幸田文『木』/映画「PERFECT DAYS」/青木奈緒「森へ 最終回(第9回)/スギのひと枝」 (Coyote)/池内紀『山の本棚』
☆mediopos3410 2024.3.19
映画「PERFECT DAYS」のなかで
主人公の平山が古書店で買い求め
読む本のなかに幸田文『木』(文庫本)がある
「木」はこの映画を象徴しているともいえ
それがさりげなくインサートされている
平山はアパートの鉢植えで木々を育て
木漏れ日を愛し仕事の休憩時間に
それを写真に撮っている
『木』は一九九〇年十月三十一日に
幸田文が八十六歳で亡くなった後
一九九二年に遺著として出されたもの
その本(文庫化されたもの)を読むことになったのは
比較的最近のことで
孫の青木奈緒がその『木』をめぐるエッセイ「森へ」を
「Coyote」で連載しはじめたことがきっかけだった
No.72 Winter 2021からNo.80 Summer/Autumn 2023まで
9回にわたって連載され
第1回と第2回は
mediopos-2200(2020.11.24)とmediopos-2409(2021.6.21)で
とりあげたことがある
連載が終了するころ
池内紀『山の本棚』でも幸田文『木』が紹介され
そこで主に書かれているのが「杉」についてのこと
しかも「森へ」の最終回が「スギのひと枝」
そして「PERFECT DAYS」である
ちなみに青木奈緒は幸田文の孫
いうまでもなく幸田露伴の曾孫であり青木玉の娘
「森へ」の連載の第1回は「倒木更新」と題されているが
その「更新」というのは
幸田露伴から幸田文を経て青木玉・青木奈緒へと
継承されながら「更新」されるなにか
さらにはもっと広く日本の文化についてのそれをも
示唆していると読み取ることもできるだろう
そして最終回の「スギのひと枝」とは
母の青木玉が庭に植えたスギの苗からの「ひと枝」であり
それを青木奈緒が持ち帰ったものが
花瓶のなかで立派な苗となっていることに気づく
エッセイは
「このひと枝をどうしたらいいのだろう。
私の心にスギがすでに根をおろしていた。」
という言葉で閉じられている
幸田文は青木奈緒が小さかったころ
「よく心の中にある種の話をしてくれた」という
「人は誰もが心の中にいろいろな種を持っている。
一生芽吹かずに終わる種もあるのだから、
何かのきっかけでせっかく芽吹いたものなら、
大切に育てるようにというのだ。」
ぼくの心の中には
どんな種があるのだろうか
そんなことを想像してみる
芽吹くことのなかった種があり
なにがしか芽吹くことのできた種がある
芽吹いた種をぼくは
大切に育ててきただろうか
しっかりと根を下ろした根はあるだろうか
スギが何十年も何百年も
ときには何千年もかけて育っていくように
ぼくを見守っているもうひとりのぼくは
育っているかもしれないぼくの心を
どんな目で見守っているのだろうか
そんなことを想像してみる
■映画「PERFECT DAYS」公式サイト〜「collection」
■幸田文『木』(新潮文庫 平成七年十二月)
■青木奈緒「森へ 最終回(第9回)/スギのひと枝」
(「Coyote No.80 特集 パタゴニア、未来を語る」所収 スイッチパブリッシング)
■青木奈緒「森へ/第1回倒木更新」
(「コヨーテ No.72 Winter 2021」所収 スイッチパブリッシング)
■池内紀『山の本棚』(山と渓谷社 2023/6)〜幸田文「木」
**(映画「PERFECT DAYS」公式サイト〜「collection」より「幸田文「木」)
「幸田文「木」
平山という男は、まるで木のようだ。
平山自身、木漏れ日を愛し、木々を育てている。
そんな彼がこのエッセイを愛読しないはずがない。
短い文章のなかに洗練された視点と、卓越した文章力を感じる一冊。
本を読む歓びを教えてくれる。」
**(青木奈緒「森へ 最終回(第9回)/スギのひと枝」より)
*「スギについて話していると、よく屋久島が話題にのぼる。一般にはとかく不評なスギだが、この島のスギは憧れを持って語られる。
