見出し画像

安智史「萩原朔太郎と散文詩/「散文詩」をめぐる彷徨」(『現代詩手帖』)/『萩原朔太郎全集 第一巻』/吉本隆明『言葉からの触手』/『埴谷雄高準詩集』

☆mediopos3543(2024.7.30)

野村喜和夫編「戦後散文詩アンソロジー」と
野村喜和夫「散文詩全史(戦後日本篇)」
(『現代詩手帖』2024年7月号 思潮社)を
mediopos3525(2024.7.12)でとりあげたが

今回は安智史「萩原朔太郎と散文詩/「散文詩」をめぐる彷徨」
(『現代詩手帖』同上)をとりあげる

日本における散文詩は明治末から本格化するが
萩原朔太郎はそれが「変容する昭和初めの
はざかい期に出発した詩人」である

萩原朔太郎は一九一七年に第一詩集『月に吠える』を刊行し
西条八十から「本口語詩の真の完成者と呼ばれてもよい」と評されたが
初期詩篇においてすでに「散文詩」の志向性があった

それは「シュルレアリストの自動記述の先駆というべき
錯乱的・自己破壊的なテクスト群」だったが
それらは大幅に「刈り込み」された四篇のみが
『蝶を夢む』(一九二三年七月)の巻末において
収録されているにとどまっている
(「吠える犬」「柳」「Omegaの瞳」「極光」)

そうした初期「散文詩」とは別に
「朔太郎にはもう一つの、
より、自己の詩法として自覚された「散文詩」の試み」があり
「第一詩集『月に吠える』と、
第二詩集『青猫』(一九二三年一月)のあいだに開始された」

「「文章世界」一九一九年八月号に
「散文詩」の総題のもとに発表した七篇のテクスト」であり
「大幅な手入れ(削除)を施されて」
『虚妄の正義』(一九二九年十月)に収録され
その後最後の詩集『宿命』(一九三九年九月)に採録されている

ちなみに朔太郎は詩集とは別に
『新しき欲情』(一九二二年四月)
『虚妄の正義』(一九二九年十月)
『絶望の逃走』(一九三五年十月)
『港にて』(一九四〇年七月)という
「思想詩」としての「アフォリズム」集を刊行しているが

「もしその人の心像中に、
私の二つの世界の者(叙情詩と思想詩)を正しく一つに重ね合わせて、
モノクルに映像してくれる読者があったら、
それこそ私の全貌を知る人であり、
著者にとって最も悦ばしい読者である」としている

朔太郎は「モダニズムにいたる「散文詩」の系譜のなかに、
みずからの断章形式のテクスト——アフォリズムを位置づけなおそう」
という意図をもっていたようだ

そうした朔太郎の「散文詩/アフォリズム」の試みだが
吉本隆明「固有時との対話」(一九五二年)
そして埴谷雄高『不合理ゆえに吾信ず』『埴谷雄高準詩集』へと
その系譜はつながっている(『北川透 現代詩論集成5』二〇二二年)

『宿命』所収の
「地球を跳躍して」「死なない蛸」「自然の中で」における

 私をして、地球を遠く圏外に跳躍せしめよ。
         (「地球を跳躍して」)

 荒涼とした山の中腹で、壁のやうに沈黙してゐる、
 一の巨大なる耳を見た。
         (「自然の中で」)

のようなテクストの表象は

「みずからを食らいつくし、知覚しえないものと化しながら、
飢えた不在の影として宇宙に瀰漫しつづける
蛸(「死なない蛸」)とともに、宇宙論的な孤絶感にむかう
散文詩/アフォリズムの系譜へと開かれている」
というのである

ちなみに埴谷雄高は『埴谷雄高準詩集』の「あとがき」において

かつて『不合理ゆえに吾信ず』の諸断片がそうであったように
「どうもこれは「吾国の詩」の枠のなかにはいらないので、
私はそれを敢えてアフォリズムと呼んできている」という

「それらは、必ずしも、独立した一篇の詩を
そこに提出しているのではなく、
或る場合は、或る想念のひとつの「導入部」として。
また、他の場合は、或る想念と他の想念とのあいだを
どうにか架橋する「つなぎ」として、
文章の最前部、或いは、その途中に、一見「詩らしきもの」を
投げこんでいるにすぎないのである」

