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ユク・ホイ『中国における技術への問い/宇宙技芸試論』

☆mediopos2872  2022.9.28

香港出身の哲学者「ユク・ホイ」による
中国思想を踏まえながらの「技術」への問い直しである
テーマは「宇宙技芸」

「宇宙技芸」というのは
「技術的な活動をつうじた、
宇宙の秩序と道徳の秩序の統一」であるという

そしてそれは中国の思想においては
「道」と「器」の再縫合を意味してもいる

『易経』では
「形のない[あるいは形を超える]ものを道
形のある[あるいは形のもとにある]ものを器」
とされているが
ほんらい器は道の端緒であり
「技術」もその視点で
あらたにとらえなおす必要があるというのである

ハイデガーは「技術への問い」を深め
警鐘を発してきたが
これまで「技術」は
西洋の伝統のうえでのみ論じられてきた

「図」と「地」の関係でいえば
「技術」という「図」は
そのすべてが西洋近代という「地」のもとでしか
論じられてこなかった

ユク・ホイはほんらい中国にあったはずの
「地」としての中国の思想をとらえなおし
現在は二重の意味で「根こぎ」にされてしまている
中国の技術を「宇宙技芸」として再発明するための
提言を行おうとしている

二重の意味で「根こぎ」にされてしまっているというのは
もはや中国の伝統的な「宇宙技芸」にも支えられず
西洋近代の「宇宙技芸」にも支えられていないという
徹底的な「根こぎ」状態となっているということである

この「根こぎ」状態は中国だけではなく
世界各国のほとんどの地域での「技術」の現状についても
いえることだろう
各地に根ざした伝統的な「宇宙技芸」は
すでに「地」が働かなくなってしまっているため
「図」としては成立しえなくなっているからだ

ユク・ホイの「宇宙技芸」の視点は
人新世としてとらえられるある意味で終末的な時代を
いかに克服するかということにもつながるが
実際的には極めて困難な課題であることはいうまでもない

それは西洋近代によって構築され
ほとんど「地」となってしまっているものを
ぞれぞれの地域において新たなものとして構築し
そこに「宇宙技芸」を成立させるということだからだ

「科学技術」は「グローバリズム」との両輪で
「道」が「器」から切り離されたまま疾駆している
その疾走を変容させることは果たして可能だろうか
「問い」はこうしてはじまったばかりだ

■ユク・ホイ(伊勢康平 訳)『中国における技術への問い/宇宙技芸試論』
 (ゲンロン 2022/8)

(「序論」より)

「私の意図は、中国や日本、インドやその他の地域には創造と技術にかんする別の神話体系があるというあたりまえの事実を、ただ単に示すことはでない。重要な点はむしろ、これらの神話体系が、それぞれの事例のなかで、神々や技術、人間、そして宇宙のさまざまな関係に対応しつつ、技術に異なる起源を与えているということだ。諸文化間の実践の差異を論じるためになされた人類学上の努力を除き、技術やテクノロジーにかんする言説のなかでは、こうした関係は無視されてきたか、あるいはその影響を考慮されてこなかった。そこで私はつぎのように提唱したい——私たちは、技術性の発生にまつわるさまざまな記述をたどることによってはじめて、異なる「生活形式」について、また技術との異なる関係について語るときに、自分たちがなにを言おうとしているのかを理解できるのである。
 技術の概念を相対化する努力は、異なる文化のさまざまな時代における個々の技術的対象もしくは技術システムの先進性を比較するような技術史の研究だけでなく、既存の人類学的なアプローチに対しても異議を唱える。そうした条件は、人間と環境のあいだの決して静的でない関係のなかで表現されるものだ。だから私は、このような技術の概念を宇宙技芸(cosmotechnics)と呼びたいと思う。中国の宇宙技芸のもっとも特徴的な例のひとつは中国医学だ。それは「陰陽」や「五行」、「調和」といった、宇宙論とおなじ原理や用語を使って身体を記述するのである。」