現在スギの天然林が広範囲に残されているところは屋久島の他になく、標高五百メートル以上の産地に自生しているもの、さらに狭義には樹齢千年を越えるものだけが屋久杉の名で呼ばれる。」
*「一九七五年に祖母の幸田文が屋久島を訪ね、『木』の中で訳す非を見たときの印象を書いている。
「屋久の立ちあがりはすんなりしていない。円いともいえない。くだくだしいのをあえていうなた、怒張した脈管と引吊れた筋とが、競りあい、搦みあい、ある部分は勢いあまった盛り上がり、ある部分は逆に深く刳れこみつつ、自重を長くささえてきた故の、これは大きなでこぼこをもつ変形といえ、ただもう力、力の立ち上がりである。力強いといえばこの上なく力強く、しかしまた、見る目にいたましい我慢の集積でもある」
祖母はこの文を屋久島へ行って、見て、勢いのままに書いたのではなく、ほぼ一年心象の反芻に要している。当時の祖母の体力を考えると屋久島は二度行ける場所ではない。屋久杉が生きる途方もない歳月を我慢の集積とする見方は克明に受けた印象のひとつだが、その上で「清げ」であるとも、「あやしい」とも書いている。私たち家族には「奇々怪々だった」と旅の感想を話していたことも思い起こされる。屋久杉は人の心には到底収まり切らない大きさを持つものなのだろう。」
「屋久杉と人工林のスギは、同じスギなのかと疑いたくなるほど、素人目には受ける印象が異なる。屋久杉では長寿という点が強調されるからだろう。苔むした森の中、瘤だらけの木肌や岩を取り込むように張りめぐらされた根が想起され、もはや樹木とは別の生きもののような感覚だ。
方や一般的な人工林のスギは、人が利用するために植えた木である。生育に適した水分の多く谷地形に人の手によって密植され、下草刈り、間伐、枝打ちと、数々の手厚い管理のもと、およそ五十年から百年で伐期を迎える。幹の断面がきれいな円形で、まっすぐ、節がなく育ったものが良材とされる。生きる環境も流れている歳月も比較にならないほど異なるのだから、両者が違ったイメージで捉えられるのはあたりまえかもしれない。
だが、屋久杉も芽吹いたところはいかにもスギの赤ちゃんなのだし、若木のときから特に変わった姿をしているわけではない。それどころか、両者には意外な接点がある。
日本のスギの人工林で先駆的な役割を果たした吉野地方で、屋久杉の種子を蒔いたという記録があるのだ。江戸時代の三大農学者のひとり、大蔵永常が『公益国産考』(一八五九年)という農学書で、約六十品目の農産品の栽培・製造法などを図入りで解説している。」
*「木を育てるということは、数ヶ月や一年で収穫を見込める農作物とは扱う時間が異なる。多くの場合、植えた当時者は回収できない未来への投資であり、伐期を迎えるまで災害や病虫害のリスクも負うことになり。出来心でちょこっと試して結果次第で様子見するわけにはいかないとわかっていて、それでもなお南海の孤島に思いを託した人がいたのだ。
天然林の屋久杉と人工林の吉野杉と、なんと思い掛けないつながりだろう。歴史的に見れば、屋久杉をルーツに持つ吉野杉が少なくとも一時期は存在していたのだ。(・・・)
むしろ見るべきところは、ルーツが同じにもかかわらず、そうとは思えないまでにスギを鍛えて、端正な姿に仕立て上げる植林の技術ではないかと思う。(・・・)よく手入れされた人工林のうつくしさには日本庭園に通じる規矩がある。」
*「この春、長いなじみに植木屋さんが実家の庭の剪定に来てくれた。(・・・)
久しぶりにきれいにしてもらった庭を歩いて、はっと息を呑むほど驚いた。
実家の庭に、どう見てもスギとしか思えない木があった。
(・・・)
枝の本数を下から数えると、樹齢は多く見積もっても二十年といったところか、とすると、祖母・幸田文は他界して三十年以上経っているから、植えたのは祖母ではなく、母の青木玉ということになる。無理矢理記憶をたどれば、母が樹木についての連載をしていた折に秩父かどこかからスギの苗をもらって帰り、そのまま捨てるに忍びなく、大きくなる先々を心配しながら庭の塀際に植えたということがあったような、なかったような。
