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松岡正剛 千夜千冊 第三五一夜(2001年8月7日) 「中原中也 山羊の歌」(『千夜千冊エディション 昭和の作家力』)/長谷川泰子 『中原中也との愛 ゆきてかへらぬ』

☆mediopos-3082  2023.4.26

「松岡正剛」という名を知ったのは
雑誌『遊』の第Ⅱ期一九七六年頃だったが

松岡正剛・作詞作曲の
『比叡おろし』(歌:小林啓子)が気に入って
ラジオからカセットテープに録音し繰り返し聴いていたのは
その六年ほどまえの一九七〇年頃に溯る

そして『比叡おろし』が松岡正剛の
作詞作曲だということを知ったのは
二十年ほどまえのこと

『遊』のころもその後も
ネットの「千夜千冊」も
『千夜千冊エディション』もふくめ
その著作等はほとんど読んではいるのだが

当初『遊』から圧倒的な影響を受けた頃にくらべ
エディトリアル(編集工学)ということで
ある種の「型」の啓蒙へとシフトするようになってからは
かつてのように影響されることはなくなっている

とはいえときおりふいにある種の「(遊星的?)郷愁」を感じ
かつての『遊』の時代のことなどを渉猟していたとき
『比叡おろし』の作詞・作曲者がだれなのか!を知ることになる

今回『千夜千冊エディション』(第二八巻)を
とりあげたのはそこに収められている
第三五一夜(2001年8月7日)の
「中原中也 山羊の歌」に
『比叡おろし』の話がでているからだ
(記憶は定かではないがこの記事で知ったのだろう)

松岡正剛はこの第三五一夜で
「中也の日々にぼくの青春を重ねてみ」ている

中原中也の長谷川泰子と
松岡正剛の中学時代の同級生だった滝泰子の「泰子」

中原中也は泰子に小林秀雄の元へと去られ
松岡正剛は『比叡おろし』という歌をつくり
やがて泰子にふられる・・・

記事には
「ぼくは「比叡おろし」という歌をつくった。
ピアノもギターもなかったので、
ハーモニカで作曲し譜面に移した。
これは九段高校の新聞部にいて、
高校を出てすぐに伊藤忠に入ったIFに贈った。」
と書かれてある

その後も中原中也の『山羊の歌』の刊行と
松岡正剛の『遊』の創刊が重ねられてゆくが

中原中也は三十歳で亡くなり
松岡正剛は現在七十九歳
中也の二倍以上歳を重ねている

松岡正剛は「フラジャイル」なひとで
ときにひどくセンチメンタルなことが語られたりもするが
「泰子」と『比叡おろし』もそれに連なる
中原中也と小林秀雄の「泰子」の話は
いろんな意味で忘れられないエピソードだ

PS
『比叡おろし』(歌:小林啓子)は
今日の「風の歌:My favorite song」でどうぞ

■松岡正剛 千夜千冊 第三五一夜(2001年8月7日)
 「中原中也 山羊の歌」
 松岡正剛『千夜千冊エディション 昭和の作家力』
(第二八巻 角川ソフィア文庫 KADOKAWA 2023/4)所収
■長谷川泰子(村上護編)
 『中原中也との愛 ゆきてかへらぬ』(KADOKAWA 2006/3)
■中原中也(大岡昇平編)『中原中也詩集』(岩波文庫 1981/6)

(松岡正剛 千夜千冊 第三五一夜「中原中也 山羊の歌」より)

「「ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於いて文句はないのだ」。この一行が紹介したくて、『山羊の歌』を選んだ。
 詩集なら『在りし日の歌』のほうをよく読んだのに、今夜の一冊を『山羊の歌』にしたのは、この最後の一行のためだ。かつてのぼくにも存在の印画紙が何かに感光してくれればそれでいいと確信するものがあったのだけれど、なかなかそうはいかなかった。中原中也もそうだったのかと思った。そのことを書いてみたい。こんな書き方をするのは乱暴だが、中也の日々にぼくの青春を重ねてみた。ありからず。

 中原中也が十七歳で長谷川泰子と同棲した大将軍の下宿の跡を、十七歳のぼくが訪ねたことがある。
 中也はそのころ立命館中学にいて、高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』を読んで瞠目し、大空詩人の永井叔(よし)を知って影響をうけ、永井の演芸仲間のマキノ映画の大部屋女優・長谷川泰子と同棲をはじめた。ぼくは九段高校にいて富士見町教会に通い、演劇部の女生徒に憧れながらも離れた京都が無性に恋しくて、こっそり京都に通っていた。中学時代の同級生だった滝泰子に逢うためだ。
 その直後、中也は富永太郎を知る。こんなすごい奴はいないと畏怖した。中也と泰子は苛烈に燃えた。その一方で冨永に接近した。東京に泰子とともに出てきてからは、早稲田界隈に止宿して富永の影響下に入った。ぼくは中学時代に親しくなった泰子が大阪の帝塚山学院に行ったのを知って、ある日、中村晋造という友人を伴って帝塚山まで会いに行った。泰子は天使のように朗らかに迎えてくれたが、一緒に会ったKという女学生が何か憂愁を漂わせていて、そちらが気になった。

