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雨宮雅子『斎藤史論』/『斎藤史全歌集/昭和3年〜51年』/富岡幸一郎「昭和の思想力 1 二・二六事件の衝撃」

☆mediopos2656 2022.2.23

今年も二月二十六日が近づいている
いうまでもなく昭和十一年に起こった
二・二六事件の日
その事件はいまも見えないところで
現代史に影を落としている

現代へとつながる歌の歴史を辿るうち
古書店でたまたま見つけた
歌人・雨宮雅子(1929年- 2014年)の歌や著作を通じ
「稀有の才質」と謳われ
戦前・戦中・戦後を通じて逞しく歌いつづけた
斎藤史(1909年- 2002年)という歌人を知る

『魚歌』『朱天』『ひたくれなゐ』と
数多くのすぐれた歌集が刊行されているが
歌だけでではなくその生き様に興味を惹かれ
ここ数ヶ月その全歌集を含め渉猟するうち
歌の背景にある歴史もまた
歌そのものでもあることを感じさせられる

歌人・斎藤史は
「スケールの大きな、多面体の人」である

絢爛と開花したモダニズムの影響を受けながら
二・二六事件で下獄した歌人・齋藤瀏を父にもち
戦時中の疎開先での「土にまみれた」体験を経
その後は夫と母という一級身障者を抱えながら
まさに明治から平成の時代を
たくましく生きながら歌いつづけた稀有の歌人

なかでも斎藤史の父・齋藤瀏の受けた体験は
斎藤史にさまざまな影を落としている
陸軍少将だった齋藤瀏は
佐佐木信綱主催の歌誌「心の花」の歌人であり
若山牧水とも親交があった存在だが
その齋藤瀏は二・二六事件で叛乱幇助で下獄する

最初の歌集『魚歌』(昭和七年〜十五年作品、昭和十五年刊)に
収められている作品「濁流」(昭和十一年)には
「二月廿六日、事あり。友等、父、その事に関る」
と記された歌がある

  羊歯の林に友ら倒れて幾世経ぬ視界を覆ふしだの葉の色
  春を断る白い弾道に飛び乗つて手など振つたがつひにかへらぬ
  濁流だ濁流だと叫びゆく末は泥土か夜明けか知らぬ
  花のごとくあげるのろしに曳かれ来て身を焼けばどつと打ちはやす声」

さらに

  暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた
  銃座崩れことをはりゆく物音も闇の奥がに探りて聞けり
  額の真中に弾丸をうけたるおもかげの立居に憑きて夏のおどろや
  照り充てる真日につらぬく道ありてためらはず樹樹も枯れしと思へ
  いのち断たるるおのれが言はずことづては虹よりも彩にやさしかりにき」

二・二六事件から六十年
昭和天皇崩御から八年が過ぎた晩年の平成九年正月十四日
斎藤史は八十七歳で宮中歌会始の召人として
天皇の前で御題を詠んだが
宮殿松の間に向かう大階段を上がって行くとき
斎藤史は「うしろの広っぱに軍服の人が並んでる」
という気がしたという

そして亡くなる前年の平成十三年
斎藤史は次の歌を発表する

  殺戮は許すべきことならねども<叛乱>と言ひ出ししは誰

ちょうど富岡幸一郎「昭和の思想力 1 二・二六事件の衝撃」
という批評が「群像 2022年3月号」に掲載されているが
そのなかでも
「この「事件」に遭遇したふたりの文学者がいた」とされ
そのひとりが斎藤史であり
もうひとりが三島由紀夫だとしている

三島由紀夫にとってはおそらくいまも
(高橋睦郎の『深きより』にも見えるように)
昭和の二・二六事件は影を落としたままのようだ

もちろん斎藤史や三島由紀夫だけではなく
それはいまもさまざまな形で
日本・日本人に見えない影を落とし続けている

■雨宮雅子『斎藤史論』(雁書房 1987.6)
■『斎藤史全歌集/昭和3年〜51年』(大和書房 1977/12)
■富岡幸一郎「昭和の思想力 1 二・二六事件の衝撃」
 (「群像 2022年3月号」講談社 2022/2 所収)

(雨宮雅子『斎藤史論』より)

