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『談 no.125 特集 ゆらぐハーモニー …調性・和声・響き』/源河亨『悲しい曲の何が悲しいのか/音楽美学と心の哲学』

☆mediopos2911  2022.11.6

最新号の『談 no.125』の特集は
「ゆらぐハーモニー …調性・和声・響き」

そのなかには
伊藤友計「和声的調整音楽は〝自然〟なのか
・・・・・・自然は楽器も音階も和音もつくらない」
源河亨「悲しい時に無性に悲しい曲が聴きたくなるのはなぜ?
・・・・・・音楽と感情の不思議な関係」
沼野雄二「響きの未来、無調、電子音響以降の表現のゆくえ」
という3つのインタビューが収められているが

今回は源河亨の
『悲しい曲の何が悲しいのか/音楽美学と心の哲学』
という著書を以前読んでいたこともあり
音楽とひとの感情
さらには音楽にかぎらず感情の不思議について
(源河亨の論点からは少し外れるところもあるだろうが)
少しばかり考えてみることにする

「悲しい時には、悲しい曲を聴くのがいい」といわれる

悲しみ・憂鬱・不安などのような
ネガティヴな感情を抱いている時には
その逆のポジティヴな陽気な曲を聴くのではなく
同質の悲しい曲の方を聴くほうが
むしろネガティヴな感情を軽減させるという

音楽療法で「同質の原理」と呼ばれているものである

なぜそこに「同質の原理」が働くのかについては
明確な説明がなされているとはいえないが
「同質」とはいえ
他者の感情を理解し推し量ったとしても
自分がそれと同じ感情になっているわけではない
ということを押さえておく必要がある

つまり「「知覚される感情」と、
それを聴いた人が「感じる感情」」との違い

「同質」でありながら
聴く視点は「知覚される感情」を
じぶんに作用させ共振させながらも
その感情を評価する客観性をもっているということだ

「悲しい時には、悲しい曲を聴く」ということは
「悲しい曲」によって
みずからの「悲しい」という感情を
いわばメタ・レヴェルから見ることができる

芸術におけるカタルシスというのも
そのことと深く関係しているといえる

「同質」といえば「ホメオパシー」も
「同種療法」といわれるが
物質レベルにおいても
ある種の作用に対してカタルシスをもたらすような
そんな作用を喚起するのではないだろうか

同質の感情をみずからに映すことで鎮めるように
同質の物質を虚の方向から鎮めるような

■『談 no.125 特集 ゆらぐハーモニー …調性・和声・響き』
 (公益社団法人たばこ総合研究センター 水曜社 2022/10)
■源河 亨『悲しい曲の何が悲しいのか/音楽美学と心の哲学』
 (慶應義塾大学出版会 2019/10)

(『談 no.125』〜佐藤真 editor's note「音楽に美しい響きはあるか」より)

「音楽は、メロディ(旋律)、ハーモニー(和音あるいは和声)、リズム(律動)の三つの要素で構成されています。音楽を聴いて最初に何かを感じたり、印象に残ったりするのは、主にメロディです。メロディは音楽のもとも中心的な要素で、たいがいの音楽にはメロディがあります。メロディは楽曲の主役という重要な役目を担っているため、音楽=メロディと思われているようですが、言うまでもなく、メロディだけで成立しているものはほとんどありません。日常生活にあふれている音楽の大半は、メロディとハーモニーとリズムによって成り立っています。」

「一般的にメロディは聞き手にどんな雰囲気の音楽であるかを印象づける働きがあります。そしてそのメロディを支えているのが和音であり和声です。音楽は、明るかったり冥かったり、楽しかったりさびしかったりと、その聴こえてくる楽曲によって印象が大きく異なりますが、この陰影を付ける当のものが、まさに和音であり和声なのです。つまり、その楽曲を生かすも殺すも和音、和声次第というわけです。
 ところで、音楽を聴く経験に心の哲学の観点からアプローチしているのが九州大学大学院比較文化研究科講師の源河亨氏です。聴取経験は、心の動き・状態の一つであるため、こころについての哲学的考察で得られた成果を利用できると源河亨氏は考えています。美に関する経験や變談の問題を扱う美学に心の哲学から迫ろうというのです。
 「悲しい時には、悲しい曲を聴くのがいい」とよく聴きます。悲しみ、憂鬱、不安などネガティヴな感情を抱いている時に、陽気な曲を聴くのではなく、むしろ、自分の感情と同質の悲しい曲の方がネガティヴな感情を軽減させるからとうのが主な理由のようです。音楽療法で「同質の原理」と呼ばれているものですが、考えてみると、これは奇妙な考えです。というのも、音楽は音の配列であり、振動という物理現象であり、およそ人間の感情とは無縁のもの。にもかかわらず同質とみて、ネガティヴな感情を軽減するように動くというのですから、人間の心的過程を問題に氏、人間の感情に注目うる心の哲学の観点から、この「同質」の意味を検討し、音楽と感情、音楽の美的経験について考察していただきます。」

