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河津聖恵詩集 『綵歌』/『図録 若冲展 ―開基足利義満600年忌記念』

☆mediopos-3109  2023.5.23

詩人の野村喜和夫は
「河津聖恵は光の詩人である」と評しているが

河津聖恵にとって
昨年(2022年)刊行された詩集『綵歌(さいか)』は
まさに闇を湛えているように見える現代において
「闇と背中合わせの輝き、
あるいは闇そのものの輝き」である伊藤若冲の闇と
詩人の「闇が一瞬切り結んで生まれた光」であるという

『綵歌』の「綵(さい)」という言葉は
若冲が一七五八年(43歳)頃から十年ほどかけて描いた
「動植綵絵(どうしょくさいえ)」三〇幅からのもの

詩集は序章・第一章〜第四章・終章で構成され
若冲の生涯に起こった出来事も絡めた
詳細な「解説」編も加えられている

若冲は一七一六年に生まれ一八〇〇年に85歳で亡くなっているが
序章から第三章までは一部(果蔬涅槃図/64〜76歳頃)を除けば
40歳代から50歳代までの絵が取り上げられている
(引用で紹介しているのは「序章」の最初にある「霏霏―芦雁図」)

続く第四章では73歳のときの天明の大火(一七八八年)以降の
絵がとりあげられていて
「動植綵絵」は奇跡的に無事だったものの
大火で住まいを焼かれ窮乏のなか
生計を立てるためにも絵を描くようになった時代である

若冲の作品といえば
以前は代表作である「動植綵絵」のほうばかりに注目していたが
この詩集を手にその生涯をみていくうち
第四章でとりあげられている時代に興味をひかれるようになった
ある意味でその時代の若冲は
「動植綵絵」にみられる表現力豊かな「絵」を超えて
見えない「無」を照らしているようにさえ感じられてくる

若冲はその生年が
尾形光琳の没した享保元(一七一六)年である

光琳は禄文化を代表する画家・御用絵師で
「金銀の王朝的なきらびやかさ」のなかにあったのに対し
若冲は「経済の発展がすでに矛盾をもたらし
社会不安も高まり始めた時代」を生きた「町絵師」

その二人の絵を対照させることで
ある意味で若冲の生きた時代を
危機の時代ともいえる現代と照らし合わせることもできる

詩集の「あとがき」には
「若冲の生きた十八世紀と私の生きる二十一世紀が
浸透し合うような、不思議な時空の感覚」を覚えながら
それを「詩の言葉によって生捕りにしたい」
そしてそのことで闇を湛えているように見える未来に
「光」を「希望」を見出そうとしていると記されている

詩集『綵歌』をきっかけに
ここしばらく久しぶりに若冲の絵と生涯を
そしてそれに照らされた詩の言葉を逍遙してきたが
ぼくという闇のなかでも灯された
その「火種」の行方を見つめてゆくことにしたい

■『河津聖恵詩集 綵歌』(ふらんす堂 2022/2)
■『河津聖恵詩集』(現代詩文庫 思潮社 2006/2)
■『図録 若冲展 ―開基足利義満600年忌記念』(日本経済新聞社 2007/1)

(『河津聖恵詩集 綵歌』〜「序章」より)

「1 霏霏―芦雁図 

 霏霏ひひ)といううつくしい無音を
 とらえうるガラスの耳が
 多くのひとから喪われつつあった時代
 ひとひらふたひら
 空が溶けるように 今また春の雪は降りだし
 この世の底から物憂く絵師は見上げる
 見知らぬ鳥の影に襲われたかのように
 煙管を落とし 片手をゆっくりかざしながら

 雪片ははげしく耳をとおりすぎ
 ことばの彼方に無数の廃星が落ちてゆく
 ひとの力ではとどめえない冷たい落下に
 絵師は優しく打ちのめされる
 愛する者がはかなくなって間もない朝
 この世を充たし始めた冷たい無力に
 指先までゆだねてしまうと
 庭の芦の葉が心のようにざわめき
 この世はふいにかたむいた
 雁がひとの大きさで墜落し
 風切羽を漆黒に燃やして真白き死をえらんだ

 笑うように眠りかけて指先はふるえる
 乾いた筆が思わず
 共振れする 霏霏
 「見る」と「聴く」 「描きたい」と「書きたい」
 ひえびえと裂かれてゆく深淵に雪はふりつむ
 眠りに落ちた絵師は
 ついに胡粉に触れた
 骨白に燦めく微塵の生誕を見すごさなかった筆先」

(『河津聖恵詩集 綵歌』〜「解説」〜「連作の始まり」より)

「二〇一六年から五年半をかけて、江戸時代中期の絵師伊藤若冲の絵をモチーフに連作で詩を書きました。描かれてから二百数十年後あるいは生誕三百年ほど後に、若冲の絵をめぐって詩を書くこととはどういうことなのか、なぜ自分はそのような試みを続けてきたのかと今も考えます。最初から連作を意図していたわけではありません。一篇一篇、なぜ若冲なのかを考えつつ手探りで書きました。振り返ればそこにはつねに、鮮やかな「神気」あふれる絵に詩を触発されようとする自分がいました。この連作詩は、むしろそのような自分にひそむ欠如をめぐって書かれたものだと言ってもいいかもしれません。この今だから、この私だから若冲だった、と。」