(・・・)
私が小さかったころ、祖母はよく心の中にある種の話をしてくれた。人は誰もが心の中にいろいろな種を持っている。一生芽吹かずに終わる種もあるのだから、何かのきっかけでせっかく芽吹いたものなら、大切に育てるようにというのだ。
おそらく母が植えたのであろうスギの苗は、すでにそれなりの若木に育って目の前にある。」
*「日本は木の文化の国であると、これまで私はあたり前のように思ってきた。けれど、今を生きる私は木の文化の何を受け継ぎ、何を大切にし、何を伝えようとしているのだろう。木の文化と言われれば奈良時代の木造建築や仏像を思い浮かべるが、そこに寄りかかってはずるい。昔の人たちは確かに木の文化を具現化したが、今の話ではない。
私は便利な世の中の信奉者であり、消えるものは消えて致し方ないと、感傷はあえて抑えて生きてきた。そうしなければ、極論すれば世の中は石器時代のままなのだから。それよりは私はお掃除ロボットに掃除を任せて安心したい。雨戸もない方が楽だ。まな板も黴がない方が便利と、梅雨どきだけプラスチック製を使うつもりで、そのままずっと使いつづけている。手放すだけ手放して、最後に残るのは、一膳の箸とお椀のみということか。その状態でなお、私は木の文化の国に生き、その文化を次世代へと受け渡していると言えるのだろうか。今を生きる私は、いったいどこに木の文化の証を持てばいいのだろう。」
*「母がどういう理由でスギを植えたかは定かではない。針のような葉のツンツンとした開き加減で、この木はウラスギではなくオモテスギだとわかる。「日本は木の国なのだから、杉も檜も一緒くたにするような女にはなってくれるな」と言った曾祖父には、ひとまずこの答えで満足してもらろう。身近に於いてしばらく眺めていたいと思って、ひと枝持ち帰って美濃焼の花瓶に挿した。初めのうちこそ頻繁に水を換えたが、何しろひと枝だけのこと、水は減らず、針葉樹は鎖もせず緑を保つ。
一月半ばかり経った。このところ忘れていた水替えをと思って枝を持ち上げて、またもスギに驚かされた。白く、意外に太い根が二本、にょっきり、しっかり脚を伸ばしている。こんなに元気な根が出て、葉も緑を保っているのだかた。これはもう立派な苗である。土に植えればスギに、見上げる大木になるのだ。生命力を寿ぐ気持ちと共に、私は頭を抱えた。このひと枝をどうしたらいいのだろう。私の心にスギがすでに根をおろしていた。」
**(幸田文『木』〜「えぞ松の更新」より)
「ふっと、えぞ松の倒木更新、ということへ話がうつっていった。
北海道の自然林では、えぞ松は倒木のうえに育つ。むろん林のなかのえぞ松が年々地上におくりつける種の数は、かず知れぬ沢山なものである。が、北海道の自然はきびしい。発芽はしても育たない。しかし、倒木のうえに着床発芽したものは、しあわせなのだ。生育にらくな条件がかなえられているからだ。とはいうがそこでもまた、気楽にのうのうと伸びるわけにはいかない。倒木の上はせまい。弱いものは負かされて消えることになる。きびしい条件に適応し得た、真に強く、そして幸運なもののわずか何本かが、やっと生き続けることを許されて、現在三百年四百年の成長をとげているものもある。それらは一本の倒木のうえに生きてきたのだから、整然と行儀よく、一列一直線にならんで立っている。だからどんなに知識のない人の目にも一目で、ああこれが倒木更新だ、とわかる−−−−そう話された。話に山気があった。感動があった。なんといういい話か。なんという手ごたえの強い話か。これは耳にきいただけでは済まされない。ぜひ目にも見ておかないことには、と決めた。」
**(青木奈緒「森へ/第1回倒木更新」より)
*「歳月を軽々と超えて、一通の便りが届いた。
