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田中貴子『いちにち、古典/〈とき〉をめぐる日本文学誌 』 /益田勝実『火山列島の思想』

☆mediopos-3013  2023.2.16

『鏡花と怪異』や『外法と愛法の中世』等の著書のある
田中貴子の十年ぶりの著書であるという
『いちにち、古典/〈とき〉をめぐる日本文学誌 』 は
日本古典文学のなかに現れる〈とき〉/一日を
「あさ」「ひる」「ゆう」「よる」、そして「まよなか」に分け
それぞれの〈とき〉をめぐる人々のものがたりである

「煌々とした電灯で照らされる夜が当たり前」の現代と比べ
かつてのいちにちのそれぞれの〈とき〉は
光と闇がつくりだす心の〈とき〉を色濃く映しだしていた

時代劇などでは
一日を十二等分し十二支を充てた「十二辰刻」で
いちにちの時刻が表現されるが
即物的に感じる現代の時刻よりも
そのときどきの時間が生きて感じられる

たとえば「草木も眠る丑三つ時」
丑の刻は午前二時を中心とした約二時間だが
その丑の刻を四等分してその三番目にあたる
午前二時ごろから午前二時半ごろのことで
その時刻には魔物たちが跳梁するという

しかし益田勝実が「黎明」について
「わたしたち日本人の脳裏では、実に永い間、
闇の夜と太陽の輝く朝との境に、なにか特別な、
くっきりした変わり目の一刻があった。
異変が起きるのは、いつもその夜と朝のはざま、
夜明けの頃でなければならなかった」
そう述べていたように

怪しい時間といえば夜と朝のあいだである
境目ではなにかが起こる
光と闇が交替するように
意識の様態も
そしてそれを反映した世界の様態も
そこで交替し変容する

本書の趣旨からは少し外れるが
ある意味で現代という時代は
二十世紀が戦争の世紀であったのに続いて
表向きは自由や平等が言挙げされているにも関わらず
戦争が多様な姿をとりながら引き続き繰り広げられ
魔物たちが跳梁している世紀となっているように見える

ある意味で「まよなか」の時代だともいえるが
「まよなか」だからこそ
「夜明けの来ない夜はない」ように
夜と朝のはざまで夜明けを待ち
「鶏鳴」に耳を澄ましていたい

鶏が鳴くと
異形の者たちも
退散せざるをえないからである

私たちは「古典」の〈とき〉から
「闇の夜と太陽の輝く朝との境に、
なにか特別な、くっきりした変わり目」を
感じていたかつての人たちのような感受性を
あらたな形で学び直すこともできそうだ

■田中貴子『いちにち、古典/〈とき〉をめぐる日本文学誌 』
 (岩波新書版 1958  岩波書店 2023/1)
■益田勝実『火山列島の思想』(講談社学術文庫 講談社 2015/11)

(田中貴子『いちにち、古典』〜「まえがき」より)

「本書は、日本古典文学のなかに現れる〈とき〉とそれをめぐる人々のものがたりである。一日を「あさ」「ひる」「ゆう」「よる」、そして「まよなか」の五章に分け、それぞれの〈とき〉に描き出されたトピックについて綴っている。

 周知のように、近代とそれ以前の世界では時間の計り方や教え方は異なるので、たとえば「あさ」といっても現代人の私たちがイメージする「朝」とはズレが生まれることもある。機械式の時計が発達した近代以降では、一時間の長さは一定であり季節によって変化することはないからである。本書で用いている「あさ」「ひる」などの名称は、正確な時刻制度に基づいて算出したわけではなく、かりに現在の午前六時から午後六時を昼間、それ以降を夜間としてゆるやかに区分けしたものであることをお断りしておく。

 このようにおおまかな区分けをしたのは、益田勝実が「黎明」について述べた次の文章に影響を受けてのことである(「黎明——原始的想像力の日本的構造」)。

  わたしたち日本人の脳裏では、実に永い間、闇の夜と太陽の輝く朝との境に、なにか特別な、くっきりした変わり目の一刻があった。異変が起きるのは、いつもその夜と朝のはざま、夜明けの頃でなければならなかった。

 本書では、一日を太陽の出ている時間帯と太陽の沈んでいる時間帯によって成り立っていると考え、その境目をそれぞれ「あさ」「ゆう」、それらの間を「ひる」「よる」、そして「まよなか」と相対的に呼ぶことにした。「まよなか」は「よる」よりも更に深く昏い時間帯を想定している。

 さて、ここで少し近代以前の古典文学に見える時間の計り方について述べておこう。一般的に時間の計り方には不定時法と定時法がある。『デジタル大辞泉』によれな、不定時法とは、

  夜明けの始まりと日暮れの終わりを基準として昼夜を別々に等分する時法。季節や緯度・経度によって一時間(刻)の長さが昼夜で異なる。日本では室町時代後半から江戸時代まで用いられた。

