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『文藝 2022年春季号/特集 母の娘』 〜 水上文 「「娘」の時代 /「成熟と喪失」のその後」

☆mediopos2615  2022.1.13

『文藝』の特集「母の娘」の
最初に置かれている「批評」
水上文「「娘」の時代」のなかの
「呪われたままでいるわけにはいかない」
に象徴されているような吼える言葉が
どこか般若になるまえの
生成りのように響くのが切実感があって面白い

最初に批判の刃が向けられている
斎藤環の言う
「父殺し」は可能だが
「母殺し」は不可能であるというのは
たしかに斎藤環の隠された単純なおじさん性を
露呈している言葉でもあるのだが

水上文は(おそらく本人は否定するだろうが)
母娘関係を生きる女性を代表して
(ということはそれをある意味普遍化して)
「母殺し」の可能性へと論を進めるのだ
「母殺しの不可能性などという人間の条件なんてない」
「あるのは、別々の肉体、別々の人間、
もう戻れないたったひとりであるこの「私」、
ただそれだけである」という
それはおそらく自我の叫びでもあるのだろう
そしてそれはまったく正当な叫びでもある

人は鏡像段階
つまり「他者」との合わせ鏡によって
「私が私であること」を獲得していくわけだが
その際の「他者」の主となる
「父」と「母」との関係のなかで
「私」の姿を形成していくところが強固にある

その関係の背景には
社会的・文化的・個人的な諸要素があり
そのうえでそれぞれの「父」「母」が
「私」との関係のなかに織り込まれてくる

けれど今回の批評における自我の叫びは
「父」や「母」といった固定的な役割も
かつてほど強固ではなくなってきているなか
それぞれがそれぞれの関係性のなかで
個別の「私」が形成されてくるのだと認めよ!
ということなのだろう

それでも多くの場合
「父」や「母」との関係性のなかで
象徴的な「父殺し」「母殺し」ということが
現時点での人間の魂においては
「呪い」を解くためにも
それなりの役割をもたざるをえないのかもしれない

父と母
息子と娘
その交錯した関係性のなかで
「私」のかたちがつくられていく

もちろんそこには
(ジェンダー的な意味ではあるが)
男性と女性
アニムスとアニマの
交錯した関係もでてくるのだけれど

そうしたさまざまな魂の課題を
錬金術的に克服していくプロセスのひとつとして
きわめて現代的な課題である「母娘」関係が
今回クローズアップされているのが面白い

しかし現状ではおそらくかなり単純な
マザコンやファザコンを抜けていないことさえ多く
錬金術的変容からほど遠くはあるのだけれど

■『文藝 2022年春季号/特集 母の娘』
 (河出書房新社 2022.1)
 〜水上文 「「娘」の時代 /「成熟と喪失」のその後」

(『文藝 2022年春季号/特集 母の娘』)

「神話から現代文学まで、物語のジャーゴンとしてつきまとう「父殺し」。では「母」はどこへいったのか? という問いからこの特集は始まった。某母、某娘、と古代から近代に至るまで、常に名前を奪われてきた「母」たち。常に周縁かされる存在でありながらも、同時に抑圧者としても語られる「母」にかけられた呪いは終わることがない。本誌に1966年から掲載され、後世の大きな影響を残した江藤淳『成熟と喪失〝母〟の崩壊』から56年。かつて娘でもあった「母」たち----いま、「母」はどこにいるのか?」

(「水上文 「「娘」の時代 「成熟と喪失」のその後」より)

「この小論が「母」という主題をめぐって書かれていること、とりわけ女性の書き手が「母」という主題で書き出そうとすることに、なんらの疑問も感じなかった全ての人----あなた方に向けて、この文章は書かれている。
 母娘関係にはなるほど特有の困難があり、容易には避けがたい桎梏があるのであって、おそらくは女性同士ならではの解きほぐしがたい関係が、外からはうかがい知れない秘密の愛憎があるのだろう。「母」とはもちろん特別の主題に、とりわけ女性の書き手にとっては「個人的」に重要な主題になるだろう。と、至極当然に思う全ての人に、この文章を差し向ける。繰り返す。「母」という一文字のみで言い尽くされる何事かがあると考える人、母娘関係はいついかなるときも大いなる問題に違いないと考えている人、あるいは自分には何の関係もないと考えている人、あなた方に向けて私は書いている。
 たとえば精神分析家医の斎藤環は、母娘関係には他では見られない独特の困難があると主張し、次のように述べている。

