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三木那由他「言葉の展望台㉙自分自身を語るために」(群像)/河合隼雄・鷲田清一『臨床とことば』/木村敏『人と人との間』

☆mediopos3283  2023.11.13

哲学的用語に
「一人称権威」というのがあるらしい
寡聞にもその用語は知らずにいた

「私たちが自分自身の心とのあいだに持つ
独特な関係を表す」のだという

「「自分自身の心について
「私はこれこれです」と一人称的に報告する場合、
その報告は他人によっては覆しがたいような
「権威」を帯びることになる」

そして「心について哲学的に考える」とき
「基本的な前提とみなされている」ということだ

たしかに「自分自身の心」を
他人の「権威」のもとに置くわけにはいかないが

言語使用の観点からしても
ましてや日常的な「自分自身の心」を理解する際にも
さらにいえば精神医学的にみればなおのこと

この「権威」というのは
ある特定の場合に限って
きわめて抽象化されたかたちでしか
成立しえない「権威」であることはいうまでもない

三木那由他「言葉の展望台㉙自分自身を語るために」で
とりあげられている「一人称権威」は
社会的なコミュニケーションにおける場合のことだが

それは「事実としてすべてのひとにあらゆる場面で
認められているわけではない」といい
「一人称権威について本当に考えるべきこと」は
「どうやって成り立たせていけばよいのか?」だという

しかしこの課題は
社会的な権利問題として語る際においても
「人と人の間」あるいは
その「間」にある社会的力学などによっても
「成り立たせ」るためには非常な困難が伴う

「一人称権威」は社会的には「人権」に関わるともいえるが
その「人権」は容易に社会制度や法
政治的な施策等によって限定されてしまうことが多いからだ

さらには「人と人」が対する際の相互理解の問題がある
人が他者をすべて理解できるわけではない
相手を信頼し「一人称権威」を認めることで
はじめて相手の言葉を受け入れることが可能となるが

人は容易に嘘をつく
あるいは嘘をつく意図はなくとも嘘になる
あるいは嘘でも本当でもないことを語ることはよくあることだ

しかも人はじぶんのことをどれだけ理解できているか
はなはだ疑問である
それゆえに古代ギリシア以来
「汝自身を知れ!」という箴言が繰り返し掲げられてもきている

そもそも「他者を二人称あるいは三人称の
人称代名詞で名指せるためには、
自己を一人称の人称代名詞で呼ぶという思考構造、
体験構造が確立していなくてはならない。
そしてのことは、けっして人間にとって
自明の能力ではないのである。」(木村敏)

「自分自身を語る」ためには
「一人称権威」が前提となるだろうが
「語る」ことは「騙る」ことでもあり
騙っているつもりはなくとも
どれほど確立した「自我」があり得るか疑問である

「自分自身を語」っているわけではないけれど
こうして書いている「私」という「一人称」にしても
この「私」が「自明」であるとは決していえない

■三木那由他「言葉の展望台㉙自分自身を語るために」(群像 2023年12月号)
■河合隼雄・鷲田清一『臨床とことば/心理学と哲学のあわいに探る臨床の知』
 (TBSブリタニカ 2003/2)
■木村敏『人と人との間/精神病理学的日本論』(弘文堂 昭和47年3月)

(三木那由他「言葉の展望台㉙自分自身を語るために」より)

「このところ、「一人称権威」について考えている。一人称権威とは、私たちが自分自身の心とのあいだに持つ独特な関係を表す哲学用語である。」

「自分自身の心について「私はこれこれです」と一人称的に報告する場合、その報告は他人によっては覆しがたいような「権威」を帯びることになる。これが「一人称権威」と呼ばれる現象だ。
 一人称権威は、心について哲学的に考える際には、(少なくとも私が専門としている分析哲学という分野では)基本的な前提とみなされている。誰かの哲学説を批判するときに「その考え方を採用すると一人称権威が成りたたなくなってしまうのではないか? それはまずいだろう」と指摘したり、そうした詩的を受けて「いや、この立場でも一人称権威が成りたつと考えることはできるのだ」と応答したりといったやり取りは、学会や論文でよく見かける。それくらい、広く受けいれられている考えなのだ。」

「でも、自分自身の心のありようについての報告には他人には覆すことのできない信頼性が与えられるという原則は本当に広く受け入れられているのだろうか、と最近思うのだ。一人称権威なんて、本当に哲学者たちが考えているほど常に成りたっているのだろうか?」

「一人称権威は決してあらゆる場面で等しく認められているわけではないように思えてくる。一人称権威が「当たり前」に認められるのは、きっと一部のひとだけなのだ。
「自分の心については自分がいちばんよく知っている」というのは、裏を返せば「心のなかについてはその当人にしか本当のところはわからない」ということでもある。だから、ひとたび一人称権威が否定されてしまったら、そのひとはもう自分の心についてその相手に伝えることはできなくなってしまう。」

「もちろん、嘘をついていることが明かな場合に一人称権威が成り立たないということ自体に問題はない。問題は、先に一人称権威の否定があったうえで、そこから訴求的に「嘘つきに違いない」という理由づけがなされているのではないか、ということだ。嘘をついているから一人称権威が認められないのではなく、一人称権威が認められないから嘘をついていることにされる、ということが起こっているのではないだろうか。」