というものだ。時代劇などでよく耳にする「暮れ六つ」などという言い方は、この不定時法の時刻表現である。

 一方、定時法とは、

  季節・昼夜に関係なく、一日の長さを等分して時刻を決める時法。

をいう。ただし、暦面上は奈良時代から江戸時代まで天保暦を除いて定時法が用いられていた。一日を十二等分し十二支を充てた「十二辰刻」が多く使われており、たとえば二十三時から一時までは「子(ね)」であり、そのちょうど真ん中の零時が「正子(しょうし)」(子の正刻)、十二時が「正午」(午の正刻)となるが、不定時法でも十二辰刻を使うので注意が必要である(国立天文台「暦 Wiki」)。本書でも、文献の成立した時代によって定時法と不定時法の十二辰刻が混在している場合がある。

 では、定時法ではいかなる方法で一定の時間を計ることができたのだろうか。そして、人々はそれをどのようにして知ることができたのか、時計の祖というべきものは、中国から伝わった「漏刻(ろうこく)」と呼ばれる水時計で、『日本書紀』天智天皇十年(六七一)に設置された記事が見える。漏刻は水槽の小さな孔から水が流れ出る量によって一定の時間を計る仕掛けで、律令ではこれを司る漏刻博士が定められたが、平安末期には漏刻は途絶した(「漏刻」『国史大事典』)。それ以降、中世では太陽の出入時刻を昼と夜の境とする不定時法が考案されたよいう(橋本万平『増補版 日本の時刻制度』)

 漏刻が宮中で時を刻んでいた時代、それを人々に知らしめる方法は太鼓であった。」

「この太鼓は、いつ頃からか夜間は取りやめになり、口頭による「時奏」へと変わってゆく。」

「宮中では漏刻が設置され、それに従って官人は声で時を奏し、「時の簡」と呼ばれる板の当該箇所に約三十分ごとに杭を刺して掲示する。しかし一般庶民では、時奏や時の簡に杭を刺す音が聞こえるはずもなく、時刻はうち鳴らされる鼓鐘の数によって知る以外の方法はないのである。」

「宮中から発せられた鼓鐘の音が聞こえる平安京の貴族なら、このようにして時刻を知ることができるが、都以外に住まう者たちは時刻の正確な把握を近隣の寺院に鐘によっていたと思われる。」

(田中貴子『いちにち、古典』〜「Ⅰ あさ」「鶏が鳴く」より)

「鶏が時を作ることやその時刻そのものを「鶏鳴」と称する。『日本国語大辞典』(第三版)には次のように説明がなされている。

  一番鶏が鳴くころ。午前二時ごろ。丑の時。八つ時。

 つまり、鶏は「ともに夜をすごして男女が別れる時刻」である暁に先駆けて鳴くということになる。男は女のもとから帰らないといけないということを、鶏の声で知るのだ。」

「鶏が鳴くと帰って行くのは、恋人だけではない。もっぱら夜を活動の時間帯としている異形の者たちもそうである。」

(田中貴子『いちにち、古典』〜「Ⅱ ひる」「昼食の風景」より)

「かつて食事は一日二食であり、昼食が摂られるようになったのはずいぶん後の時代からだということはよく知られている。福田アジオほか編『日本民族大辞典 上』が、「食事」の項目で昼食が生まれた時期をこのように説明している通りである。

  古くは食事をケといい、同時に食物や盛る容器も意味し、そこから一日の食事をアサゲ、ヒルゲ、ユウゲといった。平安時代には朝夕の二食で、労働の激しい者などが間食をとったという。次第に間食が固定化して中食(昼食)になり、中世から近世にかけて一日三食になり、定着した。」

(田中貴子『いちにち、古典』〜「Ⅲ ゆう」「彼は誰そ時」より)

「あやしいモノが出現し、奇怪なコトが起こる時間帯はいうまでもなく夜が多いが、夕暮れ時をはっきりと指し示す言葉をともなう場合も少なくない。昼から夜へと移り変わるトワイライトゾーンは、日の出から活動している人間に疲れが訪れる時間帯だ。(…)そうしたころあいを、かつては「彼は誰そ時」と呼んだ。「かわたれどき」と言ったら、もっとわかりやすいだろうか。「あの人は誰」という意味なので、人の見分けがつきにくい時間帯だということでもある。よく似た表現に「たそがれどき」(「誰そ彼時」)もある。」

(田中貴子『いちにち、古典』〜「Ⅴ まよなか」「あのひとの・まよなか 「鬼」のいる時間」より)

「煌々とした電灯で照らされる夜が当たり前でなかったころ、人とモノはいわば共存共栄していたといえる。地続きの異界が広がる世界に、わたしたちの祖先は生きていたのだ。
 夜が終われば、モノは舞台から去る。
 そして今日もまた鶏が鳴き、一日が始まるのだ。」

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