「近代中国史における決定的な瞬間は、十九世紀なかばの二度のアヘン戦争とともに訪れた。この戦争で清王朝はイギリス軍に全面的に敗北する。そして中国は西洋列強の準植民地と化し、近代化へと駆り立てられていったのである。中国人は、敗北のおもな理由のひとつはテクノロジーの競争力がなかったからだと考えた。そのため、かれらは中国と西洋列強の不平等な関係を終わらせたいと願いつつ、とにかくテクノロジーの発展をつうじた急速な近代化が必要だという焦燥感を抱いていた。ところが中国は。当時有力だっや改革主義者が望んでいたような仕方では、西洋のテクノロジーを吸収できなかったのである。それはおもに、テクノロジーに対する無知と誤解のためだった。改革主義者たちは、テクノロジーを単なる道具と理解し、そこから中国の思想——つまり精神——を切り離すことができるだろうという、いま考えるとかなり「デカルト的」に見える信念を抱いていたのだ。言い換えれば、それはテクノロジーという「図」を輸入、実装しても、中国思想という「地」は影響を受けず無傷のままでいられるという信念である。
 だがその反対に、結局テクノロジーはその手の二元論を残らず打ち砕き、みずからを図というより地として構成してきた。」

(「第1部 中国における技術の思想を求めて」より)

「中国的な思考のなかで、道は技術や道具にかんする一切の思考よりも上位にあり、技術的対象の限界を超えることを、つまりその指針となることを目的としている。一方古代ギリシア人、少なくともアリストテレス主義者は、目的を達成するための手段であるテクネーという、より道具的な概念を持っていたようだ。だが、プラトンの場合はやや複雑である。
(…)
 プラトンはテクネーの意味に重要な変更をくわえ、アレテーという別の語と深く関連づけた。この語は一般的には「卓越性」を、特定の文脈では「徳」を意味する。」

「器の空間的なかたちは、四方に形式を押しつけるという意味で、技術的な性質をもっている。たとえば『易経』の注釈である繋辞上伝には、「形のない[あるいは形を超える]ものを道といい、形のある[あるいは形のもとにある]ものを器という」と書かれてある。さらに、おなじテクストには「あらわれるものがあれば、それを象といい、形があれば、それを器という」とある。」

「この道と器の関係を扱うなかでこそ、中国における技術哲学はあらためて定式化されるだろう。ところでこの関係は、さきほど論じたテクネーとアレテーの関係と少々似ている。だがそこには大きなちがいもある。道と器の関係はもうひとつの、いやむしろ異なる宇宙技芸を示しているのだ。それは宇宙と道徳の有機的なまじわりにもとづく調和を探求するのである。中国の技術哲学者・李三虎の『伝統を語りなおす——全体論的な皮革技術哲学の研究』は、中国と西洋がもつ技術の思想の真の対話を追求し、器と道の言説へと回帰するよう求めた最初の試みだと誇張なしにいえる、じつんび素晴らしい著作だ。そこで李が示そうとしているのは、器はその原初的(つまり位相的かつ空間的)な意味において道の端緒だということである。そのため、中国の技術の思想は、(本来ひとつであった)器と道がふたたび統合してひとつになる(道器合一)ような全体論的な視座を構築してゆく。ゆえに、道と器というこの基本的な哲学的カテゴリーは分割不可能なのだ。道が知覚可能なかたちであらわれるためには器に載せられる必要があり、他方で器は(道家思想で言う)真なるものや、また(儒学で言う)聖なるものとなるために道を必要とする。(…)道は器に作用して、器に当てはめられた機能的な決めごとを喪失させるのである。」

(「第2部 テクノロジーへの意識と近代性」より)

「かつて中国の社会や政治の生活を統御していた伝統的な形而上学や道徳的宇宙論は、近代になって破壊された。その後みずからの伝統に固有であり、なおかつ西洋の科学とテクノロジーにも適合するような根底の再構成が試みられたものの、そらは思惑とは逆の効果しか生まなかった。最終的に、ハイデガーがヨーロッパにおけるさし迫った危機として予期していた——だがアジアにおいてはるかにすさまじい速度で進行した——「根こぎ」(Entwurzelung)が生じたのである。」