 中也は富永に紹介されて、東大生の小林秀雄に出会った。小林の才能も凄そうだった。
 ところが富永はあっけなく病没してしまった。その直後、小林が泰子と同棲を始めた。大正時代が終わろうとしていた。中也は「むなしさ」を書く。
 ぼくは「比叡おろし」という歌をつくった。ピアノもギターもなかったので、ハーモニカで作曲し譜面に移した。これは九段高校の新聞部にいて、高校を出てすぐに伊藤忠に入ったIFに贈った。
 中也は「山繭」に富永を追悼する「夭折した詩人」を書き、冨永に影響されたフランス語になじむためアテネ・フランセに通いはじめた。昭和二年、二十歳。中也は河上徹太郎を知って、河上が諸井三郎らと組んでいた音楽集団「スルヤ」の準同人になった。「朝の歌」「臨終」を作詞した。ぼくは早稲田の学生になっていて、素描座という劇団と早稲田大学新聞会とアジア学会に入った。
 二十歳の中也に、こんな日記の記述がある。賢治の『春と修羅』を購入した記録がのこっているから、その影響もあるだろうが、すでに中也自身にもなっている。

   宇宙の機構悉皆了知。
   一生存人としての正義満潮。
   美しき限りの鬱憂の情。
   以上三項の化合物として、
   中原中也は生息します。

 二一歳、中也は小林秀雄の自宅で成城高校の学生の大岡昇平を知り、生涯の友となるのだが、酔えば小林をも大岡をも殴るように批判した。そんなとき小林が失踪し、泰子とも別れた。二二歳、渋谷の神山に移って、阿部六郎・大岡・河上・富永次郎(太郎の弟)・古谷綱武・村井康男らと同人誌「白痴群」を出した。古谷は高田博厚(彫刻家)を紹介してくれたが、そこには泰子が出入りしていた。
 ぼくはTKという女優を知り、村松瑛子という女優の家に通った。村松剛の妹だ。三島のことをいろいろ聞いた。坪内ミキ子を早稲田大学新聞で取材して、気にいられて坪内逍遥を語りあう日々をもった。舞台上の女優では、バーナード・ショーによるジャンヌ・ダルクを演じた岸田今日子にまいっていた。思想的には埴谷雄高と中村宏と、ぼくの三年上級でその後は東大出版会に行った門倉弘の影響をうけた。読んだものではトロツキーとアインシュタインと鈴木大拙にショックをうけた。毎晩早稲田に泊まって、新聞紙をホッチキスでとめて掛け布団にして眠った。1週間に三十枚ずつ原稿を書いたが、すべて破棄した。こんなこと、中也とはまったく関係がないのだが、中也にかこつけて書いてみた。
 京都に遊んだあと、中也は奈良にまわって教会のビリオン神父を訪ねた。戻って中央大学予科に編入している。そのころ長谷川泰子は築地小劇場の演出家の山川幸世とのあいだに子供をもうけていた。ぼくはIFと一カ月にわたって西海に遊んで、帰ってきて泰子にふられた。

 二四歳のとき東京外語の夜学に入り、中也は青山二郎に出会う。青山は強烈な個性の持ち主だった。中也は自分の強烈な個性を上回る個性を選んでいくようだ。あげくに精神の決闘をする。翌年、『山羊の歌』を自分で編集して予約募集の案内をつくるが、予約者は十二、三名ににとどまった。父親、弟についで祖母が亡くなった。ぼくは父を亡くし、大枚の借金を抱えることになった。しかたなく銀座のPR通信社の子会社MACに入り、広告をとりはじめた。

 詩集『山羊の歌』が自信があった。芝書店にもちこんで断られ、江川書店で失敗し、ランボオの翻訳にとりくんだ。中也は「汚れちまった悲しみに」を書いた。
 ぼくは広告とりのかたわら東販からの依頼で「ハイスクール・ライフ」という書店で無料配布する高校生向けの読書新聞を編集する。毎号の一面を宇野亜喜良のイラストレーションで飾り、そこに石原慎太郎・倉橋由美子・谷川俊太郎らに”青春の一冊”を綴ってもらい、組みこんだ。創刊号が朝日新聞で採り上げられた。
 念願の『山羊の歌』は二年がかりでやっと文圃堂に決まった。小林秀雄の肝入りだった。装幀を高村光太郎に依頼した。中也は二七歳になっていた。ぼくは中上千里夫に資金百万円を貸してもらって『遊』を創刊した。高橋秀元をはじめとするたった三人の仲間に、十川治江が手伝いにきてくれていただけだった。
 二七歳、小林が『山羊の歌』についての鴻鵠の書評を「文學界」に書いた。それから三年後、中也は死んだ。昭和十二年(一九三七)である。『在りし日の歌』の原稿が小林秀雄の手元に残った。盧溝橋事件がおこって、泥沼に銃をかかげる日中戦争が始まった。昭和は爆発寸前だった。存在の印画紙に何が感光したかを認(したた)めるのは、中也にして容易ではなかったのである。」

