中沢 新一 (編) 『東洋の不思議な職人たち』
☆mediopos2711 2022.4.19
本書『東洋の不思議な職人たち』は
平凡社の東洋文庫のなかから引用編集された
(三〇年以上前に刊行されている)
「東洋文庫 ふしぎの国」シリーズ全十二巻の第二巻目で
中沢新一が担当しているが
「職人」という視点への興味からあらためて読み返している
現代技術の中心にあるのは
いうまでもなく科学技術的なテクノロジーだが
技術を意味するテクノロジーという言葉は
ギリシャ語の「テクネー」がもとになっている
ハイデッガーによれば
その「テクネー」は古典時代のギリシャでは
「隠れてあること、隠れてあるもの=レティア」を
「否定する=ア」という意味をもった
「アレテイア」と近しいものだった
隠れてある事物をあらわにする「アレテイア」は
隠された真理をあらわにしようとする哲学や
自然のなかに隠れてあるピュシスの働きを
あらわにしようとする芸術などとも深くかかわっている
その意味でいえば「テクネー」は
職人の手技や技量や道具などを媒介にして
隠されてあるものをあらわそうとする
そんな技術であるといえるのだが
現代の「テクノロジー」は
人間と自然を対立的にとらえ
自然に対して支配的な力を行使するものであって
芸術や哲学や宗教や自然のプロセスと
本質的なつながりをもつようなものではなくなっている
日本には「テクネー」のような
抽象度の高い言葉はなかったが
そうした「テクネー」的なものに関わっている人々を
「職人」という言葉でひとまとめにして呼んでいたという
興味深いことに
「武士から坊主から田楽法師から遊女から天皇にいたるまで」が
すべて「職人」であって
それらに「共通のもの」を見通していたようだ
つまりそれらはすべて
「自然のなかに隠されてあるものを、
ポイエシスとはちがうやりかたで、
あらわにひきだそうとする行為をおこなう人々」だったのだ
「(狭い意味の)技術者、芸能者、狩猟をおこなう人々、
宗教者、武士、エクリチュールのプロ、
法律や儀礼の専門家、博打打ち……」といった「職人」たちは
「じぶんの身体をとおして、いまだ隠されてあるものの力に
直接触れ、そこから挑発やトリックやらをとおして、
この世界のなかに魅惑的だったり、有用だったり、
ときには危険だったりする何かをひきだしてこれる技を、
身につけている」そんな存在としてとらえられている
「職人」たちは現代の科学技術的テクノロジーのように
即物的な意味での「もの」だけに関わっているのではない
いってみれば物質と精神をふくんだ「変成の技」
言葉をかえれば錬金術的なテクネーに関わっていたといえる
物質と精神の深みにある秘密を
慎重な仕方で注意深く開示させながら
そこにある力を得るために
みずからをも変容させていく技である
テクノロジーには
それによって作られた機械によって
心身を変化させるという視点はあるだろうが
技術そのものの働きのなかに
みずからの魂そのものを関わらせていく
という視点は欠けているがゆえに
自然とのエコソフィア的な関係を築くことは難しい
上記の意味での「職人」という視点で
技術そのものを「変成」させていくことが
これからの時代の課題だともいえるだろうが
二十一世紀もすでに二十年代になった今
それはむしろ後退さえしているのかもしれない
■中沢 新一 (編)
『東洋の不思議な職人たち』
(東洋文庫 ふしぎの国 平凡社. 1989/11)
(中沢新一「技術のエコソフィアへ」より)
「どうして技術の「本性にしたがった」発達が、ほかでもないキリスト教のヨーロッパでだけ可能になったのだろうか。アジアでおこったさまざまなかたちの高度な技術は、どうして、今日のような惑星的規模をもったテクノロジーの時代をつくりだすことにならなかったのだろうか。東洋の文明のなかには、ひょっとしたら、技術がその「本性にしたがって」発達をおこなうことが、人間にとってなにか正しいものではない、と考えるような叡智が存在して、そのためにそこでは技術のオートノマス(自律的)な発達をはばむ力が働きつづけていたのではないか。こういう疑問に答えをみいだしていくためには、ヨーロッパに発達した技術のかたちにだけ視野をかぎっていたのでは、いっこうに糸口は見えてこないのだ。