(『談 no.125』〜源河亨「悲しい時に無性に悲しい曲が聴きたくなるのはなぜ?・・・・・・音楽と感情の不思議な関係」より)

「「悲しいメロディを聴くと悲しくなる」という感情は、「蛇が出てきて、怖い」や、悲しいということでいえば、最初に例として挙げた「財布を落とした」とか「恋人と別れた」、「ペットが死んだ」というような具体的な例と一見同じように見えますが、そのメロディを聴く私たちは何も失っていないので、それは自分の悲しみの表現ではなくて、他者の感情を推測するシステムが勝手に働いているだけだ、ということになります。他者の感情を推測したからと言って、決して自分が同じ感情になっているわけではありません。
 たとえば、自分が嫌いな人が悲しんでいることを理解して、「ざまあみろ」と思ったりもしますよね。あるいは他人が楽しんでいるのを見て不愉快になることもあるでしょう。誰かが悲しんでいることを理解するために自分自身が悲しくなる必要はありません、誰かが楽しんでいることを理解すると自分自身が楽しいわけでもない、「同質」のお話をした時に、「知覚されているのは本物の感情表出ではなく、感情の表出らしきもの」だと言いましたが、他者の感情を理解することと自分自身の心の状態は、やはり違います。ですから「あるメロディが悲しく聴こえる」ということも、私自身が悲しいわけではありません。
 とはいえおっしゃるように、あるメロディを聴いて楽しくなったり悲しくなったりするという経験は、誰しも実際にあるでしょう。その理由を探るもう一つの論点としては。そのメロディが音楽として成功しているかどうか、演奏が上手いか下手か、というようなことに着目するということがあります。いわゆる「良い」か「悪い」か、という価値の評価ですね。」

「「悲しいメロディ」における音楽と感情との関係を考えるには、先ほど少し触れたように、まずその音楽の特徴をなす「知覚される感情」と、それを聴いた人が「感じる感情」をちゃんと区別した方がいいかもしれませんね。前者は作曲者やプレイヤーの意図や感情も含めた「音楽のうちにある感情」であり、後者が「聴き手のうちにある感情」です。「悲しいメロディ」といった場合の「悲しい」は「音楽のうちにある感情」で、それは「リンゴは赤い」や「スマホは四角い」、「テンポが速い/遅い」というように、対象の特徴が挙げられているに過ぎません。一方「聴き手のうちにある感情(感じる感情)は、アメリカの分析哲学者であるO・K・バウズマの比喩を借りれば、「サイダーを飲んだ人が出すゲップ」のように、対象(ここでは「悲しいメロディ」)にかかわった結果として主体としての私たちの側に生じるものです。
 ですから、そうしたメロディを聴いている私は「悲しい気持ちになる」というのは、そのメロディが良いか悪いか、演奏が上手か下手か、というような評価にかかわることです。で、私自身がそのメロディで「悲しい気持ち」になったと捉えている(評価している)けれども、そのメロディが私にとって「しっくり」きているのであればそれはポジティヴな感情かもしれず、むしろ「楽しい」のかもしれない。そのメロディが良いか悪いかという評価も、あくまでも私が属する文化や生い立ちなど、個人的な経験にもとづくところが大きいゆえに、文化や環境が変われば変わる可能性もあるだろし、時には間違っていることもあるかもしれない。」

源河亨(げんか・とおる)1985年生まれ。九州大学大学院比較社会文化研究科講師。 著書に『悲しい曲の何が悲しいのか:音楽美学と心の哲学』(慶應義塾大学出版会 2019)、『知覚と判断の境界線:「知覚の哲学」基本と応用』(慶應義塾大学出版会 2017)他。


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