「「真の影響とは文句なしにガアンとやられることだ。心を掻き廻されて手も足も出なくなることだ」----小林秀雄にこんなことばがある。「世間で影響を受けたと受けないとかいつてゐるやうな生やさしい事情に影響の真意はない」。だから「ガアン」となるのだという。「真の影響」などとあらたまって考えると、不幸にして私はそれほどすばらしいものをもちえないでいるが、ガアンとやられた体験はある。その一人が斎藤史である。
 スケールの大きな、多面体の人、「斎藤史」にはそんなイメージがある。モダニズムを短歌で見事にあらわしえた『魚歌』の斎藤史、二・二六事件で連座して下獄したもののふ歌人の父・齋藤瀏(りゅう)、夫と母の二人の一級身障者を抱えた修羅場でうたう斎藤史、さらには文章家としての斎藤史等々。早く戦前に絢爛と開花し、戦中、戦後を経ていまなお妖しげな光影を放ちつづけるこの人のどれひとつをとっても、一歌人という以上に、人間研究のすぐれた対象としての尽きない興味をかきたてられるのである。」

「いまもたくましく歌うつづけている斎藤史にとって、『全歌集』とは矛盾というべきだが、もちろん昭和五十二年に刊行されたものであり、それは昭和三年から五十一年までの作品を指している。そのなかに、『魚歌』(昭和七年〜十五年作品、昭和十五年刊)、『歴年』(昭和十五年作品および初期作品、昭和十五年刊)、『朱天』(昭和十五年〜十八年作品、昭和十八年刊)、歌文集『やまぐに』(昭和二十一年作品、および随筆、昭和二十二年刊)、『うたのゆくへ』(昭和二十三年〜二十七年作品、昭和二十八年刊)、『密閉部落』(昭和二十八年〜三十四年作品、昭和三十五年刊)、『風に燃す』(昭和三十四年〜四十一年作品、昭和四十二年刊)、『ひたくれなゐ』(昭和四十二年〜五十年作品、昭和五十一年刊)の八歌集のほかに、合著歌集『新風十人』(昭和十五年刊)中に収められた作品、未完歌集『杳かなる湖』(昭和十八年〜二十年作品)、『対岸』(昭和二十二年作品)。および『ひたくれなゐ』以降(昭和五十一年作品)の作品が網羅されている。
 そこには、戦前、戦中、戦後にわたって、間歇なくうたいつづけてきた一人の歌人の見事な流れがある。「世渡り上手に生きるならば削ったであろう戦争中の歌も、あえてそのまま入れたのは、戦時戦後などという見方よりも、更にはるかに長い歴史の眼で眺めたとき、一人の女が、足取り危うく生きた時代の姿を、恥多くともそのまま曝しておこうと心決めたからである」(全歌集後記)という著者自身の覚悟が、その流れに新しい意味を付加している。」

「史の父とは、少将をもって退役した陸軍軍人であり、「心の花」の歌人、齋藤瀏である。」
「昭和十一年、二・二六事件が起きたとき青年将校たちにも慕われていた瀏は、予備役の身で戒厳令下を事態の穏便な収拾にうごいた。結果はよく知られるとおり、特設陸軍軍法会議の判決となり、安藤大尉ら将校十三名、民間人二名が同年七月十二日銃殺刑、北一輝ら民間人二名、免官軍人二名が翌年八月十九名処刑された。代々木の陸軍衛戌刑務所んび拘置されていた瀏は、十二年一月八日の判決で、「叛乱を利す」として予備役とはいえ将官でひとり、禁錮五年となり、同月二十六日豊多摩刑務所に移された。」
「心を許しあった彼らが処刑された。父も連座した。しかもそれは暗黒裁判だった。史の名作「濁流」(『魚歌』は、このあと生まれた。」

「史はいう。「もはや彼等は天皇にもっとも近く、もっとも信頼されている股肱などではなかったのです。それどころか、遠く見捨てられた者達に過ぎませんでした。彼等が抱いたのは幻。その『虚像の天皇』のために身命を捨てることになったのです」。」

(『斎藤史全歌集/昭和3年〜51年』〜付録/岡井隆「『朱天』を読む」より)

「実は、『魚歌』から『朱天』は一本道である。二・二六事件と、それにう(間接に)まきこまれた史自身の経歴は、<開戦>と緒戦の戦勝によって、一つの決着をみたのである。」
「『朱天』を救いがたいとするならば、そもそも斎藤史は救いがたいのである。『朱天』は、史の代表歌集ではないかも知れないが、史のすべてが、やはり出ている本である。戦争の現実には、残酷なディテイルとともに、史の歌ったような観念性も含まれている。むしろ、平素リアリズムを唱えていた一群の歌人が、奇妙に進軍ラッパを斉唱しはじめるのよりは、史のような<うつつにあらぬ>美を追っていた歌人----しかも、二・二六で友を失い父を入獄させられたようなキャリアの持主----が、『朱天』一巻を作ったことの方が、自然である。おしむらくは、いま少し、強靱な観念性と、生き生きした表現力をもって歌ってほしかったと思うだけである。」