ヨーロッパの哲学者のなかで、はじめてこういう問題に本格的にとりくんだのは、ハイデッガーだ。ハイデッガーの哲学は、ギリシャ古典の世界とルネッサンスをひとつながりにして、自分たちの精神の歴史を物語ろうとする、西欧文明でスタンダードとなった考えにたいする、鋭い批判がこめられている。
(…)
彼の技術論の画期的なところは、技術とは人間にとった何なのだろうか、という問いかけをおこなっていくときに、(…)「技術的なもの」のガイスト(たましい)とでも呼んだらいいようなものの核心にむかって、まっすぐに矢を射ぬいていこうとした点にある。
(…)
技術をあらわすテクノロジーという言葉は、ギリシャ語の「テクネー」がもとになっている。だが、このテクネーという言葉は、私たちがこんにちテクノロジーという言葉で表現しようとしているのよりも、はるかに深く、また広い内容をあらわそうとしていた、とハイデッガーは語る。(…)
まずテクネーは、古典時代のギリシャでは、アレテイアという言葉と、ごく近いところにあると考えられていた。アレテイアは「隠れてあること、隠れてあるもの=レティア」を「否定する=ア」という意味をもった言葉だ。つまり、隠れてある事物をあらわにするというわけだから、これはとうぜん隠されてある真理をあらわにしようとする哲学や、自然のなかに隠れてあるピュシスの働きをあらわにする行為である芸術などとも、深いつながりのある言葉だということがわかる。テクネーは、このアレテイアに全面的なかかわりをもっているのである。
(…)それはたんに、職人のたくみな腕前や手の技やじょうずに考案された道具類をあらわしているのではない。職人の手技や技量や道具などを媒介にして、人間は「テクネー」することをつうじて、なにか隠されてあるものをあらわなものに出できたらせようとするのだ。
(…)
テクネーとは、プロセスなのだ。それは、あらわれでてこようとして、いまだに隠されてあるものやことを、私たちの生きている世界のなかに出で—来たらす行為のプロセスの全体性をさしている。技術史は、このプロセスとしての技術の全体をみすえた歴史のディスクールでなければならない。それと同時に、技術はいつも「アレテイア」にかかわりをもっている、ほかのすべての行為とのつながりのなかで、考えられなければならない。こうして、技術はその本性がまさに「テクネー」であることによって、芸術や哲学や宗教や自然のプロセスとの本質的なつながりを、深いレベルでもういちどとりもどすことができるようになる。
(…)
技術にたいしての、エコソフィア(地球惑星的な叡智、と言ったほどの意味だ)が必要だ。ほんらいパラドキシカルな本性をもった技術にたいして、それをいつも凌駕していられるような叡智のかたちが、つくりだされなくてはならない(哲学なんて、このところテクノロジーにやられっぱなしではないか)。」
「日本語のなかには、もともとテクネーのような抽象性をはらんだ言葉はなかったが、そのかわりにテクネー的行為にかかわっている人々を、ふつうとはちがうことをしている人たちだという意味をこめて、「職人」とひとまとめにし分類することによって、その本性にたいする認識を表現していた。武士から坊主から田楽法師から遊女から天皇にいたるまで、とにかく「職人」と十把ひとからげにしてしまう様子を見て、日本人の認識のなかでは、まだ芸術や宗教や技術が未分化のまま混在していたのだ、などと勘違いしてはいけない。そこには。武士と十女を、宗教者と鋳物技術者とを結びつけている「共通のもの」を、たやすく見通すことのできない現代人などよりも、人間の行為の本性に対する、はるかに鋭敏な直感力がしめされているのだ。
たしかに、職人として分類された人々の得意とする「技」は、きわめてバラエティに富んでいる。その様子をいちばんよくあらわしているのが、たとえば『庭訓往来』のなかの一文である。そこに、小気味のよいペースでつぎつぎと列挙されている職人たちの仕事の内容をみると、その記事を書きながら、筆者の頭のなかには、「職人」とひとつにまとめられた人々の仕事ののなかには、すべてに共通するひとつの本性といっしょに、「職人的世界の構造」とでも呼ぶべき何かの体系性の萌芽のようなものが、思いつかれていたのだ、ということがはっきりわかる。