祖母・幸田文は五十年前の一九七〇(昭和四十五)年九月末、富良野にある東京大学北海道演習林を訪ねた。翌年一月からは『木』と題した月刊誌の連載が始まり、その初回「えぞ松の更新」として描いたのが、富良野の演習林で見田、エゾマツの輪廻の姿だった。植物の世界で更新とは次世代を育むことであり、秋になると他の多くの木と同様、エゾマツもおびただしい数の種を地に送る。だが、北海道の冬はきびしく、運良く倒木の上に着床した種だけが芽吹き、育つことができる。その証拠に、木は生長しても一列に並び立つ。いわゆる「倒木更新」と呼ばれる現象である。
植物好きの祖母は、日本各地の木を訪ねることを楽しみにしていた。縄文杉のような巨木名木ばかりではない。木曽では良木のお手本、すきっと天を衝くヒノキの良さを認めながらも、木の内部にねじれや歪みを抱え、木材としては等級外におとしめられるアテ材の哀しさも見過ごさなかった。藤をめぐる思い出や、宮大工の棟梁から聞いた話。『木』はどれも、ことばを発しない木の声に耳を傾けようとした随筆である。」
*「二年前の春、東京大学の教授・斎藤馨先生からお便りを頂いた。お名前に心当たりはなかった。大学の催しで倒木更新を紹介する例として祖母の「えぞ松の更新」をお使いになりたいというお申し越しだった。お便りには、先生が倒木更新を初めて見る学生を引率して富良野へいらっしゃる折には、今も祖母の「えぞ松の更新」を参考書にしてくださっている、と書き添えられていた。お若い方の役に立っていると祖母が知ったらさぞ喜ぶだろう、と思いつつ、会期も迫っていたことからメールで事務的にお返事して、そのときはそれきりとなった。
すると、今年の春になって再び斎藤先生からメールを頂いた。二〇二〇年は祖母が富良野で倒木更新を見てからちょうど五十年、ついれは「お祖母様の足跡を訪ねてみませんか」という、思いがけないお誘いだった。咄嗟に嬉しいというより、はるかに驚きが上回っていた。二年前にメールをやりとりしたきり、お目にかかったこともない東大の先生が、祖母当人にならいざ知らず、孫の私に声をかけてくださろうとは。今年は偶然、祖母の没後三十年にもあたっており、早く経ったなという思いと共に三十年は意識していたが、それをはるかに超える五十年というスパンで架け橋をかけようというのである。」
*「かつて祖母は折々に「ものを教わったら、すぐ実行してみること」と言っていた。これは祖母が、父親である幸田露伴に言われたことをなおざりにした幼い日の記憶にさかのぼる。「あとでやろうと思った」という軽はずみな言い訳が、厚意を持って教えてくらた人にいかに失礼か、それきり見捨てられて以後教えてもらえなくなったら、どれほどひとりで寂しく困ることか、と露伴は説いた。以来、祖母は家訓とまで言って守るようになった。」
*「そもそもなぜ倒木更新という、木の子育てというような現象が起きるのだろう。
とりわけエゾマツにあてはまることであり、トドマツも倒木上で育つことはあるが、ササがさほど厚くなければ地表で更新されることも多く、エゾマツほどの依存はない。
地表に散布された種がすべて発芽するわけではないのは、どんな樹種にも言えることである。干からびて終わったり、虫た小動物に食べられたり、行方不明に消えるものがたくさんある。
けれどその上に、特にエゾマツの場合は、冬に雪の下で暗色雪腐病菌という病原菌に侵され、腐ってしまう。また仮に発芽したとしても、地面をササが厚くおおっていると、光不足、高湿度、風通しの悪さなどから、ポトリチス菌による灰色かび病にかかってしまうという。
条件の悪い地表に比べて倒木の上は、幹の丸みがあるため雪もさほど積もらず、したがって雪解けも早い。地表より高さがある分、ササにびっしりおおわれて閉塞状態に陥ることもなう。さらに夏の乾燥期も、倒木に苔がつき、エゾマツにとって生き抜くための条件がそろった場所は、狭くてまっすぐな倒木の上にしかなかったということなのだ。
一方、倒木も、もはや命尽きて横たわっているだけなのだから、子育てに積極的に関わることはできない。エゾマツの倒木の上に広葉樹の種が落ちて育つこともあるし、広葉樹の倒木の上でエゾマツが更新することもある。