「道と器の関係は、テクノロジーのシステムが導入した新しいリズムのもとで崩壊してしまった。つい「夜が迫ったいる」というハイデガーの言葉を、ここで繰り返したくなってしまう。じっさい、いま目につくものといえば、伝統の消失と、文化産業であれ観光であれ、浅はかな文化遺産の市場化ばかりなのだ。くわえて、この国の景気向上のただなかに、ひとつの終わりが到来しつつあることを感じるひともいるだろう。この終わりは、人新世というあらたな状況のなかで現実となるのである。」

「いま「中華未来主義」と呼べるものがさまざまな領域に姿をあらわしつつある。だがそれは、道徳的宇宙技芸の思考とは逆方向に進んでいる。結局のところ、それはヨーロッパ的な近代のプロジェクトの加速にすぎない。」

「本書で試みたのは、中国哲学を単なる道徳哲学とみなす慣習的な読解から脱却するための第一歩を踏み出すこと、そして中国哲学を宇宙技芸として再評価し、伝統的な形而上学のカテゴリーを私たちと同時代のものとして提示することだった。それにくわえて、私がめざしたのは、還元しえないさまざまな形而上学的カテゴリーから構成される、いくつもの宇宙技芸としての技術の概念を切り開くことである。宇宙技芸の立場にたって近代的なテクノロジーを取り戻すためには、ふたつの段階が必要になる。まずは、本書で試みたように、器道の関係などの根本的な形而上学的カテゴリーをひとつの根底として設計しなおすこと。それから、この根底のうえでエピステーメーを再構築することだ。このエピステーメーは、もはや単なる模倣や反復とはならないように、翻って技術の発明や発展、革新の条件を既定してゆくだろう。」

(中島隆博「解説「宇宙技芸」の再発明」より)

「技術への問いを今日いかにして問うのか。ユク・ホイはそれをハイデガーとともに始める。しかし、そのハイデガーこそ「形而上学的ファシズム」を体現し。ハイデガーを読解した京都学派に「形而上学的ファシズム」を伝染させた哲学者である。そうであれば、技術への問いは、どうしてもハイデガーとは異なるオルタナティブな道に向かわなければならない。それこそが「宇宙技芸 cosmotechnics」という耳慣れない複合語が開こうとする道である。
 ハイデガーの「技術への問い」(一九五三年)において、技術の本質とされたのはGe-stellである。本書では「集立」という直訳調の訳語が採用されているが、「総駆り立ての体制」という近年の訳語のほうがイメージしやすいだろう。それは、人間を駆り立てて、自然を用立てる対象(「用象」)として利用し尽くしたり、「在庫」化したりするものだ。さらにそれだけにとどまらず、人間自身を人的資源のように用立てる対象にまでしてしまうのである。
 ホイはこのGe-stellとしての技術を決してみくびってはならないと考えている。技術は単なる道具ではなく、わたしたちの生や存在のあり方を根底的に条件づけているものだからだ。言い換えれば、技術への問いは、生や生存への問いに先立つほどなのだ。
 とはいえ、他方で、技術は生や生存を含めた人間の全体的な位置づけのなかで可能になるものでもある。技術だけが人間のあり方を規定するわけではなく。人間のあり方もまた技術を規定しているのだ。その人間の全体的な位置づけこそ、「宇宙 cosmos」という概念でホイが述べようとするものだ。技術は「宇宙技芸」というより広い文脈で考察されなければならない。そうすることによって、Ge-stellにのみ帰着するような技術ではない、別の技術のあり方が展望されいる。これこそが本書でホイが探求しようとする方向性である。」

「ホイは予備的な定義として、「宇宙技芸」とは、技術的な活動をつうじた、宇宙の秩序と道徳の秩序の統一である」と述べる。
(…)
 技術はそれぞれの文化が有する宇宙論に規定されている。もしそうであるのならば、Ge-stellとしての技術を規定している西洋近代の宇宙論に代えて、新しい宇宙論を提示することで、別の技術を考えることができるはずだ。たとえば、中国の宇宙論を刷新することで、新しい「宇宙技芸」を発明できるのではないか。」

