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國分功一郎・千葉雅也『言語が消滅する前に』

☆mediopos-2592  2021.12.21

国語を
論理と文学に
分ける発想がある

言葉を論理だけで
とらえようとするのは
言葉を道具にするということでもある

メタファーを排し
一義的に言葉を使おうとするということ

エビデンス主義も
そうした科学主義的な発想からきている

科学主義が宗教であるように
エビデンス主義も
論理国語という発想も
ひとつの極めて強力な
(狂信的なまでの)宗教に他ならない

そこでは言葉の使用は
限定された問題だけに適用され
多義的で状況依存的な変化にともなった
さまざまな問いにひらかれてはいない

そしてそこには「孤独」はない
孤独とは「私が私自身と一緒にいられる」
つまり「自分自身と対話する」ということだからだ

そしてエビデンス主義のもとでは
個人的な表現は
「直接的な情動喚起」としての
エモティコン(emotion+icon)で
事足りるものとなってしまう

そこでは言葉が言葉である
という必要がなくなってくる

ほんらいの言葉をなくした人間は
いったいどこへ行こうとしているのだろう
AIによる論理思考と
稚拙な絵文字で感情を表現するだけの存在として

■國分 功一郎・千葉 雅也『言語が消滅する前に』
  (幻冬舎新書 幻冬舎 2021/11)

(「第一章 意志は存在するのか----『中動態の世界』から考える」より)

「國分/僕らはどんどん言葉を使わなくなってきている。だから言葉が人間を規定しているということの意味も想像できなくなっているかもしれない。」
「千葉/言葉がただの道具になってしまっているんですね。使えさえすればいいから、言葉それ自体は完全に透明な手段になっていて、そこに引っかかることがない。だから、絵文字に置き換えてもかまわないし、記号に置き換えてもかまわない。言葉が言葉であるという理由がない。要するにコミュニケーションが全面化している。これはすごく逆説的な言い方だけど、言語というのはコミュニケーションのためだけにあるものじゃなかったんですよね。」

(「第二章 何のために勉強するのか----『勉強の哲学』から考える」より)

「國分/僕はいま「孤独」がすごく必要だと考えています。ハンナ・アレントが、孤独と寂しさの違いについて書いているんですね。
 孤独とは何かというと、私が私自身と一緒にいられることだ、と。孤独の中で、私は私自身と対話するのだとアレントはいう。それに対して寂しさは、私自身と一緒にいることに耐えられないために、他の人を探しに行ってしまう状態として定義されます。「誰か私と一緒にいてください」という状態が寂しさなんですね。だから、人は孤独になったからといって必ずしも淋しくなるわけじゃない。
千葉/それはいい区別ですね。
國分/ところがいま世の中を見ると、孤独がなくなっている。孤独な経験がないから、人はすぐに寂しさを感じてしまう。そして、孤独はズレているときに起こるんです。世の中からズレているとき、なぜ自分が考えていることと感じていることを周りの人はわからないんだろう、と思う。それはまさしく自分自身と対話するということです。
 つまり、勉強するということがズレることだとすれば、それは最終的に、孤独をきちんと享受できるようになることだと思うんです。
千葉/そう。独学というのも、まさに孤独に生きることをいかに肯定するかを学ぶことなんですね。」

(「第三章 「権威主義なき権威」の可能性」より)

「國分/デビデンス主義の特徴の一つは、考慮に入れる要素の数の少なさです。ほんの数種類のデータしか「エビデンス」として認めない。
 そしてエビデンス主義の背景にあるのが、言葉そのものに基礎を置いたコミュニケーションの価値低下だと思います。人を説得する手段として言葉が使われず、「エビデンス」のみが使われていく。(…)
千葉/言葉で納得するということと、エビデンスで納得するということとは違うことなんですよね。
國分/全然違いますね。
千葉/まずそのことを確認するのはとても大事だと思います。そういうふうに思われていないでしょうから。エビデンスの勝利は言葉の価値低下なのだということが、まずは共有されなければならない。
國分/そこは本当に根本的なところだと思います。
 ところでこの場合のエビデンスとは何なのでしょうね。世の中では数字とか言われているけれど。
千葉/基本的には、ある基準から見て一義的なもののことだと思います。多様な解釈を赦さず、いくつかのパラメータで固定されているもの。もちろん代表的には数字です。それに対して言葉というのは、解釈が可能で、揺れ動く部分があって、曖昧でメタフォリカルです。エビデンスにはメタファーがない。まあ、エビデンス主義者ならばメタファーを消し去ってエビデンスで行くことが必要なのだと言うでしょうけどね。メタファーの価値低下が文明論的にどれほど大変なことかが理解されていない。これがポイントでしょう。エビデンシャリズムの強まりとは、メタファーなき時代に向かっていることでもある。」

(「第四章 情動の時代のポピュリズム」より)

「千葉/いまやもう、道具的な言語観でしか言語を捉えられなくなってきているんですよ。
國分/フーコーの『言葉と物』だと、一七世紀の古典主義時代のエピステーメーでは、言語は透明な媒体として捉えられていたので、言語そのものの存在が見えていなかった。それが十九世紀に入ると、ヘルダーリンの詩などが参照されながら、ゴツゴツとした岩のような物質としての言語が発見されたという話になっていきますよね。
 そこから考えると、現代の言語は一七世紀に戻っているようにも見える。一七世紀と違っているのは、コミュニケーションが必ずしも言語に依拠せず、非常に情動的なものになっているという点かもしれない。
千葉/情動的表現が全面に出てくると、解釈が必要な言語は邪魔なわけですよね。もっと直接に情動を表現できる絵文字、エモティコンが幅を利かすようになる。エモティコンは、エモーション(emotion)とアイコン(icon)からなる造語で、表情や感情を表す絵文字のことです。この言葉が示すように、現代では言語の弱まりとともに、イメージを使った、直接的な情動喚起の時代へシフトしてきていると思うんです。
國分/LINEやWhatsAppでわかったのは、日常のコミュニケーションにはスタンプや絵文字などのエモティコンだけで十分だったということでしょう。それは尻尾を振って喜びを表現するタイプのコミュニケーションに近づいている。そして、以前も話した通り、それと平行してメタファーや無意識の弱体化が起こっている。」

(「第五章 エビデンス主義を超えて」より)

「國分/エビデンスには、反権威主義や民主主義的な側面もある。(…)
 ところが、エビデンス主義には別の側面があって、非常に少ないパラメータだけを使って真理を認定するので、個人の物語を無視するわけです。(…)
 絵便殿す主義が掲げる科学主義は宗教的なものの危険に対して極めて敏感であるわけですが、他方でそれ自体が狂信的になっている感がある。(…)
千葉/エビデンス主義も結局、一定のエビデンスだとされるものだけを信じていればいいという意味で宗教だし、それを否定すると反科学主義になって、オカルト的なものを信じる宗教になってしまうということですよね。
 本当はそうじゃなくて、何らかのデータであるにせよ思想にせよ、その有効性の軽重を測って調整することが重要なのに、そういう主張がなかなか理解されづらくなっているんですよ。一つの原理だけで行動していればいいと思ったら楽だから、どうしてもそうなってしまいやすいわけです。
 つまり、状況によって判断することの難しさと責任から逃れようとしていると思うんです。その意味で、エビデンス主義も法務的発想と同じように責任回避に使われやすい。」

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