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柳父章『未知との出会い―翻訳文化論再説』/三ツ木道夫〔翻訳〕『思想としての翻訳 ゲーテからベンヤミン、ブロッホまで』

☆mediopos-3073  2023.4.17

柳父章は翻訳文化を論じる本書において
言語にせよその他のさまざまな文化にせよ
西欧文化がその背景にある
左右対称の「シンメトリー構造観」を前提にするとき
オモテにでてこない見えないもの異質なものは
存在しないことになってしまうという

その「シンメトリー構造観」故に
人間はみな同じであり平等である
という人権思想も生まれ
「等質、等価な製品を大量に造り出」すことで
生活も豊かになった側面もあるのだが

その構造は「基本的に、
事(コト)に基づいているのではなく、
事を基にして、言(コト)が造り出」されるために
はじめの「事」が見えなくなってしまう

「言は、物語となり、歴史となって、
初めの出会いの事を覆い隠していく。
時間の経過とともに、人々が出会うのは、
一見事かと見えて、
実は言に整序された物語となっている。」

それは「人々に便利であり、
貴重なものとして扱われ」ているが
「同時にまた人々を欺き、
誑かすようになった言葉現象」であり
それを著者は「カセット効果」と呼んでいる

そうした「シンメトリー」と対比するかたちで
本書では「オモテとウラ」について述べられるのだが

「ウラというのは
「出会った人の向こう側」という意味である一方で、
「自分のウラ」という意味」もあるという

オモテとウラによる理解ではなく
フラットなオモテだけの理解に閉じられた
「「カセット効果」によって
「カセット文」においては
シンメトリー構造をもって語られる「言」の物語から
「ウラ」の「事」つまり「奥行き」が
排されてしまうことになるのである

近代になって西洋語の翻訳の影響で
日本語の文章語は大きく変化している

「〜は、・・・・・・である。」や
「〜は、・・・・・・た。」である

かつて「〜は」という助詞は
既知の事物に使われ
未知の事物は「〜が」で受けていたというのだが
西洋語文の主語を受けるために
「〜は」による文体がつくり出され
「未知の概念、未知の世界」である
「学問、法律などの文章の中心概念」を
それによって理解しようとしたのだという

それは「未知な事柄について、未知な世界が語られ、
その内容がほとんど有無を言わさずに
承認させられるような論理表現」であり
西洋語が元になったありがたい用語を
おしいだだくように受け取るための文体である

それはかつて
「漢文の一語一語に和語を当てはめ、
次に和語の語順に適したように並べ替え、
助詞や語尾などを補って読み下す方法」である
漢文訓読という方法を
西洋語の翻訳に応用したものであって

そうした「カセットの翻訳語」は
いうまでもなくもともとの西洋の言語とは異なっている
とにもかくにも西洋文明・文化を取り入れようと
そうした「「カセット文」の演繹的文体」によって
「未知な事柄について述べられる思想内容を、
そのまま取り込んで理解したような気分に」なってきたのである

そしてほんらいの西洋の言語が有している
背景や思想的文脈などが切り離されたままで
「カセット文」として受容されていくことになる
それがいまでも多かれ少なかれ
私たちの言語表現ともなっている

上記のように西洋語の翻訳は
漢文訓読の応用するところからはじまったのだが
現代の日本語からは次第に
漢文訓読による文化さえほとんど失われつつあることで
漢字・片仮名・平仮名による
日本語そのもののの「奥行き」が
「カセット効果」的に見えなくなってきている

SNSなどで使われる日本語文なども
「カセット文」にさえなっていないような
紋切り型のものが多く見られるようになっている

そんななかでチャットGPTのような
AIによる文章作成など
徹底的に「事」が見えなくさせられ
生きた思考が奪われた言語使用が実用化されようとし
「言」さえも見えなくさせられようとしている

もちろんそこには「ウラ」など存在せず
果たして「オモテ」さえ
記号化されたパターン表現でしかなくなってしまう

本書のタイトルは『未知との出会い』だが
そこには「未知」との「出会い」は存在しない

■柳父章『未知との出会い―翻訳文化論再説』
 (法政大学出版局 2013/5)
■三ツ木道夫〔翻訳〕
 『思想としての翻訳————ゲーテからベンヤミン、ブロッホまで』
 (白水社 2008/12)

(柳父章『未知との出会い―翻訳文化論再説』〜「序 初めに出会いがあった」より)

「人と人、人々と人々とが、比較すれば結局同じであるという考え方は、近代になって人為的に造られた考え、平等観である。この考え方は、近代以前の封建的で不平等な考え方を覆すのに有効だった。
(・・・)
 それを、ここで、シンメトリー構造観、と言っておこう。
 シンメトリー構造観は、基本的に、事(コト)に基づいているのではなく、事を基にして、言(コト)が造り出しているのである。
 言は、物語となり、歴史となって、初めの出会いの事を覆い隠していく。時間の経過とともに、人々が出会うのは、一見事かと見えて、実は言に整序された物語となっている。」