倒木更新をひもとけば、必然も偶然も実に整然としてて、やたらと感情移入するのは慎むべきかもしれない。とはいえ、倒木更新には、先に命を終えたものが未来の林を担う若木を育てるという、代替わりが体現されていることに変わりはなく、そこに生死の継ぎ目を見て取ることもできる。
五十年前に倒木更新と対峙した祖母は、倒れた木に父親である露伴の最晩年を投影し、感無量となった涙した。
露伴が他界する数日前、隠しようもなく死が迫り、仰臥した露伴は右手を祖母の腕にかけて、そのときから露伴の一部が祖母へと移され、整えられたと、『終焉』の中で祖母は書き記している。露伴は「じゃあ、おれはもう死んじゃうよ」と穏やかな目で別れを告げた。」
*「倒れたなり、文句ひとつ言わずに養分を吸われるがままの親も立派なら、子の猛々しさも、生きとし生けるものが生き継いで行く、偽らざる姿だと祖母は見る。そして、倒木の上に育った若木はもう充分にひとり立ちしてからも、蛸足の下に大切に倒木を抱えている。そこにかすかなぬくもりを感じた祖母はやっと安堵し、倒木更新を見納めた。」
*「五十年という歳月が意味するものは何だろう。
半世紀といえば歴史をふり返るような長さに感じられるが、日にちで計算すれば、一万八千二百回余りの朝と晩の積み重ねである。
それももちろん容易ではなく長いのだが、日にちはどこか身近に感じられて、さほどの重みはない。
一日はあっけなく、一週間過ぎるのもあっという間、だから月が経てば慌て、年の瀬にため息をつく。
そのくり返しが五十回。日を疎かにするから、もはやとり返しのつかない半世紀の経過に畏れを持つのかもしれない。
人生百年といわれる今の世では、五十年はちょうど折り返し地点となる。
ただ、人生の最初の数年は養ってもらうばかりで、生きるというよりは生かしてもらう。
私自身のこれまでに照らし合わせてみると、半世紀は自分の足で学校へ通うようになって以来の、ほぼすべての時間にあてはまる。
その間、それなりに山坂も越え、紆余曲折の谷に迷いながら、ふり返ればずいぶん長い道のりを歩いてくたように自分では思っていた。」
**(池内紀『山の本棚』(山と渓谷社 2023/6)〜幸田文「木」より)
「本として出すとき、著者幸田文はすでに亡くなっていた。」
「えぞ松、藤、ひのき、杉。読んでいくとわかるが、植物学者にも、ナチュラリストにも、樹木の好きな物書きにも、誰にも書けなかった。ひとり幸田文のもににできた植物誌である。」
「圧巻は屋久島の杉をめぐる一章だろう。それはこんな書き出しによっている。
「去年は、縄文杉に逢うことができて、この上ない幸せな年だった」
「去年」とは、一九七五年のこと。ときに幸田文七十一歳・ふだんはたしなみのいい着物の人が、「木に逢いに行く」ためにズボンとヤッケになった。ウィルソン株までは頑張ったが、もう足が動いてくれない。念願の縄文杉まではおぶってもらうことにした。「縄文杉は、正直にいうと、ひどくショッキングな姿をしていた」。
不格好で、幹が「横にどでかく太く」、その上は枝分かれして急に細くなる。「根回り二十八米(メートル)、胸高直径五メートル、樹高三十メートル、コンピューターの計算では、樹齢七千二百年という」。
ひろく知られたデータを伝えたのちに、自分の眼で見てとった独自なところをつづっていく。
屋久杉は総じてこぶこぶだが、縄文杉のこぶこぶはところどころ灰白色の筋がうねっており、おどろおどろしい。根は「縦横あやにかけてのた打って」いる。なにより無気味なのは、その「古さ」だという。見た瞬間に、はかり知られぬ長生きだと直感的に感じさせるもので、「なにかは知らずあやしい」。
昼の弁当のあと、ちょっと昼寝をした。元気回復してながめると、「縄文はやはり、申分のない別格だった」というのだ。からだが疲れていると見誤る。一度はいとわしく、二度目は好ましく見直せてほっとしたというが、なんと正直な人だろう。」
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