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永井玲衣『世界の適切な保存⑳改行する』 (群像 2023年12月号)

☆mediopos3286  2023.11.16

「改行」は
文の意味以外の
意味を生み出す

記事で紹介されている事例

  ゴミを流さないよ
  うにお願いします

のように
「ゴミを流さないようにお願いします」では
生み出されないだろう意味が
「読み」の可能性としてでてくる

いうまでもなく
掲示されている場所から考えると
そのほんらいのメッセージが
誤解されることはまずないのだろうが

16文字を単純に8文字ずつの二行にすることで
おそらくそれを記したひとの意図には
なかったであろう意味が
読みの可能性として加わってくる

各所で掲示されている言葉には
このように「改行」によって
ほんらい伝えようとすること以外の意味が
そこに付け加わってくることがある

それらのほとんどは
一行の文字数を適当に決めているために
変なところで改行されているだけで
別の意味として成立するだろうような
そんな表現にはなっていないことのほうが多いが

記事のなかで紹介されている「改行」の事例

  哲学カフ
  ェ

  申し訳ありま
  せんでした

のように
改行されることで
なぜそこで改行されているのか疑問に思い
その改行を意識せざるをえないこともよくある

これらを勝手に深読みすれば
その「改行」や
ばあいによってはたまたま間違った表記かもしれないが
それらがたとえ意識されていなかったとしても
その意識下になんらかの意図があったのではないか
とかいう邪推をしてみたくもなる

また以下の引用事例で紹介されているように
子どもが書いた落書きの
改行をたくさんつかった表現が
不思議なエネルギーに満ちていたりもする

この子どもの落書きとも通ずるところがあるが
たとえば詩の表現においては
「改行」は
それがつくりだすリズムを使った
表現技法ともなることも多く
また短歌のばあいでいえば
「空白」が使われたりすることなどもよくある

しかしこうした「改行」や「空白」とは逆に
きわめて改行の少ない
さらにいえば「、」なども最小限にしか使わない
そんな文章表現がなされていることもある

それらの多くは段落そのものがとても長く
一見読み難いとも思われるのだが
その表現手法が効果的に働くばあい
意外にもそのつくりだすリズムによって
むしろそこで語られていることが
きわめて有機的な意味生成を伴ってきたりもする
(効果的でないときは単なるカオスになるが)

「改行」や「空白」も
あるいは逆にそれらがきわめて少ないときも
それらが効果的になされているならば
それらも言葉の見えない働き
あるいは文章そのものの意味以外に
意味を生み出す表現技法としてとらえると興味深い

■永井玲衣『世界の適切な保存⑳改行する』
 (群像 2023年12月号)

「そこで改行なのか、と思うことがある。
 街の張り紙や看板、フライヤーなど、ふと見渡すだけで多くのお知らせが見つかる。お知らせの背後には、それをつくった人間がいる。当然ながら、その作り手をとりまく様々な状況や環境がある。忙しかったのか、確認ができなかったのか、お腹がすいてぼうっとしていたのか、もう何もかもどうでもよかったのか。知ることはできないが、何かが確かにあったのだ。

  ゴミを流さないよ
  うにお願いします

「ウニを注文してしまっている」と話題の張り紙を、ネットで見つけて感動する。流さないよ、とやさしげに語りかけているのも好印象だ。おそらく貼るまで気がつかなかったのだろう。仕方がない。ここでウニを注文するわけがないのだから。

 言葉に変な切れ目が入る。意味が変わる。取り違える。どこに間が入るかによって、違った世界がべろんと露出してしまう。

  哲学カフ
  ェ

 むかし、ある哲学カフェのフライヤーでこんな表記があったのを見かけた。すさまじい改行だった。何かしらのミスだったとは思うが、直すことはできなかったのか、まあ意味は伝わるしいいか、という誰かの大らかさがあったのか。数年経った今でも気になってしまう。

 ウニの注文のように意味が通っているわけではない。「ェ」だけをとらえることは不可能だ。だが、どこか「ェ」がひとりで立ち歩いて「哲」と肩を並べたくなったかのように思えてくる。何も考えずに「哲学カフェ」とひとまとまりで発音していたことが、だんだんと気にかかってくる。これを発音するとなると、どうなるのだろうか。

  申し訳ありま
  せんでした

 これもずいぶん前に、あるひとから送られてきたメールだ。なぜここで改行をしたのだろう。気にかかる。何も考えずに打ち込むことができる。なんだったら予測変換で一発で出すことができる「申し訳ありませんでした」が、妙な光り方をする。もしかするとこのひとは、今ものすごく申し訳ない気持ちでいるのではないかと、想像が広がる。

 改行はリズムは。ここで言いたいのか、軽快なリズムではない。なめらかに進んでいたものが、突然ぷつりと切れてしまうような、とまってしまうような、そしてまた開始されるような、そんな変なリズムだ。

  ねむりのないねむりのあとに
  ふたたびねむる
     ねむること
     なく
  (リチャード・ブローディガン『ブローディガン東京日記』福間健二訳、平凡社ライブラリー、二〇一七年、一五三ページ)

 言葉が、改行によってリズムが生まれ、動き出し、よたよたと歩く。波が寄せてはかえすような仕方で、言葉がこちらにきて、あちらに流れる。」

「  クリスマス・ソングが好きだ クリスマス_ソングが
   好きだというのは嘘だ      (左クマサトシ)

 詩が改行をつかうなら、短歌は空白をつかう。一瞬の沈黙のような差し込みが、がくんとしたリズムを生み、身体にいつまでも残る。」

「街のある場所に、通りがかったひとが自由にチョークで書き込むことのできる黒板を見つけた。ふらふらと近寄って、ほとんど落書きと言えるような文字や絵を眺める。

 黒板は広く、大きかった。白いチョークで、ぐちゃぐちゃと押し合うように文字が並んでいる。多くの人が書き込むせいか、被ったり消されたりしていて読みにくい。

 その中で、生命がみなぎるような字が目に飛び込んできた、不格好だが、一画一画が集中力を帯びているような字で、子どもが書いたものだとわかった。

  たのし
  いか
  らいっ
  しょに
  いきよう

  みんな
  いっぱい
  たのしく
  いきようよわたし

  かいぞく
  もなんに
  もこないよ
  !!

 わたしは、この字を何度も読んだ。声に出した。

 奇妙な改行によって、エネルギーの一瞬一瞬に切れ込みが差し込まれながら、むしろ速度を増して、のぼっていくようだった。

 まっすぐに駆け出すこともできる。だが、空白が入り込むことによって、ぐぐっと踏ん張り、上に跳び上がることもできる。子どもの言葉は、とまっているあいだに、体をひきしぼり、より遠くへと飛んでいった。

 言葉が上空ではじけて、ひとびとの上にふりそそぐならば、どんなにいいだろう。「いっしょにいきよう」と、言葉は笑っている。」

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