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紅野謙介「検閲は転移する」(「新潮2023年04月号」)

☆mediopos-3044  2023.3.19

「検閲はなくならない。過去のものでもない。
いつでも、いたるところに検閲があり、
それを支えるシステムが動いている。」

まさにそのことを実感せざるをえない事態が
全世界的に起こっている

日本でもかつて戦意昂揚のため
メディアは大本営発表を繰り返してきたが
それが戦後なくなったわけではない
実質的にアメリカの占領地のままであるがゆえに
その意向に沿った情報統制が行われている
メディアはその(本)質を変えてはいない
顔がすげ替わっただけである

始末の悪いことに
「敗戦前の帝国日本は伏字や削除など
自主規制の痕跡を紙面に残していた」が
「アメリカはその痕跡自体をも消したのである。」

つまり検閲されているということそのものが
見えにくくなってしまっている

ここ数年その検閲の事実が
あからさまに表面化されてきているが
「民主主義や言論の自由」は疑われてさえいない
あるいは疑っていたとしても
それを守っていると錯誤している自称知識人の多くは
意識無意識を問わずみずからがすすんで
その検閲に加担するようにさえなってしまっている

「民主主義や言論の自由」というだけで
目が眩まされてしまっているからでもある
じぶんではそれとしらずに権威主義に陥っているのである
そこで使われた検閲ワードの典型が「陰謀論」である

「陰謀論」とされた言論は
そのフィルターによって検閲され
あるいは否定的な報道だけがなされ
リアルタイムで情報収集可能なインターネット上でも
それらの言論は「事前検閲」「事後検閲」され
表からその多くは姿を消し
そこから情報を収集することは困難となった

しかも「検閲」によって海外からの情報も
その多くがほとんど報道されることのないままに
教育的効果の大きな日本ではまさに
その「検閲」が大きな効果をあげている

検閲されているということそのものが
見えにくくなってしまっている昨今では
その教育的効果は惰性的に持続的することになる

重要なことは
ある視点がクローズアップされるとき
その逆の視点をも検討可能にしておくことだろう
とくに政府やメディアが強く啓蒙しようとしている際には
そのことは必要不可欠なものとなる

アンチの視点を信じ込むということではなく
両者の視点を検討するために
できるだけ多視点的な情報を可能なかぎり見て
じぶんなりの視点と態度をとるようにするということだ

「検閲はなくならない。過去のものでもない。
いつでも、いたるところに検閲があり、
それを支えるシステムが動いている。」

まずはそのことを忘れないことだ
教育に依存しやすい人ほど
検閲されていることに気づかないまま
与えられている情報だけを鵜呑みにして信じてしまうから

■紅野謙介「検閲は転移する」(特集・ゲンロンは自由か? 特別寄稿)
 (「新潮2023年04月号」 新潮社 2023/3 所収)

「検閲はなくならない。過去のものでもない。いつでも、いたるところに検閲があり、それを支えるシステムが動いている。法的根拠はなくとも、それを欲する権力はつねに稼働している。検閲を考えるときに抑えておかなければならないのはまずこの認識である。

 乱暴ではあるが、ざっくりと日本の検閲の歴史をふりかえってみよう。

 近代以降、日本政府は「新聞紙法」や「出版法」の原型となる条例類を作り上げ、「事前検閲」ではなく、出版後の段階でチェックを入れる、納本制による「事後検閲」という方法を採用した。しかし、この「事後検閲」は、必ずしもジャーナリズムによって闘い取られたものではない。ヨチヨチ歩きのメディアに対して、内乱状態を抑えたからこそ、先回りして欧米の価値観に合わせるために政府によって付与されたのである。したがって、日本が台湾や朝鮮半島などを植民地として領有するようになると、その方針は相手によって変えられることになる。日本を宗主国として仰がなければならなくなった新たな植民地では当然ながら権利の回復と国家としての独立が叫ばれる。したがって、そこでは多く明治以前と同じ強烈な「事前検閲」が強制された、

 一方、「内地」では、内務省の検閲官も新聞社や出版社の編集者も「事後検閲」のルールをめぐって合意点を探ろうとした。刊行後とはいえ、発売頒布禁止(いわゆる発禁)や発売停止などの処分が下されれば経済損失は莫大なものになる。当選、検閲をめぐってジャーナリストや作家の一部は抵抗する。そうした動きを一方に見て、破局的な事態をさけようとする動きが出て来る。そこに検閲官と編集者のあいだに一種の共同性が生まれ、互いに補完しあう機能分担がなされた。伏字はここで機能した。

 伏字は出版社・編集者による自主規制である。内務省による検閲の基準やルールは明示されないことを旨としていたから。出版社・編集者は自分たちの経済活動を成り立たせ、発禁は削除による商品の棄損をさけるために、基準やルールを忖度し、自発的に禁忌にあたると推測されることばを消していく。それは伏字である。著者もまた掲載不可を回避するために、そうした提言に従っていた。」

「アメリカが言論の自由という理念を掲げながら、それと裏腹な排除と抑圧の現実政治をとってきたことは、サッコとヴァンゼッティ事件を見るまでもない。宣伝やプロパガンダを戦略的に取り入れた点で、冷戦で敵対するアメリカとソビエトは共通していた。日本における占領政策で、民主主義や言論の自由を教えるとともに、反米的な言説や原爆に関する報道を、「事前検閲」で徹底して規制した。「事後検閲」と謳いながらも、敗戦前の帝国日本は伏字や削除など自主規制の痕跡を紙面に残していた。アメリカはその痕跡自体をも消したのである。

 染料の終結が近づくとともに、日本政府は言論の自由を約束する。検閲は一切しない。事前検閲はおろか、事後検閲もないというのが政府のタテマエである。その代わり、業界団体の編成を進めた。一九四五年、敗戦直後に日本出版協会が発足するが、イデオロギー闘争を繰り返して分裂。分派した出版社によって日本自由出版協会が翌年に発足、この延長に一九四五年、社団法人全国出版協会が結成され、現在の日本雑誌協会・日本書籍出版協会といった、雑誌社・出版社の団体として主流になっていく。一九四六年に発足する日本新聞協会にしても、記者クラブ制度を作り上げることによって、公式・非公式を使い分けた政府の情報通達に応じた報道体制を確立する。

 情報統制は、検閲官によって行われるのではなく、民間でなされる。
 (・・・)
 つまり、依然として検閲はあり、それは自主的になされているのだ。」

「戦前の検閲でチェック対象となる二つの柱は「安寧秩序の紊乱」と「風俗壊乱」とされた。政治と性表現に焦点があたったのは、その二つが密接に関わっているからである。大逆事件の前後には、自然主義文学がターゲットとなったが、それは必ずしも自然主義だからではない。自然主義が人間の自然として性に注目したことによって既存のジェンダーとセクシュアリティが攪乱されると判断したからである。」

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