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吉増 剛造『詩とは何か』

☆mediopos-2563  2021.11.22

詩というのは
時間のような存在だ

アウグスティヌスが『告白』で
「いったい時間とは何か。
誰も私に尋ねないとき、私は知っている。
尋ねられて説明しようと思うと、知らない」
と語っているように

わたしたちはほんらい言葉とともにあり
言葉は存在の根源から泉のように湧きいで
だれでもがそれで潤されているはずなのに
言葉の根源について問われると
だれもそれに答えることはできない

言葉の根源にあるものこそが詩
あるいは詩が生まれてくる源

しかしながら
いまや八二歳となった
老練にして常に童心のようでもある詩人
吉増剛造は
「苦しい」「嫌でしょうがない」といいながら
(それを語ることの不可能性故にだろうが)
それでも「詩とは何か」について
吉増剛造にしかできない仕方で答えようと試みている

詩とはベンヤミンが翻訳について論じている
「あらゆる言語が到達しようとして志向する」
その極にある「純粋言語」へと通じる道であり
「根源の心に向かっていく」ことだという

それは「詩情」とか「詩心」とかいったものよりも
「はるかに底のほうの、「かたち」にならない、
名づけがたい根源的なところにあるらしい」
「思いの塊り」をつかまえるよう
「わたくしたちの心が自分に課している」もので
それは芭蕉が「風雅の誠を責める」
という言い方をしたことにも通じている

「課している」「責める」というのは
その「一瞬の直感」をつかまえるためには
間断なく心を寄せていなければならないからだ
心はすぐに凡庸な流れのなかに埋没してしまう

詩人にかぎらず
またあらゆる芸術家にかぎらず
言葉を使っている存在である以上
(つまりは人間であるかぎりにおいて)
ほんらいはだれもがどこかで
「根源の心」であるともいえる
「純粋言語」へと向かおうとしているといえる

しかしその道は
ハイデガーもいう『杣道(そまみち)』
「どこにも行き着かない径」にほかならない
つまり根源について問われると
だれもそれに答えることはできなくなる

それにもかかわらず
奇蹟のように訪れる
光と言葉を待ちつづけるように
「自分の心を間断なく捉え直してい」く
そのことだけが「根源の心」への道となるのだ

■吉増 剛造『詩とは何か 』
 (講談社現代新書 講談社 2021/11)

「「詩の心」、「詩情」とか「詩心」とか、それから「ポエジー」あるときには「ポエム」とか、そんな言い方をしますけれども、それよりもはるかに底のほうの、「かたち」にならない、名づけがたい根源的なところにあるらしいものの、「思想」というよりも、「思いの塊り」といったほうがよいようなもの、それの、そのはたらきのようなものをこそ、そして、そのはたらきを促す、あるいはさそう僅かな力をこそ、つかまえなければならない。それが大戦争、敗戦、そして3・11という大災厄を経て、わたくしたちの心が自分に課している、「課している」という言い方が、たった今できましたが、そうしたある、「運命」という言葉を使うのはとても重いのですけれども、そういうところへと躙り寄っていくための、「詩」とは、細い道のひとつなのだろうと思います。ですから、「和歌」や「俳句」やあるいは「小説」も含めて、戦前、戦後すぐまでの、「かたち」のある芸術活動とは、今や「詩」は、まったく違うものになってきています。そうひとまず申しあげておきたいと思います。
 わたくしは日本語で書くしかありません。しかし皆さんご存じのように日本語というのは、ひじょうに底の深い多岐にわたる言語の層を、その奥底に持っている言語です。時として、中国の唐や宋の時代、明の時代、清の時代、あるいは沖縄、アイヌの方々の言語、あるいは韓国の方々の言語が波頭のように、そこから聞こえてくるかもしれません。しかも、わたくしたちが長い間、命を永らえておりますこのアジアという地域はアフリカにも似て、太古からの、ヨーロッパ文明が到達をしたところとはまた違う深い時間を、わたくしたちの身心の奥底の、何か身体と心のしぐさのようなものとして持っていて、それにもつねに訊ねなければならないのです。」

「たった一人で鉛筆やシャーペンやボールペンを持って、紙の前で、さあ、「詩」を書きなさいと言われますと、きっとだれでもが、もう頭が真っ白になってしまうでしょう。しかしそれこそが、じつは大切なことなのです。ドイツの非常に優れた批評家でした、ヴァルター・ベンヤミンという人が翻訳について論じながら、あらゆる言語が到達しようとして志向する、「志し」、「向かおう」としている、その極にあるのは、「純粋言語」であるという言い方をしていました。その想定されている「純粋言語」に向かって努力するように、でしょうね。そういうところにわたくしたちは、いまや立たされているのです。
 ですから、これは失敗とか成功とかいう技術の問題を超えた、心がしめすべき態度のようなものでしょう。そこでふっと思い浮かべますのですが、芭蕉さんが、「風雅の誠を責める」という言い方をしていました。古臭い言い方ですけれども、その「風雅の誠」というものは、じつは誰にも見えていないものなのです。それは「ポエジー」と言うこともできない、「詩」と言うこともできない、もしかすると「歌」というものをも超えているものかもしれない、そういうところに心を寄せていくことを課せられた、それをまあニーチェだったら、「人というのは間断なく何かを超えていくものだ」って、ふっと、言ったことがありましたけれども、植物や動物も宇宙の中で定められた、あるいは間断のない変化する生を受けていることでしょうけれども、特に「言葉」という不思議を持たされた人間という存在が、必ずしもキリスト教の言う「原罪」というのとは違いますけれども、それともどこか似たような、「間断なく根源の手が働いている」、・・・・・・これは吉本隆明さんについて名づけた言い方ですけれども、・・・・・・根源の心に向かっていく、ということなのかもしれません。」

