で量子力学でいる観察者効果
つまり観察するという行為が観察される現象に変化を与える
という視点と同期しているともいえる

存在しているということは
極小の世界はもちろんのこと
環境という大きな世界においても
変化を与えているということである

そして与えたものが与えられるという
カルマ的連関のもとでそれをとらえるならば
人間は地球とともに
みずからを製作しているということにもなる

実際アストラル界における現実は
みずからが与えた感覚・感情が
外から与えられるように外界が現れるということであり
地上ではそれがタイムラグを伴って
自らが行った行為が
忘れた頃に与えられるということになる

したがって
「脆く繊細でないかぎり、ものは存在できない」
ということを別の言葉でいうとすれば
みずからと環境を「脆く繊細」なものとして対することで
みずからと環境もまたそれに応じた存在として
現象化し得るようになるということになるだろう

つまり人間はこれから
どのようにありたいのか
そのことこそが問われている

■篠原雅武「脆さと定まらなさ、自己・他者・ものたちのある場所」
 (『談』no.119 2020.12 TASC 所収)
■篠原雅武『「人間以後」の哲学/人新世を生きる』(講談社新書メチエ 2020.8)

(篠原雅武「脆さと定まらなさ、自己・他者・ものたちのある場所」より)

「・・・・・・先生はこの『「人間以後」の哲学』というご著書の冒頭に、この本の課題として、脆さと定まらなさという実存感覚(sense of fragility)、人間的な尺度を離れたところに拡がっている世界のなかの一部分として生きるようになっているという感覚の内実を問うことを第一番目に挙げておられます。この「脆さと定まらなさという感覚」、という言葉はとても印象的です。しかしまた一方で先生は、やはりこの本の冒頭でモートンの「存在するためには、ものは脆くて繊細でなければならない」という言葉を引用しつつ、「脆く繊細でないかぎり、ものは存在できない」、脆さと繊細さがものの根拠であり、「脆くて繊細だからこそ、存在できている」と書かれていますね。

脆いからこそ、新しくなり得るのかもしれませんね。脆いからこそ、未来が開かれる。脆さは不安定であり、頼りない状態でとても心細いですが、すでに定まっていて思考の仕方や行動様式を無意識の内に縛ってくるものから自由になれるということでもあって、それゆえに変わることがでくきる契機をはらんでいる。ここまでお話ししてきたように、僕は今ある状態を、人間が生きている世界(human world)と、それと対置される自然世界(natural world)の間のせめぎあいとして見ているのかもしれませんが、プラネタリーな意味での自然世界は、アーティフィシャルに構築されてきた人間世界を時に破壊し、覆し、脅かす、つまり不安にする。けれど人間世界が安定的に強固であれば、ずっとそのままで、変化はないのかもしれない。現在は永遠に続くものとなり、新しい未来、今とはまったく異なる未来というものの可能性が塞がれてしまう。ですから、ラディカルに新しいことが起こり得る条件として、脆さがあり、不安があるのかな、と思います。われわれが今存在している状況はなんら強固なものではなく、常にそうした脆く不安であることを意識していないと、われわれ自身の未来は開かれていかないのではないかと思うわけです。完新世から人新世への移行期というのは、多分、これまで人間が経験したこととのアナロジーでは理解できない。歴史的な知というものがまったく役に立たなくなって、もっと想像的というか、SF的な発想力、未来を描こうとする思弁の力が大切になる。

・・・・・・人工環境と自然環境の、その間に、常にわれわれはあり続けている・・・・・・。

 いや、今は便宜的に人工環境と自然環境を対置的にお話ししましたが、先ほどもお話ししたようにアーティフィシャルなものがどんどんと自然環境に侵食し、一方自然環境も人工環境を侵食しているように、この二つは分けられず、やはり入り混じっているのだと考えたいと思います。
 フラジャイル、すなわち脆さということには、そこと接する他なる世界と相互に浸透する余白があるということをも意味しています。その緩やかさ、曖昧さが重要なのではないでしょうか。少なくとも近代以降のアーティフィシャルな人間世界は、こうした脆さのもつ緩やかさを締め出し、徹底的に固定的で厳格にヒューマナイズされた二項的対立をめざしているように思われます。そもそもアーティフィシャルとナチュラルを明確に線引きしてしまうのが間違っているのではないでしょうか。」

「自然環境は保護されるもので、人間世界はそれを大切に扱いましょうとか、それは人間世界の外部なのだからみだりに手を出してはいけないと放置することも、どちらも二つが分断していることを前提としていて、コントロールするか優しくするか、それとも手放してしまうか、単にオペレーションの違いでしかない。考え方や立ち向かいは方は同じで、ちっとも変わっていない。そういう古臭い世界像を、ここで一度ご破算にしましょう、と言いたいんですね。」

(篠原雅武『「人間以後」の哲学』より)

「私たちが経験しつつある人間の文明の危機は、人間の生存の危機にかかわる事態だといえるが、人間が消滅の危機にさらされることで、逆説的にも人間は地球的な条件の下で住みつく存在であることが見出されていく。重要なのは、人間をただ生き延びさせることだけでなく、人間を生気ある人間にするもの、人間として生かすものとしての実存的な条件を新たに発案することである。人間が消滅してもなお残りうるものとしての地球的条件が見出されるなか、そこにおいて、人間をも一部分とする諸存在の共存形式を新たに発案することである。」

「モートンは「存在するためには、ものは脆くて繊細でなければならない」と述べている。脆く繊細でないかぎり、ものは存在することができない、ということでもある。脆さと繊細さが、ものの存在の根拠である。脆くて繊細だからこそ、存在できている。脆さと繊細さにおいて存在することは、ともすれば壊れてしまう状態で存在するということでもある。世界は、脆さにおいて存在している。私たちは、世界の脆さのリアリティを、私たちがいるところとしての場所にかかわる事態として経験している。人間の言葉による把握に先行する。事物を素材に構築されたところととしての場所そのものの脆さとして、経験している。そして世界は、人間的な尺度を超えた時空において、人間もまた偶々住みつくことのできるところとして成り立っている。この状態を、どのように考えたらいいのか。この状態への洞察は、人間生活を営んでいる私たちにとって、どれほどの意味があるのか。」

「「人間以後」を問うことは、人間の消滅を意味しない。それは、世界の変容とともに、人間のあり方もまた変わってしまったことを認め、そのうえで、人間がどうなっているのか、人間がどのようなものとして生きるのかを問うことを意味している。」

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