その意味においてその詩集は「準詩集」と名づけられている

mediopos3525(2024.7.12)でもふれたが
野村喜和夫が「通常の意味のシステムでは掬いきれない何か、
余剰もしくは過剰としてあふれてしまう何かがあるとき、
それを称して詩と呼んでみたい」と示唆したように

「散文詩」「アフォリズム」というのは
たんなる「散文」ではなく
さりとて「いわゆる詩」としては位置づけ難いものだが
むしろ「詩」を「詩」の境域を超えたところで
成立させるポエジーの可能性ではないかと思われる

こうして日々書いているmedioposやphotoposの言葉も
行分けで「詩」のような形で書いてはいるが
いうまでもなく「詩」でも「散文」でもない

上記の視点をすこしばかり借りるとすれば
ここで「神秘学ポエジー」としているものは
「神秘学アフォリズム」とでもいえるのかもしれない・・・
とじぶんでは勝手に思い込んでいたりもする(笑)

■安智史「萩原朔太郎と散文詩/「散文詩」をめぐる彷徨」
 (『現代詩手帖』2024年7月号 思潮社)
■『萩原朔太郎全集 第一巻』(昭和五十年二月八冊 新潮社)
■『吉本隆明詩集』(現代詩文庫8 思潮社 1982 第十九刷)
■吉本隆明『言葉からの触手』(河出文庫 2003/12 新装版初版)
■埴谷雄高『不合理ゆえに吾信ず』(現代思潮新社 1975/1)
■『埴谷雄高準詩集』(水兵社 1979/11)

**(安智史「萩原朔太郎と散文詩/「散文詩」をめぐる彷徨」より)

*「詩史的に見て萩原朔太郎(一八八六〜一九四二)は、日本における「散文詩」が本格化する明治末と、変容する昭和初めのはざかい期に出発した詩人だった。しかし、彼の「散文詩」テクストには時代を逸脱する側面があり、ゆえに朔太郎は生前最後の詩集『宿命』にいたるまで、「散文詩」をめぐる模索をつづけることになる。」

*「一九一七年『月に吠える』を刊行し、〈日本口語詩の真の完成者と呼ばれてもよい〉(西条八十「大正六年度の詩壇」)と評された朔太郎にも、早くから「散文詩」の志向性があった。とくにそれは北川透が「言語革命」(『萩原朔太郎〈言語革命〉論』一九九五年)と名付けた初期詩篇に顕著だ。ただし朔太郎はそれら、シュルレアリストの自動記述の先駆というべき錯乱的・自己破壊的なテクスト群を、生前詩集に収録することはほとんどなかった。

 わずかに四篇のみ、「散文詩」の章題のもとに〈拾遺詩集〉(序「詩集の始に」である)『蝶を夢む』(一九二三年七月)の巻末に————実験的な試みとして、ということであろう————収録したにとどまる。それら四篇は初出を刈り込み、よりまがまがしい一連のモティーフ————詩人の餓死、凶行の霊性、愛人殺し、宇宙論的な孤独の恐怖感など————を削除したものだった。朔太郎は自己の詩法に自覚的であった。これら初期の錯乱的散文詩は、彼自身によっても統御しえない、過剰なものに満ちており、その大部分を封印状態にとどめようとしたことが、この削除からも読み取れる。」

*「こういった初期「散文詩」とは別に、朔太郎にはもう一つの、より、自己の詩法として自覚された「散文詩」の試みがあった。それは第一詩集『月に吠える』と、第二詩集『青猫』(一九二三年一月)のあいだに開始された。

 その嚆矢は「文章世界」一九一九年八月号に「散文詩」の総題のもとに発表した七篇のテクストであろう。大部分は生前の単行本に収録されることがなかったが、うち「記憶を捨てる」のみ、大幅な手入れ(削除)を施されて『虚妄の正義』に収録され、さらに、後述の朔太郎最後の詩集『宿命』に採録される。初出「附記」で朔太郎は〈散文と、散文詩と、観念叙情詩と、純粋叙情詩との識域をば、一つの曖昧なぼかしの上に置きたい〉と述べているが、それはもちにみずから「アフォリズム」と称するようになるテクスト群の嚆矢となった。