「この「純粋言語」というのは、学問、思想、芸術の歴史、あるいは詩の歴史から紡ぎ出されてくるものというわけでは必ずしもなくて、誰しもが持っています。もう苦しんでどうしようもないような、そんなときにひらめく稲妻のような、一条の弱々しい、幽かな、貧しい街の夜の光のようなもの。こういう、まあ昔だったら「一瞬の直感」というような言い方をしました。そうしたものに心を寄せることを、間断なく心に課する、課するっていうのは「言偏に果てる」と書きますね、そういう、心にその荷を負わせる、責任を負わせる、そうしたことに、「詩」は存在しているのだろうと思います。
 それはどういうあらわれをしてくるのか。ときには見事な作品に結実することはあるのかもしれませんけれども、それはむしろ奇蹟です。また、狭い意味での「詩」の中だけにではなく、絵心や歌のこころ、パウル・クレーやカンディンスキーやゴッホ、あるいは浦上玉堂や雪舟や、あるいはカフカ、またあるときには蕪村のような、言語と接する「しるし」の中にもおそらくは、「純粋言語」への道は、わずかに見えているはずなのです。
 (・・・)そういう人たちの目指しているものの果てに、やはりわたくしたちの心がどこかで求めているらしい「純粋言語」に通じる道があるらしいことにも気がついておりました。」

「わたくしは哲学書を読むのが好きで、ニーチェ、キルケゴール、ウィトゲンシュタインなどの本を折にふれひらいておりますが、中でも特に、・・・・・・政治的なスタンスの問題などもありまして、最近、あまり評判がよくないようですが、・・・・・・マルティン・ハイデガーをしばしば読み返しております。詩の本源についての哲学的な考察としては、やはりハイデガーが言ってることが、わたくしの考えておりますことに一番近いように思うのです。そのハイデガーの著作に、日本語のタイトルを『杣道(そまみち)』というものがあります。
 杣道、森の中の下草径のようなものです。森の中で下草に覆われて、ほんとうにあるかないかもわからない、あるいはどこに続いているのかもわからない、細い細い、そんなあるかなきかの「通路」。恐る恐るその小径をたどってゆくと、ふっと、森の中の小さな開けた場所に出ることがある。その「開けた場所」のことをハイデガーは「真理」の比喩として使っているようなのですが、真理という大げさなことばはわたくしにはむしろ避けたいと思うのですが、やはりなにかそのような、「ほんとうのこと」への小さな小さな、細い小径をたどる行為に、(・・・)わたしくしが試みますことは、通じるような予感が今、いたしてきております。
 でも、この『杣道』、フランス語のタイトルは、またそれを日本語に直しますと、「どこにも行き着かない径」というのですね・・・・・・。」

「おそらくベンヤミンがみごとに言いました「純粋言語」ということばでもまだ十分には届くことのできない、・・・・・・そしてこれを決して「純粋詩」という枠組みにはとどめない所にこそ「詩」はあるのだという予感がわたくしはいたしております。「純粋言語」のさらに下へと降る坑道を掘る、あるいはそれは、「+」ではない、「−」の存在を摑もうとする、基本的には実現の不可能な、空しい行為なのかも知れません。ここまで考えたり、思ったりすると、これはもう危ないことなのかも知れません。しかしそれでも何とかそこにまで届こうとしてもがく、悶える、そのような行為が、あるいはその行為によって出来上がった「作品」の中にではなく。そのもがいている行為そのものの、逡巡、躊躇の中にこそ、ふっと一瞬、貌を顕すのが「詩」というものなのかもしれないのです。
 (・・・)鎌倉時代に道元という禅の偉い人がいましたけれども、この人は宋の時代に中国に渡って、中国語を勉強して、宋の言葉で思考していたんですね。日本に帰ってきて、曹洞宗を開きましたけれど、その道元が、『正法眼蔵』野中で「ものを考えるときには、笊(ざる)で水を掬(すく)うごとくにせよ」と言っているんです。
 ふつうでしたら逆ですよね。「笊で水を掬うごとく」では、もう水が漏れてしまいます。しかし、その漏れていく水の音に耳を澄まして、そのときを考えていくこと、すなわち、ものの役に立つとか目的があるとか、そうしたことを超えて、ベンヤミンの言う「純粋言語」のようなところに、あるいはそれを超えたところに向かって自分の心を間断なく捉え直していく、そういうことを続けていくことが、やはり必要なようです。」

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