小松 貴『昆虫学者はやめられない』
☆mediopos2791 2022.7.9
「職業」と「生き方」との関係は
人それぞれである
本書の著者である小松貴氏は
「昆虫学者とは、「職業」なんぞではなく、
「生き方」ではないのか」という
「好奇心のおもむくままに好き勝手にやる研究」が
「生き方」となれるというのは素晴らしい
とはいえそれなりの困難さはあるだろう
ぼくのばあいは
もちろん昆虫学者という「生き方」ではないけれど
ぼくなりの「生き方」がある
ある意味で小松貴氏のいうような
いってみれば「裏山」に魅了されるような
そんな「生き方」
そして「わからないことをわかりたい、
その好奇心を持つ限り、
人は誰でも「昆虫学者」になれる」ようなそんな
ぼくのばあいそれは「昆虫学者」のようには
名づけることができないものだ
じぶんでもいまだ言葉にはできないけれど
否応なくそうせざるをえないような「生き方」である
「職業」と「生き方」の関係は人の数だけあるだろう
それぞれにその人なりの意味があり
そのかたちのなかで学ぶ必要のあることがある
たとえば「職業」が「生き方」とむすびついている場合
それは幸福なことだろうが
ときにはその幸福ゆえにひとを無意識のうちに
閉じ込めてしまうこともあるかもしれないように
ぼくのばあい
「職業」と「生き方」はかけ離れていて
「職業」に「生き方」は持ち込まず
「生き方」に「職業」は持ち込まないようにしている
ある意味で中心がふたつある「楕円」のような生き方だ
もちろんほんらいの中心はひとつなのだが
あえて別の中心を設けて楕円を生きている
「職業」は「生き方」だけでは得られないものを
じぶんにとって異質なもののなかから得るためのものだ
たとえば生活費を得ざるをえないのはもちろんのこと
いわゆる「世間」の「常識」がどういうものかを知り
それに対して意識的でありながら
でき得るかぎり距離をとれる方法などを
否応なく模索するための砥石になってくれるのだ
異質なものだからこそそれが可能になるところがある
すっかり「昆虫」の話とは離れてしまっているけれど
「昆虫」に興味をもつこともまた
ぼくにとって「生き方」のひとつにほかならない
そうしたひとつひとつが
たいせつな「生き方」の星座をつくってくれるのだ
■小松 貴『昆虫学者はやめられない』
(新潮文庫 新潮社 2022/6)
「しばしばテレビのニュースで、「子供たちが将来なりたい職業○位に、学者・研究者がランクイン……」などと話題になるが、私は思うのである。そもそも昆虫学者とは、「職業」なんぞではなく、「生き方」ではないのかと。
もちろん、どこかの大学やら研究所やらに雇われて、生業として研究業に携わる人々は少なからずいるから、職業といえば職業だ。しかし、普段は営業マンやら歌手やらシステムエンジニアやら僧侶やら、飯のタネとしての本業がある傍ら、余暇を使って研究業を行い、論文を書いている人だってたくさんいるのだ。殊に、昆虫にまつわる研究分野においては、アマチュアが研究者の大半を占めている状況にある。
さらに言えば、大きな組織に所属して生業として研究業に携わる場合、その研究のための資金は詰まるところ税金からまかなわれることが多い。だから、「これを解明すれば世間や人類のためにこれだけ役立つ」という名目のあるもの以外は、なかなか研究しにくい。
例えば私は、長らく大学で、アリの巣に勝手に入り込んで一緒に暮らすアリヅカコオロギというけったいな虫の研究を「科研費」により行っていた。科研費とは、日本学術振興会から賦与される研究資金のことであり、審査も厳しく競争相手も多い。当然、「アリヅカコオロギが好きです」といった理由では審査に通らない。だから「何かの役に立つ」というお題目が必要なのだ。
ちなみにアリヅカコオロギは、蟻の巣内で、アリが外からせっせと集めてきた餌を横取りしたり、アリの卵を食いつぶして暮らす昆虫だ。アリの中には、悪名高いアリのように我々人類の生活の安寧を脅かす種もいる。だから、アリヅカコオロギの生態を調べることにより、アリの防除に繋がる知見を得られるにちがいないというのが、私の考えた研究の「お題目」であった。
そのお題目によりみごと審査に通った私は、国の金でアリヅカコオロギの研究に携わる身分を維持し、確かに順風満帆に研究を進めることができた。なにしろ私が本格的に始めるまで、日本ではアリヅカコオロギの生態などろくに研究されておらず、生態どころか、日本に何種いるかさえ定かではなかったのだから。
しかし、駆け出し研究者であった私を助けてくれた科研費には、申請時にこういう目的で使いますと書いた用途以外には使ってはならない決まりがある。もともとは税金である以上は仕方のないことだが、これにより、研究の幅が狭められてしまうのだ。
例えばアリの巣には、アリヅカコオロギ以外にも多種多様な居候生物がいて(これらを総称して好蟻性生物という)、生態がよくわかっていないものばかりだった。野山で地べたに這いつくばってアリヅカコオロギを観察し続けていると、いやがうえにもそんな有象無象たちにまつわる学術的知見も得られる。だが、それはアリヅカコオロギの研究ではない。だから、アリヅカコオロギ以外の生物につての発見を論文として発表する際には、自腹を切ってバカ高い論文投稿料を支払わねばならなかったりする(勘違いされやすいが、学術論文を書く行為自体に収入はない。むしろこっちが金を出さねばならないのだ)。まったくもって学者、研究者なんぞは自由なように見えて、「職業」にした途端、急にわずらわしくなってしまうのである。
これに対して「職業」から離れてみたらどうだろう。自分の好奇心のおもむくままに好き勝手にやる研究というのは、実に気楽でいい。何せ傍から見て、それはどれほど無意味かつ意義を感じないものであったとて、誰からも文句など言われないし、言われる筋合いもない。「湖沼におけるバッキンガムカギアシゾウムシの潜水時間を調べる」だの、「洞窟に住むケバネメクラチビゴミムシの背中に生える毛の数がなぜ個体毎にバラつくのかを調べる」みたいな、それを知ったところで一体この世の誰が得をするのかもわからぬような研究であっても、自分が知りたいと思う限り、好きなように自由にできるのだ。
私はこの文庫が発刊される2022年7月時点で、とある地方の博物館に無給の研究員として籍を置かせてもらっている。少し前までは、東京の国利湯科学博物館で無給の研究員を務めていたが、「いてもいい期限」を満了したため、今に至る。
私はこれまで、様々な書籍出版ないし講演会の際に、肩書きとして「博物館の無給研究員」と名乗っていたが、今年からは「在野の研究者」と言うことにした。単にカッコ悪く思えてきたのと、それ以上に昆虫の研究は肩書きなどなくてもできる「生き方」であることを、世間に広く知らしめようと思うようになったからだ。わからないことをわかりたい、その好奇心を持つ限り、人は誰でも「昆虫学者」になれるのである。」
「そう、新発見をするのに、遠く海外まで行く必要はない。私は一生、そんな裏山に魅了されたまま生きていくのだ。」
「なお、本書でいう「裏山」は、必ずしも山(mountain)を表さない。家のすぐ側にある、生き物たちの息づく場所、つまり公園や河川敷など、至るところが私にとっての「裏山」である。本書を通し、みなさんのすぐ近くにある普段は気づかない「裏山」の魅力の一端を感じ取っていただければ幸いである。」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?