「シンメトリー構造観は、人間についての基本的人権思想を世界中に広め、また等質、等価な製品を大量に造り出し、生活を豊かにした。————その有効性を十分認めた上で、さらにその有効性の限界を、違った視点から指摘しておきたい。」

「こうして人々に便利であり、貴重なものとして扱われ、同時にまた人々を欺き、誑かすようになった言葉現象を、私は「カセット効果」と呼んできた。そして、この言葉現象いは、当然文明、文化の背景があり、そこにも同じような効果が考察できる、と考えている。

 カセット効果とは現象の「現れ」の結果である。どうしてこういう効果が現れてくるのか、と追求していくと、およそ地上で異質な存在が「出会う」ところから起こっている、と気付く。カセット効果を追求してきた私が、遂に「出会い」の現場に着目することになった次第である。」

「西洋におけるシンメトリー的発想の根は深い。たとえば、西洋を旅行するとまず目に映る建物、これがおよそ左右均整である、庭園がそうだ。(・・・)中国の建築はやはりシンメトリーが多く、昔から日本は中国式をお手本としていたので、これを真似して建物を造ったが、いざ造るとき、これは建築の専門家の話であるが、日本の大工さんは左右の均衡をどこかで必ず崩しているのだそうである。」

「左右対称のシンメトリーという基本的な図式に対して、他方、「オモテ・ウラ」という図式で文化の構造をとらえる考え方がある。」

「シンメトリー構造は、実験された事実、すなわち事を、方程式などの記号、広い意味での言にまとめあげようとする。この過程で切り捨てられた事を、如何にしてくみ上げることができるか。そこで、この「オモテ・ウラ」構造に着目したいのである。」

「生物学者本多久夫によると、おおよそ生物の体全体は一枚の閉じたシートでできていて、その閉じた表面と内側はオモテとウラ(生物学用語で ventral-dorsal)の関係になっていて、両者ははっきり区別されている、という。生物体内の独立した臓器や、個々の細胞も、同じような構造を持っているが、そのオモテとウラは逆で、臓器や細胞の内側がオモテで、外側がウラになる。そして生物が成長するときなど、オモテとオモテ、ウラとウラが接触し、融合、変化するが、オモテとウラが接することはない。生物のうちでも、植物には多少の例外があるが、動物については、このオモテ・ウラ構造はよくあてはまる、という。
(・・・)
 人の文化の世界にも、このオモテ・ウラ構造はかなりよく当てはまる。他人の家のオモテから訪ねた人は、オモテ的挨拶を交わして辞去する。戦場の兵隊は、敵方の兵隊のオモテだけに接して、そのウラ、つまり母国における日常の姿では・・・・・・考えない。つまり、出会いのなかで、お互いが対等・等価に理解しあうことはない。
 人を、人とふと人との出会いの場でダイナミックに考えるとき、他者の理解はシンメトリー的人間理解よりも、オモテ・ウラ的理解の方が現実的、かつ普遍的ではないか。」

「オモテ・ウラ原理は、よく誤解されるように、どちらか一方が優位であるのではない。とくにオモテが優れていて、ウラが劣っているという差別の原理ではない。少なくとも、基本的にはそうではない。たとえば、日本文化のオモテ・ウラの構造を上記のように言語から考えると、男文字の漢文は、女文字のかな文体に対して、古代では優位に立っていたように見えるが、やがて日本文の主流となったのは、今日に至るまで、むしろかつての女文字の文体なのである。」

(柳父章『未知との出会い―翻訳文化論再説』〜「第二章 「文」との出会い」より)

「近代以降、西洋語の翻訳の影響によって、日本語の文章語は大きな変化を受けた。
(・・・)
 それは、典型的には、「〜は、・・・・・・である。」とか、「〜は、・・・・・・た。」のような形をとっている。一つの文の意味の世界が、それじたいの中に閉じている形である。
 このような文体の起源は、私の見るところ、近代の始め、明治の大日本帝国憲法から始まっていた。
(・・・)
 この、「〜は」は、西洋語文の主語を受けていた。主語は、学問、法律などの文章の中心概念を表す。こういう舶来の意味は、近代化を目指していた当時の日本人エリートにとって、未知の概念、未知の世界だったが、それを懸命に受け取って理解しようとしていたのだった。
 ここで使われた「〜は」という助詞は、伝統的日本語では、もともと未知の概念を受ける働きはなかった。(・・・)未知の事物はがで受け、はは既知の事物に使われることになっていた。
(・・・)
 およそ「主語」という概念が、この頃以降、日本文の中に初めて作られたのだ、と私は考えている。多数の日本人読者は、こういう文を読んで、いきなり未知の言葉が出現して、それがいかにも大事なように、もったいぶって発言されている文に出会う。それで結局よく分からないままに、こういうものだと納得してしまうのである。難しい概念のこういう現れ方、受け取られ方を、私はフランス語の「宝石箱」をあらわす casette という言葉を用いて、「カセット効果」と呼んで説明してきた。つまり、そこに何が外っているかは分からないが、貴重なものに出会ったときの魅力のことである。」