(長谷川泰子『中原中也との愛 ゆきてかへらぬ』より)

「中也が私と同棲したのは十七歳だったんですから、いまから考えてもおませな中学生だったと思います。詩の話になると一家言あって、どんな人にもおじけづかず対等でしたが、富永太郎さんにだけはいつも謙虚でした。」

「私は小林秀雄がはじめて訪ねて来た日のこよを、こんなふうに覚えております。中也はそのとき、奥の四畳半の部屋で、本を読んでいました。小林は私の出した雑巾で足をぬぐい、縁側から上がって、中也のいる部屋でしばらく話して帰りました。(・・・)
 小林は一高を卒業して、その四月に東大の仏文に入ったところでした。私より二つ上だったから二十三歳になっていははずです。そんな年上をつかまえても、中也(十八歳)は対等の友だちで通しました。」

「あれは七月のことでした。中也は郷里に帰って、いないときです。小林が一人でたずねて来ました。おそらく、小林にしてみれば、はじめは女がいるから、ちょっと行ってみよう、そんな気持ちだったんだと思うんです。きっかけというのはこういうものかもしれませんが、二人きりに話していると、何か妙な気分になりました。あのときは別にどうということもなかったけれど、私はそれからときどき、中也に内緒で小林と会うようになったんです。
 「あなたは中也とは思想が合い、ぼくとは気が合うのだ」
 二人で会ってたときなど、小林はこういったこともありました。」

「私は中也のところかた、どこかへ行かなきゃあ、と漠然と考えていたけれど、東京では身を寄せて頼れる知人なんかいなかったんです。そんなとき、小林が橋をかけてくれたようになったから、私はそっちへ移っていきました。
 私は小林の退院を待って、中也のところを去るつもりでした。それまでは中也に悪かったけど黙っておりました。いよいよになって。私はこういいました。
 「私は小林さんとこへ行くわ」」

「小林さんはそれまで、お母さんと一緒に馬橋に住んでおりましたが、今度は私と住むために、新しい家を借りました。(・・・)私はそこで新生活をはじめたんですが、すべてについてやさしい小林と一緒にいることで、甘い気分にひたることができました。」

「私はそのころも、お勝手のことはできなかったので、その爺やさんに頼んで、ご飯だけは炊いてもらっておりました。それだけ手間がはぶけましたが、おかずのほうはやっぱり小林が買ってきて、作ってくれました。」

「潔癖症のこよとを、くどくどいうようですが、小林とは、私が潔癖症だったために、かえってしっかり結びついていたといえましょう。小林はそのことをまるでシベリア流刑だといっておりました。
(・・・)
 私はなんでも、ある意味で完璧にしなきゃ、気分がおさまらない性格なんです。そう意識しだすと、神経がどうしようもなく高ぶります。途中、自分の思わくと違って、ちょっとでも曲がると、もう大変になるんです。
 「あたしはどこにいるの」
 たとえば、私は小林にこう質問するんです。小林はそれに応じて、「どこそこだ」というわけです。そんなとき、私は自分だけの妄想の世界のなかにいて、その妄想の世界での私のいる場所を、小林に言い当ててもらいたいんです。小林は答えるべきことばをこしらえて待っておりました。だけど、妄想のなかの私の場所を、小林はいい当てられるはずはありません。
 まるでパズルみたいなもんですが、私の出す質問にパッと答えが出なければ、もうワーワーになってしまうんです・そして、気持ちはますます難解になっていきました。

(・・・)

 私が潔癖症で悩んでいるときには、いつもプンプンしておりましや。ほんとうは、私自身をいじめていたんですが。小林がそばに居るのだから結局彼をいじめる結果になりました。」

「私はただでも、外から帰ったときは、そのホコリを紙でふきとるために大変なんです。そのうえ小林は私の思いどおりのお礼いってくれなかったから、もう自制心をなくしてワーワーになってしまいました。それで私は、小林に「出て行け」と叫んだんです。
 私はまさかと思いましたが、小林はそのまま出て行ってしまいました。」

「小林はとうとう帰ってきませんでした。」

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