  父親とは簡単に対立関係に入ることができますが、母親とは対立できません。なぜなら、母親の存在は、女性である娘の内側に、深く浸透しているからです。それゆえ「母殺し」を試みれば、それはそのまま、娘にとっても自傷行為になってしまうのです。
 もう一度繰り返しましょう。象徴的な意味におおいて、「父殺し」は可能であるばかりか、むしろ裂けることのできない過程とすら考えられます。しかしおそらく「母殺し」は不可能です。母親の肉体を現実に滅ぼすことはできても、象徴としての「母」を殺害することは、けっしてできません。おそらく、こうした母殺しの可能性は、父殺しの可能性と表裏の関係にあるでしょう。その意味では、父を殺しながら、母を殺しえないことにこそ、人間の条件が含まれているかもしれません。(斎藤環『母は娘の人生を支配する』)

 母と娘はともに「女」であり、同じ性別の身体を持っている。この身体性の共有こそが母娘関係の独特さの源泉であり、母息子や父娘にはない困難が母娘には生じる、と斎藤は言う。そして人は象徴的な「父殺し」はできるものの、「母殺し」は不可能である、と。むしろ「父を殺しながら、母を殺しえないことにこそ、人間の条件が含まれているかもしれ」ないのだと----けれどもそれは、一体どういうことだろう?
 現代の教養ある知識人として、斎藤はもちろん「生物学的な本質」などということを主張しているわけではないのだった。彼は「ジェンダー」の考え方を全面的に肯定していると繰り返し、「男性であり、女性であるということは、ほぼ完全に社会的・文化的な慣習によって支えられた区分に過ぎず、そこにはいかなる生物学的な本質も関係していない」と明言していた。にもかかわらず、彼はあたかも隠された欲望を不意に漏らすかのように、普遍化の身振りを繰り返すのだ。「父を殺しながら、母を殺しえないことにこそ、人間の条件が含まれているかもしれません」。
 この種の普遍化は、何を言わんとしているのだろうか? 「人間の条件」という非歴史的な普遍性を持ち出すことで彼が何を試みていたのか、その後も繰り返される女性の「身体性」の問題によってどんな深遠な物事が語られようとしているのか、私に理解できているとはとても言えない。というよりも、実際、私には全くわからないのだ。
 これは本当に、なんなのだろう? あらかじめ運命付けられた「人間の条件」としての「母殺しの不可能性」などという語り口は、今まさに出口を探している人の行く手を阻むことにしかならないのでは? どれほど「生物学的本質」など関係しないと主張していようとも、結局のところ母娘がともに同じ性別の肉体を持っていることにその原因が求められた上で語られる「母殺しの可能性」ないし「人間の条件」は、私たちに「出口なし」を突きつける呪いに他ならないのではないか?
 だが、あなた方に呪われたままではいられない。
 母娘関係のみを取り出し、社会的背景を捨象した上で語られる「真理」の言説の危うさをこそ、「母」に注目が集まる状況を社会的背景とともに考察しなければならないのだ。そうでなければ呪われてしまう。呪われたままでいるわけにはいかない。
 この意味で、とりわけ「母」にのみ問題を集中させ、個人的・心理的問題に還元する試みは全て危険なものだと疑ってかかる必要がある。何が「母」に、あるいは「母娘」に注目を促しているのだろう? 現代における「母」とは何か、「母」という一文字に全てが還元されることによって覆い隠されるものとは何か? そうした問いのないままに語られるあらゆる言説を、私は拒絶する。問いかけのまいままに積み重ねられる言説は、たとえどんな意図があろうとも、結局のところ「普遍的」で「絶対的」な真理を語る言説の強化に手を貸すことになるだろう。個人的な問題に還元しない形で物事を捉え直すこと、それによってこそ得られる視座があると私は思う。だから書くだろう、容易でないものの決して不可能ではない、そんな「母殺し」の可能性に向かって。」

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