(…)
職人はたしかに、ここでも「テクネー」の技にたずさわる人々であったようだ。つまり自然のなかに隠されてあるものを、ポイエシスとはちがうやりかたで、あらわにひきだそうとする行為をおこなう人々が、職人と考えられている。(狭い意味の)技術者、芸能者、狩猟をおこなう人々、宗教者、武士、エクリチュールのプロ、法律や儀礼の専門家、博打打ち……彼らはじぶんの身体をとおして、いまだ隠されてあるものの力に直接触れ、そこから挑発やトリックやらをとおして、この世界のなかに魅惑的だったり、有用だったり、ときには危険だったりする何かをひきだしてこれる技を、身につけているのだ。武士がテクネーにかかわる、と考えられたのは、彼らがもともとは人殺しの技術をもった人々であったためだ。
(…)
遊女や白拍子が職人である、というのも、面白い考え方だ。彼女たちは、性の領域における職人であったからだ。
(…)
宗教者もまた職人として、テクネーにたずさわっている。とくに仏教の僧の職人性は、強く意識されていたようだ。彼らの関心がおもに、死や無や彼岸の領域に向けられていたことと、これは関係をもっている。
(…)
文字や音声言語のプロフェッショナルは、律令体制を必死にとりいれることからはじまった日本のような国では、とくに政治権力と、深いつながりをもつようになった。文字を知り、儀礼を知り、言語を自在にあやつれる能力は、そういう政治システムのなかでは、ただちに権力の行使に結びついていったからだ。
(…)
こうしてみてみると、職人の世界のもっていた大きな影響力に、あらためて驚かざるを得なくなる。テクネーは、産業だけではなく、政治や思想や芸術を導いていく力をもっていたのであるから。」
「こういう視点から、東洋文庫に収蔵されている、職人の世界についての記録をながめなおしてみると、私たちはそこにいくつかのきわだった特徴をみつけだすことができそうな気がする。(…)ここでは、そういう職人の世界の構造として考えられるもののなかでも、もっともシンプルなものの一例を挙げておくことにしよう。
「捕獲の技」にしたがう漁師や狩人たちは、あらゆる種類の職人のなかで、もっとも自然の生命プロセスと接近したところを仕事の場所にしている人たちだ。彼らは、海や山や森のなかを、人間よりもはるかに柔軟な運動力をもって移動している動物を、殺し、捕獲するのが仕事である。そのためには、漁師や狩人は、動物の生態や、自然環境のしめすさまざまな徴候(しるし)にたいしる。深い経験と知識をもっていなければならない。そればかりではなく、彼らは、じぶんの身ををそういう自然の力のなかにさらしていかなければならないのだ。
(…)
「捕獲の技」の反対の側に「トリックの技」にたくみな職人たちがいる。いわゆる芸能の民の多くが、この技をつかって生計をたててきた。(…)彼らは徹底的に非生産的な消費にむかおうとするのだ。(…)彼らの芸能はピュシスの根っこを断ちきられた状態のなかで、フェイク(偽物)としてのピュシスを幻影的に現出させることに、その才能をそそぎこむのだ。
(…)
つぎに、「捕獲の技」と「トリック」を結ぶ軸に直交するようなかたちで、こんどは「再現の技」と「偶然の技」を結ぶ、別のタイプの軸があらわれてくる、これは表現や意味の生産に、深い関わりをもっている軸である。この軸上にいる職人たちは、気候とか地形のような自然があたえてくれるさまざまな徴候(しるし)のなかに、何かの意味を読み取ったり、トランスみたいにふつうではないサイキック活動がいま見せてくれるもののなかに、これまた何かの深い意味を知ったりするための知識と身体技法の技にたくみなわけであるから、彼らは意味のシステムによる捕獲の技の職人であるともいえるし、また木を彫ってほんものそっくりの、でもたべられない果物をつくったりする再現の技についていえば、トリックの技に近いことをやっているともいえる。しかし、彼らはピュシスの運動のなかに人間的な意味をつくりだしていこうとする人々として、ピュシスと言語とが切り結ぶ領域にかかわっている。つまりこの軸上に、超越とか神とか権力とかが発生してくるのだ。その意味では、この軸はポイエシスに直交しながら、それに結びついていく。なぜなら、神や超越は、自然に内在しているとともに、それを超出していくものでもあるからだ。」
