『談 no.130 トライコトミー …二項対立を超えて』/井筒俊彦『意識と本質』/永井晋『〈精神的〉東洋哲学: 顕現しないものの現象学』
☆mediopos3549(2024.8.7)
『談』no.130 の特集は
「トライコトミー …二項対立を超えて」
今号から今年度の『談』では
「〈精神的〉東洋」について考察していく予定だという
今回はその第一回として「トライコトミー」がとりあげられている
ひとつめのインタビューは
清水高志「二項対立を調停する」
トライコトミーについては
mediopos-2591(2021.12.20)で
少し詳しくとりあげたことがある
簡単に説明しておけば
西洋の論理の基本は
古代ギリシャ以来矛盾律(「Aは非Aではない」)が
基本となってきた
インドでは「Aである」「非A]であるという命題に加え
「Aであり、かつ非Aである」
「Aでもなく、かつ非Aでもない」という二つの命題が加えられ
西洋的な二者択一に対してテトラレンマとよばれている
それをふまえながら清水高志は
「主体/対象」「一/多」という二つの二項対立に加え
「内/外」という二項対立を加え組みあわせた
トライコトミーという思考法を提案している
ふたつめのインタビューは
奥野克巳「縁起あるいはアニミズムの他力性」
奥野克巳はマルチスピーシーズ人類学の研究者で
『談』no.118でのインタビューを
mediopos-2154(2020.10.9)でとりあげたことがあるが
このインタビューではアニミズムおよび仏教の縁起の思想から
他力性についての議論となっている
三つめのインタビューは
護山真也「〈今ここ〉の極地点、未来原因説と仏教哲学」
インド仏教のプラジュニャーカラグプタの未来原因説
つまり過去と未来は対称性の関係にあり
過去が結果を生み出すならば
未来もまた結果を生み出す作用を持つというようように
現在は未来からの影響のもとに成立しているという視点が検討される
以上の三つのインタビューの具体的な内容については
項をあらためてそれぞれとりあげることにするが
ここではその前置き/背景として書かれている
エディターの佐藤真のnoteから
今年度考察していくという「〈精神的〉東洋」について
西洋哲学では私たちの感性的世界と神のあいだには
何も存在しないか単に空想でしかないとされていたが
井筒俊彦は「この間に、第三の領域である
「顕現しないものの現れ」としての世界があると示唆し」
それをもとに精神的東洋哲学の構想を提起した
従来「東洋哲学」といえば
インド・中国・日本が「東洋」とみなされていたが
井筒俊彦は「東洋」を
イスラム・ユダヤなどの中東やさらにはギリシャにまで拡大する
さらにその言葉の意味を
「地理的な意味から、「経験の深層次元」という
超歴史的かつ超地理的な意味へと変換させ、
そこに自律的な経験の野を設定し、それを「中間界」と名付ける
「西暦紀元前をはるかに遡る長い歴史。
それを「東洋哲学」の名に値する有機的統一体にまでまとめあげ、
さらにそれを世界の現在的状況のなかで過去志向的でなく未来志向的に、
哲学的思惟の創造的原点となり得るようなかたちに展開させる」
「そのような理論的、知的操作の、
少なくとも一つの可能なかたちとして、
井筒氏は「共時的構造化」ということを提案」している
「こうしてできあがる思想空間は、
当然、多極的重層的構造をもつことになり
「この多極的重層的構造体を逆に分析することによって、
われわれはその内部から、いくつかの基本的思想パターンを
取り出してくることが可能にな」るという
この視点については
永井晋『〈精神的〉東洋哲学: 顕現しないものの現象学』を
mediopos-2451(2021.8.2)において
同じく永井晋「動きのなかに入り、共に動くこと/
「顕現しないものの現象学」から考える」(『談』no.129所収)
mediopos3404(2024.3.13)においてとりあげたことがあるので
その際の引用資料を引用資料の最後に付していくことにする
■『談 no.130 トライコトミー …二項対立を超えて』
(水曜社 2024/8)
■井筒俊彦『意識と本質』(岩波書店 1983/1)
■永井晋『〈精神的〉東洋哲学: 顕現しないものの現象学』(知泉書院 2018/11)
■永井晋「動きのなかに入り、共に動くこと/「顕現しないものの現象学」から考える」
(『談』no.129所収)
**(佐藤真「テトラレンマ・アニミズム・未来原因説」)
・「顕現しないものの現れ」と東洋思想
