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水野しず『親切人間論』

☆mediopos-3090  2023.5.4

水野しずはPOP思想家である

本書『親切人間論』は
note「水野しずのおしゃべりダイダロス」
(毎週金曜日:定期購読マガジン/
2019年11月~2021年12月)の一部が再構成され
書き下ろしの加えられた著者初の論考集

帯に「「新鋭」で「真説」で
「親切」な人間論」とあるが

ますます複雑(怪奇)になり
先が見えなくなってきている混迷の時代のなか
これまで哲学書では扱われてこなかったテーマが
POPな笑いを誘いながら論じられている

本書の趣旨について
「まえがき」ではこう記されている

「もはや我々は、地に足をつけようがない領域に
達していると認めた上で、改めて根底から
新しい「まともさ」についてよくよく考えたい。
それも親切に。
0(ゼロ)から、誰も置いていかないように。」

「新しい「まともさ」」について
「改めて根底から」考えるというスタンスに共感を覚え
なによりも本書に収められている記事が
とても面白いのでとりあげることにした

そのなかから
「矢沢共感性仮説」と
「自己肯定感」について

まず「矢沢共感性仮説」について

「矢沢永吉のファンの方は、基本的に
矢沢永吉本人が目の前に現れるまでは
自分が矢沢永吉だと思っているフシがある」という

「だから矢沢永吉本院が入場する直前まで、
会場(特に最前列付近)には
基本「矢沢永吉」しか存在しないのである」

「俺はいいけど、矢沢はどうかな?」と

そして矢沢永吉が現れた瞬間に
自分が矢沢永吉ではないことに気づく

わかりやすくいえば投影で
そのことを「矢沢共感性」としているが
面白いのはここからだ

矢沢永吉本人もその
「矢沢共感性能力を発動している」からこそ
矢沢永吉としての表現が可能となっている

つまりペルソナとでもいえるだろうか
矢沢永吉には矢沢というペルソナがあり
そのペルソナがファンにいわば憑依するということだ

そうした矢沢的ペルソナのありようは
キリスト教のような宗教におけるイエス的ペルソナや
人智学におけるシュタイナー的メルソナなどとも
共通していえることでもあるだろう

「俺はいいけど、イエスはどうかな?」
「俺はいいけど、シュタイナーはどうかな?」などと

続いて「自己肯定感」について

「そもそも「自己肯定感」を
持たせようとしてくる側は信用できない」という

自己肯定感を得やすいということは
「社会的に「正しい」とされやすい」ということであり
「多数派」であるがゆえに
「簡単に何の苦もなく「存在してOK!」感を得られる」
それは一種の洗脳でもある

それは
「市場に流通している商品としての「肯定感」」にすぎず
そんな「穴の空いたバケツにバカスカ水を注ぎ込む」
ようなことをするよりは
「バケツを修理したほうが話が早い」という

「自己肯定感」をもつということは
水の溜められるような自己である必要があり
その水はじぶんで汲んでこなければならない

それはある意味で
答えのある問いを与えられることと
答えのでていない問いを見つけることの違いでもある
前者による「自己肯定感」は空いたバケツであり
後者によるそれは穴の補修されたバケツである

本書にはこうしたテーマをはじめ
著者が「根本的かつ致命的と思われる問題」について
「根底から」考えようとしている論考が集められているが

面白く読めるのはもちろん
その笑いの門から思いがけないテーマが
さまざまなかたちで見えてくるのがうれしい

■水野しず『親切人間論』(講談社 2023/4)

(「はじめに」より)

「自分の考えを持て」って、やたらとしきりに急かすように四方八方から言われますが、どうなんでしょう。無重力の世界で、今すぐ地に足をつけろと言われているような無理難題。今の世の中はあまりにも複雑すぎて、オリジナルの考えを持つどころか、身の回りで何が起こっているのかすらも判然とせず、みな途方に暮れているような気がする。ビジネス書の解説動画を倍速視聴しながら、アイロンがけをしたりして、一体この命がどこに向かって急ぐのかよけいに訳が分からなかったりして。この右腕も左腕も、果たしてなんのためにぶら下がっているのか。分からない。なによりこの心は、なんのために崖を転がり落ちるほどの絶望に苛まれたりあるいは神経細胞を伝達する光よりも速く時間すら超えて躍動するのか。それも分からない。ただ無数の情報が激動するまま、人の心が大きな波に飲まれて翻弄されているという意味では、いよいよ石と棍棒が大活躍する時代が近づいているようにも思えてくる。まともな人間性。そんなものでは生きていけないが、そんなものがないんだったらそもそも生きている意味がない。もはや我々は、地に足をつけようがない領域に達していると認めた上で、改めて根底から新しい「まともさ」についてよくよく考えたい。それも親切に。0(ゼロ)から、誰も置いていかないように。」

(「自分のことを矢沢永吉だと思い込んでいる人々」より)

