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宮本隆司 『いのちは誘う/宮本隆司 写真随想』

☆mediopos-2499  2021.9.19

光そのものを
見ることはできない

光はそれを反射するものを
照らし出すのである
光が見えているのではない

反射するものは
いわば光をもたない闇でもある

光を見るためには
闇がなければならない

私たちが「見る」とき
私たちの内に闇がなければならない

もちろん闇だけでは
光は反射することができない
そこに「感光材料」が必要になる

私たちは
「受光装置である眼の網膜と、
認識と記憶装置としての脳」を
感光材料としてもっていて
それによって光を「見る」ことができる

その意味で私たちは
みずからが闇という「箱」になることで
光を見るための存在であるともいえる

私たちは光そのものを見ることができないが
みずからがこの物質世界において
闇の物質である身体をまとって生きているからこそ
光をその闇に反射させることで
光の影を通じて光へと向かうことができる
これはプラトンの洞窟の比喩の逆説的な見方でもある

とはいえ重要なのは
その光をどのように「感光」させるかである
そして「感光」させる際には
そこにさまざまな「先入観や既成概念」が入り込んでいて
「自由な視点」で「見る」ことはむずかしい

写真に写っているのは
「先入観や既成概念」から離れた
客観的な像であると考える者もいるだろうし
ものを考えるときにも
じぶんは客観的に考えていると思う者もいるだろうが
そういう人ほど多く歪んだ光を見ているともいえる

宮 隆司『いのちは誘う/宮本隆司 写真随想』に
収められた「随想」のなかに
ピンホール・カメラの話がでている

ピンホール・カメラからは「レンズ、フォーカス、
フレーム、シャッター・スピードなどの
カメラの基本的な機能」が極限まで取り去られている

そこで写される写真は
「ひとつのものに焦点がさだまることがな」く
「すべてがやわらかくゆるやかな」
「不鮮明でつかみどころのない不確かな世界」である

わたしたちはあまりにも
「先入観や既成概念」にも満ちている
私たちもまたそうしたピンホール・カメラのように
ときおり焦点をさだめない意識で
世界に向かい合うことも必要なのかもしれない

ピン・ホールカメラでなく
通常のカメラを使ってなにかを写すときにも
そうした意識で写すときには
「写す」という自力ではなく
そこに訪れる光を受けいれるように
「写る」という他力ともなり得るのではないだろうか
そしてそれはときに
「祈り」にも似てくるのかもしれない

■宮本 隆司
 『いのちは誘う/宮本隆司 写真随想』
 (平凡社 2021/8)

(「見るためには闇がなければならない」より)

「見るためには闇がなければならない、というときの闇とは暗闇のことである。見るためいは光も不可欠な要素である。さらに認識し、記憶するための感光材料が一用である。
 人間の眼もカメラも、見るためには闇と光と感光材料の三つの要素がなければならない、というのがより正確な言い方になるのだろうかが、わたしはあえてここで、見るためには闇がなければならない、と闇の存在を強調したい。なぜ、見るためには闇がなければならないのだろうか。

 人体の内奥は暗闇である。その闇に光を導き入れるための二つの球体が眼球である。球体内部に保たれた眼球は、前面にレンズとなる角膜に覆われた水晶体があり、透明な硝子体で埋まっている。水晶体レンズを通過した光が眼球の内面にある網膜上で像を結び、光を感ずる視細胞に知覚され、神経信号となって脳に伝わる仕組みになっている。
 感光材料となるのは受光装置である眼の網膜と、認識と記憶装置としての脳である。逆さま裏返しになった左右二つの画像が脳に送られ、画像処理され認識されると、そこで「見ること」が成立する。人がものを見るためには、闇と光と、感光材料としての眼の網膜や脳が必要なのである。眼という受光装置が機能するためには、光とともに闇が必要なのである、物理的な必然といっていい。」

「闇は人間を存立させる世界の構造そのものにかかわる基本的な要素なのに、闇があることをふだん、あらためて意識することはない。
 そうなったのは、現在の日常では本来の闇を体験する機会がなくなったからである。昼も夜も、どこもかしこも明かりがついて照明された光で溢れている。真の暗闇が消えてしまった。」

「ものを写真という技術で見るとき、眼球で闇を確保する代わりにカメラという暗い箱に闇を確保して見る。明るいところでカメラという闇の箱に光を導き入れ、画像を撮りだして見ている。闇という見えないものを媒介にして見るのである。見るためには闇がなければならないのである。」

(「ピンホールから見えるもの」より)

「わたしのピンホール撮影は、写真撮影というよりも、あちこちの現場に出かけていって建設作業する肉体労働に近いものである。撮影に使うピンホール・カメラは、かなりの大きさで、縦一メートル八二センチ、横九一センチ、高さ一メートル五〇センチもあって、まるで小屋のような大きさのカメラである。カメラ。オブスキュラの意味するところの「暗い部屋」そのものである。
 なぜこんな大きなカメラを使うのか。それはホームレス(路上生活者)の人々が作って住む段ボール小屋から発想を得てピンホール・カメラ撮影をはじめたからである。そして、ダンボール小屋に住むように、わたしがカメラ内部でわたし自身が感光材料の印画紙を内面にセットして、シャッターを開閉しなければならないからである。」

「箱、あるいはダンボール小屋の中から外を見ると、なぜか視覚が既成概念から自由になったような気がする。
 あらゆる価値が等価に見える世界をながめると、見えるものがそれぞれに際立ってきて、ことばで説明しづらくなり、あれも・・・・・・これも・・・・・・それも・・・・・・なにもかも・・・・・・、と箱男(註:安部公房の小説『箱男』の主人公)のように、つぶやくことになるのかもしれない。視線が一時的に決まりきった約束や思い込みから解放されたようになるのだろう。このことは、そっくりそのままピンホール・カメラの特性である。そして、すべてがやわらかくゆるやかな世界となり、ひとつのものに焦点がさだまることがない。

 世界を等価に見る、ということは、先入観なく世界を見るということである。(・・・)
 カメラを持つと世界を自由になんでも撮ることができ、見ることができると思う。ところがやはり人は、ある規制の考えや方則に沿った視点でしか見ることができない。先入観や既成概念にしばられずに自由な視点で見ることなど、まず不可能なことなのである。
 ホームレスの小屋のようなカメラから世界を見れば、こうした既成概念に束縛されない自由な視点を確保できるのではないか、とわたしは想像した。」

「ピンホール・カメラの撮影は、ピントを合わせるという操作がない。レンズと違ってピンホールを通して画像は定まらず輪郭が曖昧なのである。あらかじめ、すべてにやわらなくピントが合っているという特性があるためである。
 フレームを切り取るという操作もない。ファインダーがないから、いい加減に画面を設定することしかできないのだ。さらに露光時間が長い、そのために動くものを写すのがむずかしい。
 このないない尽くしのピンホール・カメラが写し出すのは、不鮮明でつかみどころのない不確かな世界である。ピンホールを通過した、やわらかくていいかげんで曖昧に見える写真はレンズ、フォーカス、フレーム、シャッター・スピードなどのカメラの基本的な機能を極限まで取り去った果てに、それでも見えてくる世界の光景なのである。」

「そして、わたしがピンホール・カメラの撮影で最も気をつかい苦労するのは、明るいところで完璧な闇をカメラ内部に確保することである。」


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