*「これまでの西洋哲学では、私たちが生きる生活世界(感性的・地平的世界)と神や一者などと呼ばれるものの間には、何もないか、あったとしても単なる空想的世界、あるいはこう言ってよければ怪しげな神秘的世界が広がっているだけ、と考えられていました。ところが、言語学者でありイスラム学者でもあった井筒俊彦氏は、この間に、第三の領域である「顕現しないものの現れ」としての世界があると示唆したのです。そして、それを根拠に井筒氏は、精神的東洋哲学の構想を提起しました。それは、その一部として含む「東洋」思想の諸伝統を、何らかの方法的措置を加えることで、普遍的な思想体系として組み直すことであり、そのようにして、「東洋哲学」を、西洋哲学のように現代の世界的哲学に寄与し得るものにしようと企てるものでした⑴ 。
「東洋哲学」を構想した背景として、井筒氏は、近代日本における「日本哲学」、あるいはそれを含む「東洋哲学」の必要性を示し、その典型的な成功例として西田幾太郎氏の哲学を見ています。明治期の日本は、西洋文化、とりわけその背景としての西洋哲学の輸入に際して、それへの自然な反動として「日本哲学」もしくはより広く「東洋哲学」を確立することが求められていました。けれども、それらの「東洋哲学」は、近代日本が置かれた状況からして、何らかのかたちで、西洋中心主義の産物であるオリエンタリズムの支配下にありました。永井晋氏は、ただしと断ったうえで少なくとも二つの、オリエンタリズムに対する単なる反動を超えた、普遍的価値をもつ「日本哲学」あるいは「東洋哲学」の試みが現れたことに注目します。西田幾多郎氏と井筒俊彦氏の哲学です。それが可能だったのは、二人の哲学が、それぞれの仕方で、日本もしくは東洋の伝統的思想の特殊性だけにアクセントを置くのではなく、それらを普遍化する方法をもっていたためではなかったかと提起します。
西田氏にとって「西洋」とは単なる地理的概念ではなく、あくまでも「表象的思考」、「対象化論理」のことです。それに対して論理としての「東洋」とは、「西洋」、つまり表象的な対象化に対立するのではなく、むしろ、あらゆる対象性をその根底から「包む」、より深い「場所」の論理です。その包むことを西田氏はベルクソンの純粋持続、アリストテレスの判断論などを主な手引きとして、それらがなおそれに縛られている対象化論理を、その「手前」に、すなわちそれらが「於いてある場所」にまで遡ることでそれを行おうとするというのです。このことは、対象性の地平(西洋)からいわば垂直方向への徹底した退歩と見ることができます。すなわち、対象性を全体として否定する「絶対無の場所」への退歩であり、これこそが西田氏にとっての、論理としての「東洋的なもの」ではなかったかと永井氏は問います⑴ 。
一方、西田氏は別のところで、「東洋的なもの」とは、「形なきものを見、声なきものの声を聞く」ことだとも言います。あらゆる対象性がそこに於いてある「絶対無の場所」においては、対象性を形成するかなる形(形相)も通すことなく世界が直接、そのまま現れてくることを意味するからです。
・精神的東洋と共時的構造化という方法
*「西田氏とは違い、自らの哲学をはっきりと「東洋哲学」と主張したのが井筒俊彦氏です。井筒氏は、「東洋」という言葉の意味を、日本の哲学界で伝統的に使われてきた意味を改変させます。というのは、従来日本で「東洋哲学」という時、インド、中国、日本が「東洋」とみなされていましたが、井筒氏はその範囲を超えて「東洋」の内容を、イスラム、ユダヤなどの中東や、さらにはギリシャにまで拡大します。さらに、「東洋」という言葉の意味を、地理的な意味から、「経験の深層次元」という超歴史的かつ超地理的な意味へと変換させ、そこに自律的な経験の野を設定し、それを「中間界」と名付けるのです⑴ 。 井筒俊彦氏は、『意識と本質』の「後記」で次のように言います。「一口に〈東洋哲学〉といってしまえば、すこぶる簡単で、すぐにも〈西洋哲学〉と比較対照できるだけのまとまりをもった一つの統一体であるかのような印象も与えかねないけれど、実際に自分でなかに一歩踏みこんでみると、その漠然たる広さに、たちまち足がすくんでしまう。それはいわば、とりつきようもない不気味な怪物にでも出逢ったような感じですらある」というのです。
東洋哲学、その根は深く歴史は長い。また、その地域的広がりも大きい。さまざまな民族のさまざまな思想、あるいは思想的可能体が入り組み入り乱れて、そこにあります。西暦紀元前をはるかに遡る長い歴史。それを「東洋哲学」の名に値する有機的統一体にまでまとめあげ、さらにそれを世界の現在的状況のなかで過去志向的でなく未来志向的に、哲学的思惟の創造的原点となり得るようなかたちに展開させるためには、そこになんらかの、西洋哲学の場合には必要のない、理論的、人為的操作を加えることが必要になります⑵ 。