「(ホイは)「問題は西洋自体のよしあしではなく、そもそも中国に西洋文明を取り込む能力があるのかどうかではないか」と問いかけたのだ。「西洋文明」すなわち西洋近代の宇宙論とそれに裏打ちされた技術を、中国は取り込むことができないのではないのか。その証拠に、西洋近代が問うた「技術への問い」を、中国は前近代はもちろんのこと、近代においても、さらには現代においても問うことすらできていないのではないか。
 そうであるなら、現代の中国における技術は、中国の伝統的な「宇宙技芸」にも支えられておらず、また西洋近代の「宇宙技芸」にも支えられていない、徹底的な「根こぎ」状態で展開していることになうr。徹底的と述べたのは、この「根こぎ」が二重であるからだ。すなわち、Ge-stellとしての技術はそれ事態が「根こぎ」すなわち「生活形式の断片化」を引き起こすのだが、「技術への問い」すら立てられない中国においては、「根こぎ」を反問する契機もなしに、「根こぎ」になっているからだ。」

「ホイの戦略は、「技術への問い」を中国においても問い直し、西洋近代の「宇宙技芸」を乗り越えて、二重の「根こぎ」を脱出するような、新たな「宇宙技芸」を再発明することである。言うまでもないが、これはきわめて困難な道である。」

《目次》

日本語版へのまえがき
まえがき
年表 本書に登場する東西の思想家

序論

1 プロメテウスの生成
2 宇宙・宇宙論・宇宙技芸
3 テクノロジーによる断絶と形而上学的統一
4 近代性・近代化・技術性
5 何のための「存在論的転回」か ?
6 方法にかんする諸注意

第1部 中国における技術の思想を求めて

7 道(ダオ)と宇宙──道徳の原理
8 暴力としてのテクネー
9 調和と天
10 道と器(チィ)──自由と対する徳
10・1 道家における器と道──庖丁(ほうてい)の牛刀
10・2 儒家における器と道──礼の復興
10・3 ストア派と道家の宇宙技芸にかんする見解
11 抵抗としての器道──唐代の古文運動
12 初期の宋明理学における気の唯物的理論
13 明の宋応星(そうおうせい)の百科事典における器道
14 章学誠(しょうがくせい)と道の歴史的対象化
15 アヘン戦争後に起きた器と道の断絶
16 器道の関係の崩壊
16・1 張君勱──科学と人生観の問題
16・2 中国本位的文化建設宣言とその批判
17 ニーダムの問い
18 牟宗三(ぼうそうさん)の応答
18・1 牟宗三によるカントの知的直観の独自解釈
18・2 牟宗三による良知の自己否定
19 自然弁証法と形而上学(シンアルシャンシュエ)の終わり

第2部 テクノロジーへの意識と近代性

20 幾何学と時間
20・1 古代中国には幾何学がなかった
20・2 幾何学化と時間化
20・3 幾何学と宇宙論的特殊性
21 テクノロジーへの意識と近代性
22 近代の記憶
23 ニヒリズムと近代
24 近代の超克
25 ポストモダンの想起(アナムネーシス)
26 故郷回帰のジレンマ
27 人新世における中華未来主義
28 もうひとつの世界史のために

解説 「宇宙技芸」の再発明 中島隆博
訳者あとがき
索引

○著者 ユク・ホイ(YUK HUI)
香港出身の哲学者。「哲学と技術のリサーチネットワーク」主宰。ロイファナ大学リューネブルク校でハビリタツィオン(教授資格)を取得。現在、中国美術学院および香港城市大学創意媒体学院にて教鞭を執る。著書に『デジタルオブジェクトの存在について』(2016年、未邦訳)、『再帰性と偶然性』(2019年、邦訳は青土社、2022年)、『芸術と宇宙技芸』(2021年、未邦訳)。『ゲンロン』に「芸術と宇宙技芸」を連載。

○訳者 伊勢康平(いせ・こうへい)
1995年京都生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程在籍。専門は中国近現代の思想など。翻訳に王暁明「ふたつの『改革』とその文化的含意」(『現代中国』2019年号所収)、ユク・ホイ「百年の危機」(「webゲンロン」、2020年)、「21世紀のサイバネティクス」(「哲学と技術のリサーチネットワーク」、2020年)ほか。

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