(『斎藤史全歌集/昭和3年〜51年』〜塚本邦雄「残紅黙示録/斎藤史全歌集解題」より)

「  濁流   昭和十一年

     二月廿六日、事あり。友等、父、その事に関る。
  羊歯の林に友ら倒れて幾世経ぬ視界を覆ふしだの葉の色
  春を断る白い弾道に飛び乗つて手など振つたがつひにかへらぬ
  濁流だ濁流だと叫びゆく末は泥土か夜明けか知らぬ
  花のごとくあげるのろしに曳かれ来て身を焼けばどつと打ちはやす声

 私は二・二六事件の真相も顛末もくはしくは知らない。この事件に共鳴するゆゑに、あるいは厳として対極に在り続けるゆゑに、史の「濁流」に感動するのではない。たとえばこの四首の、ただならぬ気魄の、しかも明瞭で流露感に満ちた文体その奥に、唇を噛んで立つ作者が髣髴と顕つゆゑに、一読したその日以来、三十年以上、魅惑されて来たのだ。」

「  暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた
   銃座崩れことをはりゆく物音も闇の奥がに探りて聞けり
   額の真中に弾丸をうけたるおもかげの立居に憑きて夏のおどろや
   照り充てる真日につらぬく道ありてためらはず樹樹も枯れしと思へ
   いのち断たるるおのれが言はずことづては虹よりも彩にやさしかりにき

 天地にたつた一つの願ひも言ふことを赦されず、口封じたまま殺されて行つた「友ら」、それに連なつて勲位階級一切を剥奪されて下獄した父のことを、彼女は控えめに記録した。そしてこれは決して『魚歌』に光輝を添へてはゐない。」

(富岡幸一郎「昭和の思想力 1 二・二六事件の衝撃」より)

「この「事件」(二・二六事件)に遭遇したふたりの文学者がいた。
 ひとりは明治四十二年に生まれ、平成十四年九十三歳で亡くなった女流歌人の斎藤史である。父親の齋藤瀏は陸軍少将で、佐佐木信綱主催の歌誌「心の花」の歌人であり若山牧水とも親交があった。」
「齋藤瀏は二・二六事件の折には予備役の少将であったが、決起した青年将校を支援したとして幇助罪(収拾等工作)の罪で陸軍衛戌刑務所に収監され、翌十二年一月禁錮五年の判決を受ける。」

「時を経て、平成九年正月十四日、斎藤史は八十七歳で宮中歌会始の召人として天皇の前で御題を詠んだ。二・二六事件から六十年、昭和天皇崩御から八年が過ぎていた。宮殿松の間に向かう大階段を上がって行くとき、その年だけ満開に咲いていた雪を思わせる白梅のある庭には青年将校たちが並んでいたという。空想ではない。事実であったろう。翌年、平成十年の『新潮』一月号で、斎藤史は『昭和精神史』の著者である桶谷秀昭と対談(「歌、歴史、人生」)をしているが、そこで次のように語っている。
《桶谷 昭和天皇が今の天皇陛下に、二・二六の時の話をされたでしょうか。・
 斎藤 それはわからない。
 桶谷 されてないみたいですね。
 斎藤 私はしていらっしゃらないと思う。(中略)万事は雲の上でわれわれのわかる話じゃないけど、何かお気持ち感じるんですよ。だから、こないだ参内して、宮殿の大階段を上がっていく時に、あら、うしろの広っぱに軍服の人が並んでるなあという気がしちゃった。(…(》
 亡くなる前年、皇居参内から四年後の平成十三年、斎藤史は次の歌を発表している。
 《殺戮は許すべきことならねども<叛乱>と言ひ出ししは誰》
 二・二六事件の本質には、この「誰」を問い尋ねる衝迫があり、戦前と戦後とを貫いて、その正体を斎藤史は問いつづけたといってよい。「昭和」は、この女流歌人の三十一文字の持久によって、クロノスではなくカイロスとしての時間の相貌を現す。」

「もうひとりの文学者、いうまでもなくそれは三島由紀夫(平岡公威)である。」
「「英霊の聲」は能の様式を借りた小説であり、語り手の「私」が「帰神の会」に列席して、美少年といってよい主たる川崎君という盲目の青年に降りた神霊の声を聞くという、通常の「小説」とは形式も内容も異にしたものである。」
 (…)
 現代の世相を嘆き歌いながら、神霊と思われる声々は最後には「などすめろぎは人間(ひと)となりたまいし」という激しい呪詛の言葉と化していく。その言葉を発するのは、二・二六事件で処刑された青年将校たちであり、そして先の大戦で散華した特攻隊の隊員の霊である。」

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