「一人称権威は、知識の問題というより、ひととひととの関係の問題かもしれない。自分の心について自分以上に知っているひとはいないからこそ、私たちは互いに「私はあなたの心についてはあなたの言い分を基本的に認めるので、あなたも私の心については私の言い分を基本的に認めてくださいね」と相手を信頼しあって暮らしているのではないだろうか。」

「一人称権威というのはけっきょく何なのだろうか? わかっているのは、それが事実としてすべてのひとにあらゆる場面で認められているわけではないということだ。多くの場合、私たちは一人称権威を仲間同士で認め合って暮らしている。でも、認め合わなくても支障がない相手を前にしたとき、一人称権威はしばしば退けられてしまう。」

「一人称権威が否定されるとき、そのひとはもはや、心を持った存在として相手とコミュニケーションを取ることができなくなっているとさえ言えるかもしれない。一人称権威について本当に考えるべきことは、「なぜ成り立つのか?」ではなく、「なぜ常に成り立つわけではないのか?」、そして「どうやって成り立たせていけばよいのか?」なのではないか。それは単なる哲学的に興味深い現象ではなく、この社会における生存に関わる切実な問題なのだ。」

(河合隼雄・鷲田清一『臨床とことば』〜河合隼雄「臨床心理学と臨床哲学」より)

「本書では鷲田さんと、人と人の間の「距離」について話し合っている。(・・・)あらゆる「臨床」という学問において大切になってくることで、それは人と人との間のみならず、人とある現象の距離の在り方として、考えておく必要があると思う。(・・・)近代科学では、人間を対象から切り離すことが前提となっているのに対して、「臨床の知」の場合は、人間と対象の関係の存在を前提としている。となると、人間と対象との距離ということがずいぶん大切になってくるのである。」

(河合隼雄・鷲田清一『臨床とことば』〜鷲田清一「臨床と言葉(一)「語り」について」より)

「「わたしには他人の痛みというのがどうしても分からないんです・・・・・・」。わたしはこういう率直な発言が好きだ。
 ケアについて考えるとき、ひとはよく他者の「全人的理解」などという言葉を口にする。だれかを、そのひとが置かれている状況とそこでの想いもふくめ、まるごとしっかり理解する? しかしもし「理解」ということが、他人と同じ気持ちになること、より具体的には他人と同じように感じたり、同じように考えたりすることだとしたら、そのようなことはひとりの人間にはおそらく不可能なことであろう。また感情伝染のばあいのように、不意にまるで天啓のように同一の感情にとらえられるということもないではないであろうが、それは感情の共振ということであっても他者の理解ではない。なぜならそこには、「他者の理解」というものがなりたつ前提である、自他のあいだの隔たりというものが消去されているからだ。
 それに「全人的」ということにも異論がある。ひとは一個の全体としてとらえられるほどまとまった存在ではないからである。」

「自己というもののまとまった像など、だれも思い描くころはできないのである。「物事にはいろいろの性質があり、魂にはいろいろの性向がある。なぜなら、魂に現れてくるもので単一なものはなく、また魂はどの対象に対しても単一なものとしては現れないからである。ひとは同一のことで、泣いたり笑ったりする」。いいかえると、「人間はつねに分裂し、じぶん自身に反対している」・・・・・・。こう書いたのは、一七世紀フランスの思想家ブレーズ・パスカル(『パンセ』)である。じぶんのことですらそうなのに、はたして他者についてその「全体」を知るということなどできるものだろうか。そして「他者の理解」ができなければ、看護というものは頓挫してしまうほかないのだろうか、ほんとうに。」

(木村敏『人と人との間』〜「はしがき」より)

「私は、精神病というものを、人間であるかぎり誰にでも可能性のある、人間の生き方、在り方の一様相であると考えている。したがって、日本人には日本人特有の精神病的な生き方があるものと想っている。さらにまた、フロイトが『日常生活の精神病理』で示したように、われわれが普通と思っている事柄についても、これを精神病理学的に考察するということは、可能であるばかりではなく、必要でもあり、有意義なことでもあると想っている。」

(木村敏『人と人との間』〜「第四章 日本語と日本人の人間性/1 人称代名詞と自己意識」より)

「他者の主体性、つまり或る他者が誰であるかということは、つねに自己の主体性、自己が誰であるかということと密接に関連していて、究極的にはこれに還元されてしまう。他者を二人称あるいは三人称の人称代名詞で名指せるためには、自己を一人称の人称代名詞で呼ぶという思考構造、体験構造が確立していなくてはならない。そしてのことは、けっして人間にとって自明の能力ではないのである。幼稚の発育過程においても、人称代名詞の用法が確立するのはかなり言語機能の進んだ時期、つまり自己および他者の自己同一性と不変性についても、すなわち自己あるいはその人称代名詞で名指される特定の他者が、つねに変わらずそれ自身であり続けることについての十分な認識が可能になった時期においてである。」

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