そのような理論的、知的操作の、少なくとも一つの可能なかたちとして、井筒氏は「共時的構造化」ということを提案します。この操作は、手短かにいえば、東洋の主要な哲学的諸伝統を、現在の時点で、一つの理念的平面に移行し、空間的に配置し直すことから始まります。つまり、東洋哲学の諸伝統を、時間軸からはずし、それらを範型論的パラディグマテイックに組み変えることによって、それらすべてを構造的に包み込む一つの思想連関的空間を、人為的につくり出そうとすることであると井筒氏は言います。
こうしてできあがる思想空間は、当然、多極的重層的構造をもつことになります。そして、この多極的重層的構造体を逆に分析することによって、われわれはその内部から、いくつかの基本的思想パターンを取り出してくることが可能になります(3)。
・テトラレンマとトライコトミー
*「今号を皮切りに、今年度は「〈精神的〉東洋」について考察します。その第1回は、トライコトミーを取り上げます。
二元論や二項対立の克服もしくは調停という課題は、そもそも東洋の思想的営為においても古くから問われていました。西洋の形式論理では、古代ギリシャ以来矛盾率(「Aは非Aではない」といった論理)による議論、二元論的なロジックはむしろ常套でしたが、インドで発達したのは四区分別(テトラレンマ)と呼ばれる独自の論法です。たとえばインドのナーガルジュナ(龍樹)が『中論』で駆使しているテトラレンマは、①すべては真実(如)である、②すべては真実(如)ではない、③すべては真実(如)であり、かつすべては真実(如)でない、④すべては真実(如)であるわけでなく、かつすべては真実(如)ではないわけでもない、といったものです。二項対立の調停という文脈のなかで、なぜ④を必要としたのでしょうか。それは、端的に「多即一」、「一即多」の世界観に超出するためだといわれています。このテトラレンマに、東洋の思想的営為の極限を見出します。
「主体と対象」「一と多」に、さらに「内と外」(ないしは「含むと含まれる」)という二項対立を加える。二項対立の種類を限定しつつも増やすことによって、構造をより直感しやすくするわけです。このように三種類の二項対立を組み合わせることによって、媒介と縮約の循環的構造をつくり、原因となる始点がどこにもないあり方を示す方法が、トライコトミー(trichotomy)です。西洋的発想の基底にある二項対立をいかに回避するか、東洋大学教授、井上円了哲学センター理事の清水高志氏に、トライコトミーを手がかりに考察していただきます。
複数種のエンタングルメント=絡まり合いとは、相依相関する「縁起」のことです。「縁って生起すること」を意味する縁起とは、精神的・物質的な要素としての法(ダルマ)が、他の法に依存して生じるという道理を指しています。民族誌において、文化や社会といった枠組みのなかで語られてきた、ある事物と他の事物との「関係性」とは、まさしくこの縁起的な働きを別の言葉で置き換えたものです。むしろ、仏教のもっとも基本的な思想ともいえる縁起の道理は、「関係性」として描かれるメカニズムを、より深層から理解するための糸口となるのです。
一方アニミズムは、自分と自分の周囲の世界の連絡通路をつねに開いておく、言い換えれば、モノや他生にも注意を払うことによって、モノや他生や世界の側からの働きかけに対しても私が応じるという機序で成立するようにも思われます。だとすれば、自力のみに頼るのではなく、あちら側からもたらされる他力を感じて、あるがままの自然を受け入れるアニミズムと「縁起」は、近傍に位置する二種の思想的営為といえそうです。立教大学異文化コミュニケーション学部教授奥野克巳氏にお聞きします。
原因は結果に時間的に先行する。われわれの多くが当然のように前提とするこの考えに、異議を唱えたのが、インド仏教の論師プラジュニャーカラグプタです。たとえば、明日、恋人とのデートが約束されている場合、その未来の出来事が現在の心に幸福感をもたらすとします。あるいは逆に、明日に控えた手術が現在の心に暗い影を落としているとしましょう。われわれは過去の積み重ねのうえに現在があるという考えにとらわれていますが、現在はまた未来からの影響のもとに成り立っています。因果のベクトルは過去から現在へという方向性だけではなく、未来から現在へも向けられているとしたら……。ブラジュニャーカラグプタによれば、過去と未来は対称性の関係にあり、過去のものが結果を生み出す作用をもつのならば、同様に未来のものも結果を生み出す作用をもつと考えても、なんら不都合はないと主張したのです。