「この詩集のタイトルは「綵歌(さいか)」です。「綵」の字にピンと来る方も少なくないと思いますが、これは若冲が一七五八年(43歳)頃から着手し、およそ十年をかけて完成した三〇幅の花鳥画の題名「動植綵絵(どうしょくさいえ)」から採っています。(・・・)ただ各篇のモチーフは「動植綵絵」の絵に限りません。他にも魅力的な作品がたくさんあるからですが、その時々の自分の気持ちに合う絵を選んでは、気ままに書いていきました。若冲の絵だけでなく、生涯に起こった出来事に想いを寄せて書いたものもあります。」

「覚えておきたいのは、「動植綵絵」は未来や当時の人間にというより、まずみ仏に捧げられたものだったということです。決して未来や現世の世評を獲得しようという野心によるものではなかったのです。そもそも若冲は近代の画家ではなく、あくまで近世の絵師、その絵は、近現代の自閉的なエゴイズムを乗り越えるものを秘めていると思います。」

「「動植綵絵」が描かれた十八世紀の京都は、経済力の発展に支えられ文化的には華やぎながら、世相は次第に暗く不安なものになっていきました。都市の繁栄のかげで貧窮者は増加し、放火による大火が頻発、洪水や台風や地震などの自然災害、疫病、飢饉、尊王論者が幕府に処罰された「宝暦事件」などが、若冲の心に引き起こした不安が、逆説的にも「綵絵」の美しさと生命力を生みだしていると言えるのではないでしょうか。またその逆説的な輝きこそが、現代に生きる者を、遙かな時を超えてつよく惹きつけるのではないでしょうか。闇と背中合わせの輝き、あるいは闇そのものの輝きが若冲の絵にはあります。「綵」とは若冲の闇と私の闇が一瞬切り結んで生まれた光であり、それこそが詩だったと思えてなりません。」

(『河津聖恵詩集 綵歌』〜「解説」〜第四章「23 贈与の刻・24 女たち鶏たち————仙人掌群鶏図(一七八九年、74歳)」より)

「天明の大火(一七八八年)後に描かれた絵です。応仁の乱以来のこの大火によって、73歳の若冲は錦街の住まいを焼かれます。京都の町の大半は俳人に帰し相国寺も焼けますが、「動植綵絵」は奇跡的に無事でした。」

「絵の煌めく金地は尾形光琳を連想させますが、すでに「動植綵絵」後半期の絵に光琳の影響があるようです。若冲の生年と光琳の没年は奇しくも同じ一七一六年、享保元年という時代の大きな変わり目となった年です。元禄文化を代表する「画家」または「御用絵師」光琳は、まだ金銀の王朝的なきらびやかさを信じて描いていた。けれど「町絵師」若冲が生きたのは、経済の発展がすでに矛盾をもたらし社会不安も高まり始めた時代でした。(・・・)そのような時代の中で、若冲にとって絵を描くこと精神的な危機とは無関係でなかったはず。同じく金地に描かれたこの二人の絵を見比べると、根本的な違いを感じます。」

(『河津聖恵詩集 綵歌』〜「解説」〜第四章「29 石燈籠図屏風(一七八三年〜一七九四年、68歳〜78歳)」より)

「晩年に描かれたこの絵は、初めて見た時不思議な既視感を覚えました。何度見ても遠い記憶が呼び起こされる気分になります。
(・・・(
 石燈籠や石柵を点描で描いたのは、石の質感を「生写(しょううつし)」したかったからでしょう。つまり若冲にとって石もまた生きていた。点は形も濃淡も一つ一つ違っています。硬い石も無数の生きた点から出来ているのです。あるいは点はもしかすると「極微な穴」であり、点=穴から出来ている世界は「無」の集合体であり、あらかじめ欠けたもの、ということになるのではないでしょうか。あたかもあの燈籠の穴のように、ふと見れば燈籠たちは笑っています。この世界がゆるぎなく実在すると今もかたくなに信じる、俗世の人間たちを。」

(『河津聖恵詩集 綵歌』〜「あとがき」より)

「あらためて三十篇を振り返ると、自分が若冲の絵から受けた感動がかけがえのないものだったと分かります。その感動を、言葉にならないものをも含め出来るだけ壊さずに捉えるのは、詩を書く以外ありませんでした。
 感動は複雑に入り混じり静かで透明なものでした。若冲の豊かな空虚とそこに響く命の色、何かを語ろうとあるいは歌おうとするような獣たちの身じろぎと、そこに惹きつけられる私自身の欠如。若冲の生きた十八世紀と私の生きる二十一世紀が浸透し合うような、不思議な時空の感覚。それらをそのまま詩の言葉によって生捕りにしたい————その思いは絵に見入るほどに、そして若冲の生き方や時代を知るほどにつのりました。これまで知らなかった詩の欲望です。
 さて、いま未来は闇をたたえています。しかし過去を振り向き目を凝らせば、無数の灯火が見えてきます。未来がどんなに闇を深めても、過去には誰かが残した灯火が待っている。そして光を強めている。そのどれか一つでも頼りにすれば、どんな闇でも少しだけ進むことが出来るはずです。それこそは希望ではないでしょうか。
 若冲は「具眼(ぐがん)の士を千年待つ」と語ったと伝えられます。自分の絵の価値が分かる人が現れるまで千年でも待とう、という意味です。千年という未来を見据えて描いていたことになりますが、千年闇が深まってもその絵は錦の輝きをますはずです。その輝きから僅かに貰い受けた明かりを手に、私の言葉はどれだけ、どこへ向かって進めたでしょうか。」

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