 確認しておけば、文学史的に朔太郎は四冊のアフォリズム集を刊行し、日本に文芸ジャンルとして定着させたとされる。しかしその『新しき欲情』(一九二二年四月)、『虚妄の正義』(一九二九年十月)、『絶望の逃走』(一九三五年十月)、『港にて』(一九四〇年七月)のうち、序文等でみずからアフォリズムと称したのは『絶望の逃走』からで、そこで朔太郎は前二著をも「アフォリズム」集としたのである。

 では、出版当時、前二著はどう呼称していただろうか。その最初のものである『新しき欲情』は、その序文にあたる「概説」で収録テクストを〈自ら散文詩と名づけたい〉と述べていた。だが、

   けれどもそこには、一つの内気な遠慮がある。実際今日の詩壇で言はれてゐる散文詩とは、私の此所に書くやうなものでなく、もつつずつと暗示的で、節律の高い、つまり言へば叙情詩のいくぶんひき延ばされたやうなものを意味してゐる。〔中略〕結局最後に————あまり好ましくはなかつたが————この書銘「情調哲学」を選定したわけである。

 こうして。この書の函・背文字には「情調哲学」と付記された。」

*「『絶望の逃走』「自序」ではじめて、朔太郎はみずからの断章群を「アフォリズム」と総称し、自身の詩人としての活動中に位置づけなおしたのである。」

「それまでの朔太郎は、「散文詩」「情調哲学」のほか、雑誌掲載の際には「新散文詩」「断章」「詩文風なる断章」「雑誌記事的命題」「短章詩文」「小論」「小エッセイ」などと総題・副題していた。さらに『絶望の逃走』再版序文「再版に齋して」(一九三六年十月)で朔太郎は、アフォリズムを「思想詩」とし、

   もしその人の心像中に、私の二つの世界の者(叙情詩と思想詩)を正しく一つに重ね合わせて、モノクルに映像してくれる読者があったら、それこそ私の全貌を知る人であり、著者にとって最も悦ばしい読者である。

と述べる。既発表のアフォリズム六十七篇を、新作六篇とともに「散文詩」として前半に収録し、既発表の叙情詩(行分け詩)六十八篇を後半に置いた朔太郎生前最後の詩集『宿命』(一九三九年九月)は、この観点から編集された綜合詩集といえるだろう。さらに巻頭に、「散文詩について 序に代へて」を置き、巻末に附録「散文詩自注」を付すことで、『宿命』は朔太郎みずから〈「散文詩集」と名づけ〉(「散文詩について 序に代へて」)る詩集となった。

 ここには、モダニズムにいたる「散文詩」の系譜のなかに、みずからの断章形式のテクスト——アフォリズムを位置づけなおそうという意図も読み取れる。」

*「一方、日本における散文詩の歴史も意識しつつ、「散文詩について 序に代へて」で朔太郎は散文詩を、以下のように規定する。

   ツルゲネフの散文詩でも、ボードレエルのそれでも、すべて散文詩と呼ばれるものは、一般に他の純正詩(抒情詩など)に比較して、内容上に觀念的、思想的の要素が多く、イマヂスチツクであるよりは、むしろエツセイ的、哲學的の特色を多量に持つてる如く思はれる。そこでこの點の特色から、他の抒情詩等に比較して、散文詩を思想詩、またはエツセイ詩と呼ぶこともできると思ふ。つまり日本の古文學中で、枕草子とか方丈記とか、または徒然草とかいつた類のものが、丁度西洋詩學の散文詩に當るわけなのである。
 枕草子や方丈記は、無韻律の散文形式で書いてゐながら、文章それ自身が本質的にポエトリイで、優に節奏の高い律的の調べと、香氣の強い藝術美を具備して居り、しかも内容がエツセイ風で、作者の思想する自然觀や人生觀を獨創的にフイロソヒイしたものであるから、正にツルゲネフやボードレエルの散文詩と、文學の本質に於て一致してゐる。ただ日本では、昔から散文詩といふ言葉がないので、この種の文學を隨筆、もしくは美文といふ名で呼稱して來た。