果たしてこの考えを屁理屈として退けることは可能でしょうか。一見奇妙に見える未来原因説を〈今ここ〉を生きる哲学の文脈とすり合わせることから再検討します。お尋ねしたのは、信州大学人文学部教授でインド哲学、仏教学がご専門の護山真也氏です。」
**(永井晋『〈精神的〉東洋哲学: 顕現しないものの現象学』より)
*「「顕現しないものの現象学」としての「〈精神的東洋哲学〉」は、あくまでも、徹底して事象そのものに従うことによって現象学の範囲を拡大し、それ以前の現象学では目立たず、隠れたままに留まっていた諸々の経験を発見し、主題化する作業を意味する。そこでは、「東洋」とはそのような「顕現しない/目立たない」、あるいは「形なきもの」の現象次元を指すのであり、それに対して「西洋」は、地平に媒介されて表象され、顕わになった形の世界を指す。」
「井筒(俊彦)はその後期の代表作『意識と本質----精神的東洋を索めて』において、自らの「精神的東洋哲学」の目的を「その多様さゆえに統一性をもたない「東洋」の諸伝統にある統一を与えること」だとしている。それは一見単なる比較哲学のように見えながら、「顕現しないものの現象学」から見るなら、東洋の経験的多様性を一者の内なる元型に還元して「一の多様性」として捉え直す、形而上学的な構想なのである。」
「「顕現しないものの現象学」とは、いわゆる後期のハイデガーが「ツェーリンゲンのゼミナール」(一九七三年)で使用した用語である。それは、彼が「存在と時間」以来初めて、それまで封印していた「現象学」に、「転回」を経て根本的に変容した新たな意味を込めて言及したものとして極めて重要なものである。つまり、「顕現しないもの」とは、転回以前のハイデガーの現象概念につきまとっていた制限を脱して最も徹底した意味で現れる次元なのである。しかし、ハイデガーの試みが真にそのような究極の現象性にまで至っていたのかが問題となる。
ハイデガーが主にパルメニデスを参照しつつ使用する意味での「顕現しない/目立たない」ものとは、「存在者の存在」における存在者(顕現する/目立つもの)へのあらゆる限定から解放されたギリシャ的な意味での「存在することそのこと」、端的な「存在そのもの(存在としての存在(Sein als solches)」の生起を指す。この定式は、存在そのものは、形而上学的な停止した実体でないのはもちろん、フッサール、さらには転回以前のハイデガーにおけるような、それと気づかれない仕方ではあれ地平的に現れ、それによって動きを止めるものでもなく、als(として)を通して垂直方向に自己差異化しかつ自己媒介することによって生起する徹底的に動的な「出来事」である、ということを示している。その自己媒介という特性が「同語反復(Tautologie)」によって評言されているが、そこでは、als で媒介されるのが同じ「存在」であるため、存在者として、つまり地平方向には何ら現れることはないが、垂直方向の自己差異化/自己媒介が生じており、それによって「存在する」という根本的な出来事が顕現しない、目立たない仕方で出来するのである。別の表現をすれば、この次元では、「存在することそのこと」とは(alsによる、ではなく)alsという、何ら「動くもの」なきラディカルな「動き」そのもの、あるいは「動きつつある」ことなのだと言ってもよい。さらにハイデガーは、alsを介入させることで失われかねないその出来事のラディカルな動性と顕現しない性格をより正確に示すために、alsを省いて(つまり現象学的還元をさらに吊り上げて)「現前しつつある:現前することそのこと(Anwesend:anwesen selblt)と表現する。
この出来事は、それを経験する人間の側からするなら、『存在と時間』の時期の現存在が、己の「死への存在」から脱し、さらに深いところで存在そのものに巻き込まれて、言わばその現象化原理としてのalsに成り切る(「動くもの」なき「動くこと」そのこと)によって初めて「存在そのもの」がまさしく現象学的な意味で現前することである。あるいは、この純然たる「動きつつある」ことが「存在そのもの」なのである。
フランスの「神学的」現象学における「顕現しないもの」の「存在」から「神/一者」への移行もしくは転換は、現象学的に見るなら----そして少なくとも彼らの理解に従うなら----還元のさらなる深化によって、この「として/:」がその身分と機能を変えることに他ならない。それによれば、「神としての神」もしくは「一者としての一者」は、単なる同語反復ではなく、コルバンにおけるその最終形態においては、無限が自ずから顕わになったもの(épiphanie,théophanie)として、「存在そのもの」とはまったく逆に、最も豊かな、潜在的現象性の出現である。そしてそれは、この新たな〈として〉が、神/一者をその内側からそのまま映す鏡であることによって可能になる。