「矢沢永吉の周囲には最高の話が事欠かない。」

「イベント会社に勤務していた友人が、矢沢永吉のコンサートを担当したときの話が印象的で

 矢沢永吉のファンの方は、基本的に矢沢永吉本人が目の前に現れるまでは自分が矢沢永吉だと思っているフシがある。

 だから矢沢永吉本院が入場する直前まで、会場(特に最前列付近)には基本「矢沢永吉」しか存在しないのである。

 スタッフが最前列の整列をしようとすると、最前の、つまりは最も矢沢永吉的な感じの人たちが一様に
 「俺はいいけど、矢沢はどうかな?」
 という感じ、感じの難色を示す。

 「一・人間として公共の利益に即するのは望むべきところだが、それをやってしまっては矢沢永吉としての周囲の期待を裏切ってしまう」

 という言です。
 しかし、目の前に矢沢永吉が現れた瞬間に彼らはハッと気がつくのだ。

 自分が矢沢永吉ではないということに。

 そして矢沢永吉が目の前からいなくなった瞬間に、また彼らの心中に一つの疑惑の芽が発露する。
 曰く、

 「ひょっとして、オレが矢沢永吉なのでは・・・・・・?」
 (違うとは思うが、実存としての本人がいない以上完全否定できない)」

「私はこの特性を仮に〝矢沢共感性仮説〟と名付けた。

 矢沢共感性は恐らく、人間が社会性という機能を武器にして繁栄していく過程で特性として織り込まれ活用されている。

 人類が原初的な集落のまとまりを拡大、集約していく過程で宗教というシステムが大いに八久和っているけど、
 これも矢沢共感性である、
 なぜなら、キリスト教を信仰している人は、

 「うっすら自分がキリストのような気がしている」

 というフシが感じられるからで、
 しかもキリスト教のすごいところは矢沢のコンサートと違って、

 実際にキリストが目の前に現れることがない

 教えをただ守るのは難しいけど、自分がキリストかもしれなかったら・・・・・・どうだろう。

 「俺はいいけど、イエスはどうかな・・・・・・?」」

「そもそも矢沢共感性における「矢沢」自体、実体としての矢沢ではなく態度・在り方としての矢沢であるということは明白であって、実体としての矢沢本人も矢沢共感性能力を発動しているからこそ表現できる要素がある。」

(「人生に絶対的な安心がないから脳は常に完璧な命を希求するしそれは「死」のことである。だから生きようとするあまりに絶命に至る神経は点滅を繰り返し、結果としてグラグラの積み木の頂点に仕上げの三角だけ載せようとする行為が蔓延する」より)

「「自己肯定感」という言葉の用いられ方が、なぜこうも歪なのか

 昨今雑誌をめくると自己肯定感を高める方法について様々な特集が組まれていますが、果たして「自己肯定感がある」とは、一体どういった状態を示しているのでしょうか。具体的にどういうことなのか分からないまま、なにかこれを高めなければいけないといった風潮に困惑している方も多いでしょう。私自身も意味がわかりませんが、「自己肯定感を持ちたい」という質問をよくいただきます。」

「「存在してOK!」の根拠

 なぜ人々が熱心自己肯定感を追い求めるのかと言えば、自己肯定感が満たされている人間が一般的に正常であって、自己肯定感が欠如している人間は、なにかしら問題を抱えた(病んだ)状態であるかのように考えられているからです。

 それでは最も自己肯定感を得やすい状態の人物とはどのような状態なのでしょうか。それは当然社会的に「正しい」とされやすい状態の人物のことです。つまり、多数派であり、理想的である要素が多ければ多いほど、簡単に何の苦もなく「存在してOK!」感を得られるということです。」

「そもそも「自己肯定感」を持たせようとしてくる側は信用できない

 「気持ちの問題だから」と言われても、気持ちの問題って言わばそれが全てだから、それで何か問題がかたづいたかのように言われたところで困ります。「自己肯定感」とやらを持たせようとしてくる側は、なにかこのように全てを気持ちの問題に片づけてこちらの気の持ちようでなんとかやりくりしてくださいね、と言っているようにも感じます。それは一見親切そうでありながら極めて冷酷で非情な態度です。真に受ける必要はありません。無理して目の前のことに手をつけて、少しでも自分をマシにしたほうがよっぽど得です。穴の空いたバケツにバカスカ水を注ぎ込むより、バケツを修理したほうが話が早い。大体、バカスカ水を注ぐように勧めてくる側も金儲けのために人の弱点をいかにも親切そうな雰囲気で指摘してきているだけなので相手にするだけ損です。

 確かにこの世は最悪ですが、生まれた瞬間に自分にはどうにもならない理由でぶち殺されなかっただけでもマシです。自分がマシになるのが一番話が早い。これしかありません。マシになりたいという動機は、必ず人の心に存在の動機を与えてくれます。市場に流通している商品としての「肯定感」ではありませんから、カネを払い続ける必要もありません。最高ですね。」

◎水野 しず
イラストレーター/POP思想家
1988年生まれ。岐阜県出身。武蔵野美術大学造形学部映像学科中退。note連載中の『おしゃべりダイダロス』は難解なのに読みやすい爽快な面白さで評判に。「嫌さ」表現のスペシャリスト。論考のほか、イラストレーションや短歌でも独自の表現を追及。面白くて新しい雑誌『imaginary』編集長。

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