 ただ、これらの朔太郎の言葉を————「美文」の語が一般化したのは明治以降であり。「昔から」とはいえないこともふくめ————うのみにするわけにはいくまい。(・・・)

 枕草子や方丈記を散文詩とする慧眼をしめしつつ、一方で、朔太郎の述べる「散文詩」の定義と、実際の彼のテクストとのあいだにはズレも感じられる。その背景には、ここまで述べた朔太郎と近代詩史上の「散文詩」をめぐる経緯があった。」

*「また、朔太郎は「虚無の歌」の「散文詩自注」中で、

   日本語を用ゐる限りボードレエルの芸術的散文詩は真似ができない。しかし私は特異な文体を工夫して、不満足ながら多少の韻文性————すくなくとも普通の散文に比して、幾分かの音楽的抑揚のある文章————を書いて見た。それがこの書中の「虚無の歌」「臥床の中で」「海」「墓」「郵便局」「パノラマ館にて」等の数篇である。厳重に言へば、此等の若干の物だけが「散文詩」であり、他は未だ「詩」といふべきものでないかもしれない。

とする。ここには、日本語を欠陥に満ちた言語とし、その欠陥を埋めることを詩人の使命とする朔太郎の言語観・詩人観(・・・)が、晩年の散文詩観にまで一貫していたことが認められる。」

*「吉本隆明————彼の「固有時との対話」(一九五二年)は硬質の長編散文詩に他ならない————の朔太郎アフォリズムへの高評価に言及しつつ、北川透は吉本の『言葉からの触手』(一九八九年)を、朔太郎——埴谷雄高らのアフォリズムの系譜において評価する(『北川透 現代詩論集成5』二〇二二年)。この指摘の先駆けとして、菅谷規矩雄が想定した〈《宿命》の散文詩と埴谷雄高《不合理ゆえに吾信ず》との接触面〉(菅谷『無言の現在 詩の原理あるいは埴谷雄高論』イザラ書房一九七〇年)の問題がある。菅谷は『宿命』刊行と埴谷雄高のアフォリズム「不合理ゆえに吾信ず」初出が同年であることに着目し、『宿命』の「地球を跳躍して」「死なない蛸」「自然の中で」を挙げてその連続性を強調した。

 もっとも、菅谷の挙げる右の三篇にかんしていえば、私は埴谷の作品のではむしろ〈太古の闇と宇宙の涯から涯へ吹く風が触れ合うところに、そいつはいた。〉とはじめられる「寂寞」(一九四八年、のち『埴谷雄高準詩集』(水兵社一九七九年)巻頭に収録)の、プレ/ポスト・ヒューマンの世界イメージを連想する。

たしかに、

  私をして、地球を遠く圏外に跳躍せしめよ。
         (「地球を跳躍して」)

  荒涼とした山の中腹で、壁のやうに沈黙してゐる、一の巨大なる耳を見た。
         (「自然の中で」)

など『宿命』テクストの表象は、みずからを食らいつくし、知覚しえないものと化しながら、飢えた不在の影として宇宙に瀰漫しつづける蛸(「死なない蛸」)とともに、宇宙論的な孤絶感にむかう散文詩/アフォリズムの系譜へと開かれているだろう。」

