見出し画像

斎藤 環『中井久夫スペシャル 本当の「やさしさ」とは』

☆mediopos2939  2022.12.4

中井久夫が亡くなり
中井久夫の著書が紹介されたり
特集した本が刊行されたりしていることもあり

あらためて中井久夫という
稀有の人物について
しばらく考えてみることにしたい

今回は同じ精神科医である斎藤環による
NHKの「100分 de 名著」の
『中井久夫スペシャル』から

このテキストでは中井久夫の著書のなかから
『最終講義』『分裂病と人類』『治療文化論』
『「昭和」を送る』『戦争と平和 ある観察』
という五つの著作がとりあげられている

このテキストの副題には
「本当の「やさしさ」とは」とあるが

「やさしさ」という
わかりやすい言葉/表現が
実際にはいかに困難なことかが
中井久夫の仕事からは痛切に感じられる

いうまでもないことだが
「やさしさ」には「強さ」が不可欠である

「常に患者やマイノリティの側に立つという倫理感」を
貫くためにはそれに反することにたいして
決して譲らず「怒り」さえ辞さない態度が必要となるように

興味深いエピドードが紹介されている
中井久夫の診察に陪席していた見学者が
腕組みをしているのを見つけ
「いかにも〝上から目線〟の態度を見とがめて
厳しく注意した」というのだ

それは「知」ということについて不可欠な
基本的態度とも関係しているはずだ

「「知識欲が権力欲に転じることを嫌った中井は、
意図的に自分の理論の「大系」を作」らなかったという

中井久夫のさまざまな考えやアイデアは
「しばしば断片的な箴言の形で表現されるため」
斎藤環はそれを「箴言知」と評したことがあるというが

ある意味で「大系」を目指す「知」は
まさに「上から目線」だということもできる
そしてその「上から目線」の「知」は
「しばしば視野を狭く」することになる
このことは「知」を求める者にとって
なによりも必要な態度にほかならない

ある意味で「管理社会」的なありようこそが
「管理」という「大系」を目指し
そこから外れるものを視野の外に置くことになる

「本当の「やさしさ」」のためには
常に「患者やマイノリティ」のような
「大系」的なものから外れるものを疎外することに対して
「凜とした「義」のエートス」をもたねばならない

それがいかに困難なことか
中井久夫の稀有な仕事をみるとそのことがよくわかる
その意味でも中井久夫は「奇跡の人」なのかもしれない

■斎藤 環『中井久夫スペシャル 本当の「やさしさ」とは』
 (NHKテキスト 2022年12月 NHK出版 2022/11)

(「はじめに」より)

「中井の仕事のすべてに通底しているのは、常に患者やマイノリティの側に立つという倫理感です。しかし、中身は単にやさしいばかりの人ではありません。不正義に対しては特に強い怒りをあらわにすることも辞さない、凜とした「義」のエートスを体現した人でもありました。
 また、中井は「歓待」の人でもありました。人であれ文章であれ、さまざまな対象と深く相互浸透し、そこから影響を受けて自らも変容してしまうところがあったのです。」

「知識欲が権力欲に転じることを嫌った中井は、意図的に自分の理論の「大系」を作りませんでした。そのアイデアはしばしば断片的な箴言の形で表現されるため、そうした知性のありようを私はかつて「箴言知」と評したことがあります。大系はしばしば視野を狭くしますが、すぐれた箴言には発見的な作用があります。中井が残した箴言の数々は、これからも私たちの導きの糸となっていくでしょう。」

「多くの読書家は、著者の背景にどんな知識体系があるのかに関心を持ち、本からそれを読みとろうとします。しかし、中井は意図的に体系化や物語化を回避していた人ですから、そうした読みにこだわる必要はありません。大系のない箴言の集積だからこそ、どの本から読み始めて、どんなふうに読んでもいい。気軽に読み始めて、気軽に立ち去る。そういう読み方でかまわないのだと思います。また、治療ならぬケアの思想に満ちた中井の箴言は、みなさんが自分の心のケアをするときにも、きっと役に立つはずです。」

(「第1回 「心のうぶ毛」を守り育てる————『最終講義』」より)

「(統合失調症)は、かつては精神分裂病と呼ばれ、一九八〇年代頃まで、難治性の、進行性かつ慢性化しやすい疾患であると考えられていました。ほとんどの精神病理学者が、特異で、深刻で、人間の存在を根底から掘り崩すような疾患だと主張する中、一貫してその考え方に抵抗し、治療によって回復可能な病であることを主張し続けたのが中井久夫でした。」

「回復の過程でどんな身体的変化が起こるのか症例をもって実証しながら、慢性状態も不断に変化し続ける寛解の過程にほかならない、つまり治る可能性があることを、きわめて説得的に示したのです。
 慢性化している時期を、コンディション(状態)ではなく寛解の可能性を含んだプロセス(過程)に読み換える。このパラダイムチェンジがいかに画期的だったかは、いくら強調してもし過ぎることはありません。なぜなら、プロセス、つまり変化し得るものだと考えることで、諦めと惰性が支配的だった慢性期の治療に一筋の希望が生まれたからです。患者と医師が希望を共有できるかどうかは、治療において非常に大きな意味を持ちます。」

「常に患者や弱い立場の人の側に立った中井は、たびたび患者の自宅に往診し、時には一晩中患者のそばに寄り添うこともありました。現代の医療におけるアドボケーターのように、患者の代弁者としての発言も数多く残しています。もの言わぬ患者たちの代弁にせよ、翻訳の仕事にせよ、中井久夫という人は何かの媒介者の役割を担うときに、ことのほか鋭い知性を発揮する人だったのかもしれません。
 患者との関係性を重んじる中井は、身体の診察をとても大切にしていました。特に訴えがなくても脈をとり、睡眠や便通の状態をなずねるなど、身心の状態を丁寧に診察し、それを会話の糸口にしていたようです。」

「『最終講義』には、言葉を使ったコミュニケーションについてさまざまな知恵ふがちりばめられています。たとえば、言葉のやり取りをすると、私たちはどうしても因果関係を考えてしまいますが、患者に「なぜ」「どうして」と因果関係を尋ねる行為は、妄想の生成に手を貸してしまうかもしれないと中井は指摘します。」

「中井久夫は、患者の尊厳を徹底して尊重することがそのまま治療やケアにつながることを、一貫して主張してきました。人の尊厳、特に患者の尊厳の尊重は、治療に関わるすべての人が常に心得ておくべきことです。しかし残念ながら、日本の精神科医療には、時には人の尊厳を犠牲にしなければ治療ができないと考えるパターナリズムがいまだに残っています。
(・・・)
 中井久夫の診察には研修医などが陪席して見学することが多かったのですが、あるとき、腕組みをしている見学者を見つけた中井久夫は、いかにも〝上から目線〟の態度を見とがめて厳しく注意したというエピソードが残っています。」

「患者の尊厳とともに治療で大切にすべきものとして、中井が強調しているのが、恥じらいやためらいといった、人の心の柔らかな部分でした。

   私たちは「とにかく治す」ことに努めてきました。今ハードルを一段上げて「やわらかに治す」ことを目標とする秋(とき)であろうと私は思います。かつて私は「心の生ぶ毛」ということばを使いましたが。そのようなものを大切にするような治療です。

   分裂病の人のどこかに「ふるえるような、いたいたしいほどのやわらかさ」を全く感じない人は治療にたずさわるべきでしょうか、どうでしょうか。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?