「偶然の技」にたくみなのは、神意を占う宗教者や、運を天にまかせる博打打ちだ。世界を自由なアレアの状態に放置したままにしておいて、そのなかから宙に放り投げられたサイコロや、鍋につっこんだまま木の棒にくっついてきた米粒などにすがたを変えた「偶然」の力をかりて、意味をひっぱりだす。
(…)
こうして捕獲された意味を生産する力は、いつしか意味を一意的に固定していこうとする、別の技術にとらえられていくようになる。「再現の技」に向かうヴェクトルが、働きだすのだ。この軸の端には、法律の言語にたくみな職人たちがいる。彼らは、もともと恣意的なできあがりかたをしている記号なるものにたいして、決定権や権力をあたえて、意味の世界を固定するために、彼らの知識と文章と弁舌の技をそそぎこむ。
(…)
そしてそのふたつの軸(「偶然の技」と「再現の技」)のまじわるところに、「変成の技」があらわれる。もっとも職人的な技が、これだ。彼らは、文字どおり物質の変成のプロセスにかかわっている。しかし、それはたんに、物質のひとつの状態が別の状態に変化をおこすということではない。職人はこの変成の技にたずさわりながら、その変成過程において、物質のなかに隠されているピュシスを一瞬間だけ、この世界に裸のままであらわにしてみせるのだ。鋳物師が鉄分をふくんだ岩石を溶かして、何かの道具をこしらえようとしている。そのとき、鉱物が溶けて、真っ赤な液状の金属のなかから、道具として役に立つ何かのかたちが鋳出されるまでのわずかの時間、職人たちは、いまだにどんな物質形態にも所属していない、金属のたましのようなものに触れるのである。変成の技は、一瞬だけ、物質化された自然のなかに、「隠されてあるものを、あらわにし」、すぐさまこれを、ほかの物質の形態のなかに押し隠していく、そのマジカルなプロセスに決定的な関与をおこなうのである。」
「日本の近世のエピステーメーのなかには、テクネー的ラジカリズムを受け容れるための器が、ほとんどなくなってしまったのである。そういう世界には、もはや偉大な宗教思想も生まれない(日本人が、宗教思想においてもっとも創造的であったのは、鎌倉から南北朝期にかけての一時期であったが、それは社会のさまざまな領域で職人的なるものが、大きく浮上をとげてくる時代でもあった)。真剣な芸術家のなかには、かつて職人であったころの生のスタイルをみずから模倣することによってしか、創造の根であるピュシスに触れることができない、と感じる人々さえあらわれるようになった。大多数の日本人はそのとき以来、テクネーとしての技術の本性を、まっすぐにみつめることが苦手になってしまったのである。
しかし、そのあいだにも、日本的な「職人の世界」は、着々とユニークな発達をとげていたのだ。それはヨーロッパ的な科学技術とも異質な、自然とのエコソフィア的な関係をもとにする、本草学的技術の体系として、発達した。その日本的技術の思想のほんとうのすがたを、いま私たちは深く理解したいと願っている。その技術の思想は、長い無視や無理解のために、いままではっきりよ自己表現をしたことが、たぶんいちどもなかったのだ。だが、それをはっきりと表現する努力が、いまほんとうに必要になっている。技術はひとつではない。多様な形態をもった技術、東方的叡智の裏打ちされた技術、方言をしゃべっているような技術、それらすべてを織りなしながら、二十一世紀の儀重油文明へのヴィジョンが、かたちづくられていくだろう。東洋の不思議な職人たちが、何かを教えてくれるかもしれない。ヒントはいたるところにころがっている。」
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