**(萩原朔太郎『宿命』〜「散文詩について 序に代へて」)

「散文詩とは何だらうか。西洋近代に於けるその文學の創見者は、普通にボードレエルだと言はれてゐるが、彼によれば、一定の韻律法則を無視し、自由の散文形式で書きながら、しかも全體に音樂的節奏が高く、且つ藝術美の香氣が高い文章を、散文詩と言ふことになるのである。そこでこの觀念からすると、今日我が國で普通に自由詩と呼んでる文學中での、特に秀れてやや上乘のもの――不出來のものは純粹の散文で、節奏もなければ藝術美もない――は、西洋詩家の所謂散文詩に該當するわけである。しかし普通に散文詩と呼んでるものは、さうした文學の形態以外に、どこか文學の内容上でも、普通の詩と異なる點があるやうに思はれる。ツルゲネフの散文詩でも、ボードレエルのそれでも、すべて散文詩と呼ばれるものは、一般に他の純正詩(抒情詩など)に比較して、内容上に觀念的、思想的の要素が多く、イマヂスチツクであるよりは、むしろエツセイ的、哲學的の特色を多量に持つてる如く思はれる。そこでこの點の特色から、他の抒情詩等に比較して、散文詩を思想詩、またはエツセイ詩と呼ぶこともできると思ふ。つまり日本の古文學中で、枕草子とか方丈記とか、または徒然草とかいつた類のものが、丁度西洋詩學の散文詩に當るわけなのである。
 枕草子や方丈記は、無韻律の散文形式で書いてゐながら、文章それ自身が本質的にポエトリイで、優に節奏の高い律的の調べと、香氣の強い藝術美を具備して居り、しかも内容がエツセイ風で、作者の思想する自然觀や人生觀を獨創的にフイロソヒイしたものであるから、正にツルゲネフやボードレエルの散文詩と、文學の本質に於て一致してゐる。ただ日本では、昔から散文詩といふ言葉がないので、この種の文學を隨筆、もしくは美文といふ名で呼稱して來た。然るに明治以來近時になつて、日本の散文詩とも言ふべき、この種の傳統文學が中絶してしまつた。もちろん隨筆といふ名で呼ばれる文學は、今日も尚文壇の一隅にあるけれども、それは詩文としての節奏や藝術美を失つたもので、散文詩といふ觀念中には、到底所屬でき得ないものである。
 自分は詩人としての出發以來、一方で抒情詩を書くかたはら、一方でエツセイ風の思想詩やアフオリズムを書きつづけて來た。それらの斷章中には、西洋詩家の所謂「散文詩」といふ名稱に、多少よく該當するものがないでもない。よつて此所に「散文詩集」と名づけ、過去に書いたものの中から、類種の者のみを集めて一册に編纂した。その集篇中の大分のものは、舊刊「新しき欲情」「虚妄の正義」「絶望の逃走」等から選んだけれども、篇尾に納めた若干のものは、比較的最近の作に屬し、單行本としては最初に發表するものである。尚、後半に合編した抒情詩は、「氷島」「青猫」その他の既刊詩集から選出したものである。

  昭和十四年八月

     散文詩
      宇宙は意志の表現であり、
      意志の本質は惱みである。
      シヨペンハウエル」

**(萩原朔太郎『宿命』〜「地球を跳躍して」)

*「地球を跳躍して

 たしかに私は、ある一つの特異な才能を持つてゐる。けれどもそれが丁度あてはまるやうな、どんな特別な「仕事」も今日の地球の上に有りはしない。むしろ私をして、地球を遠く圈外に跳躍せしめよ。」

**(萩原朔太郎『宿命』〜「死なない蛸」)

*「 死なない蛸

 或る水族館の水槽で、ひさしい間、飢ゑた蛸が飼はれてゐた。地下の薄暗い岩の影で、青ざめた玻璃天井の光線が、いつも悲しげに漂つてゐた。
 だれも人人は、その薄暗い水槽を忘れてゐた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思はれてゐた。そして腐つた海水だけが、埃つぽい日ざしの中で、いつも硝子窓の槽にたまつてゐた。
 けれども動物は死ななかつた。蛸は岩影にかくれて居たのだ。そして彼が目を覺した時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、おそろしい飢饑を忍ばねばならなかつた。どこにも餌食がなく、食物が全く盡きてしまつた時、彼は自分の足をもいで食つた。まづその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすつかりおしまひになつた時、今度は胴を裏がへして、内臟の一部を食ひはじめた。少しづつ他の一部から一部へと。順順に。
 かくして蛸は、彼の身體全體を食ひつくしてしまつた。外皮から、腦髓から、胃袋から。どこもかしこも、すべて殘る隈なく。完全に。
 或る朝、ふと番人がそこに來た時、水槽の中は空つぽになつてゐた。曇つた埃つぽい硝子の中で、藍色の透き通つた潮水(しほみづ)と、なよなよした海草とが動いてゐた。そしてどこの岩の隅隅にも、もはや生物の姿は見えなかつた。蛸は實際に、すつかり消滅してしまつたのである。
 けれども蛸は死ななかつた。彼が消えてしまつた後ですらも、尚ほ且つ永遠にそこに[#「そこに」に傍点◎]生きてゐた。古ぼけた、空つぽの、忘れられた水族館の槽の中で。永遠に――おそらくは幾世紀の間を通じて――或る物すごい缺乏と不滿をもつた、人の目に見えない動物が生きて居た。」