「日本語文法では、「は」は格助詞の一種とされているが、もともと係助詞だったのである。「係り」はその「結び」を求め、両者は呼応して、閉じた意味の世界をつくっていく。この「結び」に使われる言葉は、その後「・・・である。」、「・・・た。」などの定型ができたが、近代の始め頃には文語体では「・・・なり。」、「・・・ス。」などが使われていた。」

「日本語の伝統には、漢文訓読という方法があった。漢文の一語一語に和語を当てはめ、次に和語の語順に適したように並べ替え、助詞や語尾などを補って読み下す方法である。この方法が、近代になって西洋語の翻訳にも応用されたのである。それを私は英文訓読、独文訓読などと呼んでいる。
 こういう型の文を、私は「カセット文」と名づけるが、それは、論理的に言うと、演繹論理を支配する文型である。未知な事柄について、未知な世界が語られ、その内容がほとんど有無を言わさずに承認させられるような論理表現である。カセットの翻訳語に「は」をつけて「主語」とし、そのあと比較的短い文で締めくくられる形がその典型である。カセットの言葉が「カセット文」をつくり出しているとも言えるだろう。」

「こうして近代以降私たちが西洋文化の翻訳から知った新しい世界は、すなわち西洋文化そのものだったのだろうか。————どうもそうではない、というのが私の考えである。
 (・・・)カセットの翻訳語は、その原語とは違っている。その意味は、ほとんど必ず違ったところがある。要するに、未知な事柄を未知のまま取り込んで理解したような気分にさせるところから始まるのである。
 そして「カセット文」の演繹的文体は、その未知な事柄について述べられる思想内容を、そのまま取り込んで理解したような気分にさせる。異文化の思想内容を語った文には、必ずそれに固有の背景、思想的文脈があるはずなのだが、「カセット文」はその背景から切り離されて断定されているのである。それはいわば、近代日本に新しく出現した新しい意味の世界だった。」

「つい最近、三ツ木道夫著『思想としての翻訳』(白水社、二〇〇八年)に、この説(注:ベンヤミンによる「純粋言語」という説)が翻訳・紹介されている。(・・・)
 翻訳というのは、翻訳元の原文とも、翻訳先の訳文とも、いずれとも異なる文を作り出すのであり、「純粋言語」はそこにつくり出されるというのである。二つの異言語の中間に、いわば第二の言語が出現する。それを「純粋言語」と言っている、それはいわゆる直訳によるのだが、ある特別な翻訳に現れるという。ベンヤミンはとくに、ルター、ヘルダーリンなどの翻訳の例を挙げている。
 およそ直訳というのは、原文の一語一語に対応する訳語を当てはめ、次にその訳語を、母語の構文に従って並べ替えるわけである。すると、そこに出来上がる翻訳文は、当然のことながら、翻訳元の文とも、翻訳先の文とも違っている。私の言う「カセット文」も、ベンヤミンの「純粋言語」も、その言語構造については基本的に共通しているようである。
 近代日本に出現した翻訳文は、その原文である西欧語文とも、伝統的な日本語文とも違った文だった。その構造は、「純粋言語」出現で説かれているのと共通の文だった。
(・・・)
 しかし、ベンヤミンの「純粋言語」と、近代日本の直訳調日本文とには、基本的な違いもある、と思う。
 ベンヤミンたちの用いている言語は、遠くさかのぼれば、古代ギリシャ、ラテン以来の古典西洋語を受け継ぎ、それがやがて近代西洋語としてヨーロッパ各国語に分かれてきたのだった。「純粋言語」とは、西洋古典世界を背景にもつ西洋知識人の、先祖返りしようとする試みのなかで育てられている観念ではないだろうか。
(・・・)
 私たちの近代翻訳調日本語は、これに対して、その源の一つは漢文訓読体であり、もう一つが西洋近代語なのである。漢文と西洋語とが、日本語を媒介として一つの完成された言語世界を形成してきたとみんされるようになるのは。まだずいぶん先のことではないだろうか。」

(柳父章『未知との出会い―翻訳文化論再説』〜「〈インタビュー〉翻訳との出会い」より)

「オモテとウラというのは、シンメトリーと対比するかたちで使ってみた言い方なのですが、ウラというのは「出会った人の向こう側」という意味である一方で、「自分のウラ」という意味もあります。ムコウの人のウラも、よくわからないけれども、自分のウラも、じつはよくわからない。そういう面がある。自分の意識は、言葉によって占められて、オモテだけが残っていく。ウラというのは、オモテからすれば「ないことにされる」だけではなく、「見えなくなってくる」ものなのです。」

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