未だまったく現象していない一なる神が、人間を媒介として、すなわち人間の魂=創造的想像力という鏡に自らを映すことによって、実体なき映像(元型イマージュ)として、その無限の潜在性を解き放つ。ここでは、「顕現しないもの/目立たないもの」とはこのような映像(元型イマージュ)として現れた一者そのもののことである。その映像は即一者自身であり、それ以外の何ものでもないのだから。それを、その自己自身でないもの、すなわちその外部から現れさせる地平や存在に媒介されて現れることはない。その意味でそれは「顕現しない/目立たない」のである。しかしそれは全く現れないのではなく、むしろいかなる外的な制限にもその動きを妨げられることなく無礙に炸裂するという仕方で、そして地平的な隠れの一切ない微細な超現前として、徹底した意味で現れるのである。
そしてそのような「顕現しない神/一者」の徹底して内在的な現象様態の典型が、ユダヤ神秘主義カバラーやイスラーム神秘主義における文学や神名、セフィロート、あるいは密教におけるマンダラなどに代表される「元型的象徴」である。それは「象徴という現れにおいて象徴されるものが隠れる」という、「現れ=隠れ」の論理の一形態によって構造化されるが、ここでも地平や存在を構造化する「隠れ」とは異なって、元型の次元で「現れ」と「隠れ」がラディカルに同じものであるために、本書でも多用した仏教用語を用いるなら「一即多」というべき事態である。ここでは“als”が徹底しら現象学的還元を経て「即」に変容している。“als”が、地平的に働く場合はもっぱら存在者の世界を現象させ、これに対して垂直方向では「同じもの」の反復として「存在そのもの」を顕現しない(何も現れない」仕方で顕わにするのに対し、「一即多」の「即」は一をそのまま無限の多様性へと自己展開させる。というよりもむしろ、より正確には、この無限の多様性以外にはラディカルに何もないという、否定が肯定に一挙に旋回する事態こそが即であり、空である。そしてその無限の現象は「存在者の世界」でも「存在そのもの」でもなく、この二元対立的思惟にとってはまさしく顕現せず、目立たないがゆえに見過ごされてしまうそれらの手前の、最も具体的な現前の世界なのである。それは密教においてはまさしく元型的象徴として、禅においてはあらゆる実体性から解放されて端的に、生き生きと現前している世界として経験される。
この地点から再びハイデガーを振り返るなら、この「神/一者(もしくは空)」は、ハイデガーの「存在の現象学」が、それをラディカルな動性として思惟するにしても「存在者の存在」という或る区別(存在論的差異=無/否定)から出発するのに対し、「神/一者」として現れたるイマジナル界の「間」には初めからいかなる区別(無/否定)もないため、「神/一者」の全き肯定的内在の中で転回するものであり、その意味でハイデガーよりもむしろスピノザからベルクソンを経てドゥルーズに至る内在哲学の系譜に繋がるものである。
このように、「顕現しないもの」の現れの論理としての「イマジナルの現象学」、あるいはその器官としての「魂(創造的想像力)の現象学」は、世界を知覚されたものや思惟されたもの、あるいは存在するものとしてではなく、魂(創造像的想像力)を通して、無限の潜在的深みを秘めた元型的象徴として見直してゆくものである。そしてその象徴の無限の深みとは、決して計り知れない深淵に隠れてゆくものではなく、むしろあらゆる桎梏を超えた全く新たなものの無礙な創造として経験される。そしてそれこそが、「〈精神的〉東洋」の哲学的内実なのである。」
**(永井晋「動きのなかに入り、共に動くこと/「顕現しないものの現象学」から考える」より)
*「これまでの西洋哲学では、私たちが住む感性的・地平世界や神や一者などと呼ばれるものの間にはなにもないか、あったとしても単なる空想的世界、あるいは怪しげな神秘的世界、もしくは宗教的な境地のようなものとしてしか捉えられていませんでした。(・・・)
しかし、ユダヤ教やイスラームの神秘主義、密教や老荘思想など、コルバンや井筒が言う意味での「東洋」には、そうしたイマジナルの現象が満ち満ちています。ですから、ここをもう一度現象学的に評価しないといけないというのが、私の考える「顕現しないものの現象学」なんです。」