**(萩原朔太郎『宿命』〜「自然の中で」)

*「自然の中で

 荒寥とした山の中腹で、壁のやうに沈默してゐる、一の巨大なる耳を見た。」

**(『埴谷雄高準詩集』目次)

  1. 寂寥

  2. 隕石

  3. 暗黒物質

  4. 変化と無変化

  5. 無表現の精霊

  6. 水素原子

  7. 茫漠としたもの

  8. 存在は私のすべてを

  9. いま、ひとつの渦状星雲が

  10. 地霊よ

  11. 死んでしまったものは

  12. 断章
       星は、無限へ向かって/私とは、何か/私たちは、すべてを/私が生きている
      /そは秘密なる遊園地/やがてはその意識が/それでもやがては/いづこへ行きなさる
      /公に語ること/われは墜ちぬ/俺は俺だと/死んだものは

  13. 政治をめぐる断章
    14.権力について

  14. 事実と真実についての断章

  15. 想像力についての断章

  16. 埴谷雄高準詩集 あとがき

**(『埴谷雄高準詩集』〜「寂寥」より)

*「太古の闇と宇宙の涯から涯へ吹く風が触れあうところに、そいつはいた。そいつは石のように坐つていた。」

「何時からかそいつは石のように坐つていた。そいつは朽ちた樹の下に坐つていた。そいつの胸のなかを、時折、漆黒の夜の空のような寂寥がかすめた。
 そいつは湿った羊歯類がむれた土壌から芽吹く音を聞いた。香わしい夜の大気のなかで静かに開く花の揺れ顫える音をも聞いた。柔らかな木の実からはじき出た綿毛が微風の渦のなかを飛び散つてゆく爽やかな匂いを嗅いだ。そして、太古から時間のはてへまで睡らせつづける甘美な《もの》の歌のなかにそいつは睡つていた。」

「けれども、時折、闇に眼を見開くと、吹き荒れる凄まじい暴風のような凶暴な発作がそいつに起つた。」

「《とにかくその日まで待とう。それまでは妥協しておこう。だが、間違えちやいけないぜ。たとえ俺が乾いた砂のように風化しようと、お前やそこにあるさまざまなもの、それと許しあいをもとめてるんじやない。俺は俺がそこから出てきた過誤をとにかくその日まで許しておこうというのだ。》」

**(『埴谷雄高準詩集』〜「あとがき」より)

*「私は、嘗て、詩のつもりで、『不合理ゆえに吾信ず』の諸断片を書いたが、しかし、どうもこれは「吾国の詩」の枠のなかにはいらないので、私はそれを敢えてアフォリズムと呼んできている。

 ところで、私の嘗ての時代の私達全部の信条は、詩がほかならぬ文学のまぎれもない源泉であり、また同時に究極でもあるというふうに、「拭い去りがたく妄信」していたので、私は自分の文章のあいだになんとなく「詩らしきもの」を無理強いにでも投げこむといった長い愚かしい習癖から抜けきれないできているのである。とはいえ、それらは、必ずしも、独立した一篇の詩をそこに提出しているのではなく、或る場合は、或る想念のひとつの「導入部」として。また、他の場合は、或る想念と他の想念とのあいだをどうにか架橋する「つなぎ」として、文章の最前部、或いは、その途中に、一見「詩らしきもの」を投げこんでいるにすぎないのである。

 従って、井上光晴が、それでいい、と無雑作にいっても、ここに集められたものを、「詩集」と名づけるわけにはどうしてもゆかないのである。

 私達は、いま、私達にかなりよく知られるにいたった星雲とは異なった極めて不思議な、遠い、遠い、遠い光体をクェーサーと呼び、それを準星と訳しているが、その天文学ふう用語にならって、ここに集めたところの独立詩ならざる一種の導入部、或いは、一種不完全なつなぎの集合を、「準詩集」と呼んで、大音声を発する井上光晴の強引な要請に答えることとする。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?