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宮地尚子『傷を愛せるか』

☆mediopos2758  2022.9.14

傷をもたないひとはいない

おそらくひとは
傷つくために生まれてきた

生まれてこなければ
傷つかずにすんだのに
あえて生まれてきた

だからおそらくひとは
その傷ととともにどう生きるか
どう向き合うかをつうじて
なにかを学ぼうとしているのだろう

じぶんの傷を癒やせない
無力感を感じながら
じぶんの傷どころか
ひとの傷を癒やすことのできないじぶんに
罪悪感さえ感じながら

ひとは
「弱さ」から逃げることはできない
弱さを克服することはできないから
弱さを抱えたまま強くあろうとするしかない
未来はつねに不確実なままで
すべての不安を去ることはできないからだ
死から決して逃れることはできないように

愛するとは
残酷なことだ

じぶんを愛することも
ひとを愛することも

愛するということは
たとえ傷から逃げつづけようとしても
傷とともに生きることしかできないままに
あえて傷と向き合うことだからだ

十字架のうえで
みずからの傷を受け入れるように
そしてそこから蘇りを生きるように

■宮地 尚子『傷を愛せるか(増補新版)』
 (ちくま文庫 筑摩書房 2022/9)

(「なにもできなくても」より)

「なにもできなくても、見ていなければならない。目を凝らして、一部始終を見届けなければいけない。そういう命題が、自分に課されているような気がずっとしていた。その命題が、どこから来たのかはわからない。いついからかも覚えていない。だれかにいわれたわけではないと思う。
 幼いころの体験が作用しているのかもしれない。(…)
 わたしに限らず、子どもというのは、自分のまわりに起きることを、ただ見つづけるしかない。大人たちの諍うさまを、ほかの子どもが理不尽にあつかわれるさまそ、自分を守ってくれるはずの大人が怯えたり、あたふたするさまを、大切なだれかが恐ろしい目に遭ったり傷つくさまを、ただ息をつめて見ているしかない。諍いをやめさせたくても、まちがいを正したくても、自分にはその力はない。だれかを守りたくても、守る力はない。かとって、立ち去る力も行く場所もなく、ただそこにいつづけるしかない。だから目を凝らして見ているしかない。ふすまの陰から、車の後部座席から、教室の隅のほうから。
 大人になって、医師になって、専門的な知識と技術を身につければ、もう、ただ見つづけるだけでなく、目の前の状況になんらかの変化を与えることができる。諍いを止め、まちがいを正し、人の命や心を守り、安心感を与え、傷つきを癒やすことができる。……そのはずだったのだが、現実には、子どものころと同じような経験ばかりをくりかしているような気がする。
(…)
 結局、大人になっても、医師になっても、自分が変えられることなどごくわずかでしかないことを、思い知らされつづける。子どものときとちがうのは、無力感に罪悪感が上乗せされるということだろうか。」

(「予言・約束・夢」より)

「ときどき考えるのだが、命綱やガードレールなどのほんとうの役割は、実際に転落しそうになった人をそこで引き(押し)とどめることでは、おそらくない。もちろんそういう役割を果たせるように、強度を計算して、材質や形が決められ、つくられているのだろうとは思う。けれど、命綱やガードレールが実際に物理的効力を発揮する機会は少ない。そこにそういうものがあるから大丈夫だと安心することで、平常心を保つことができる。本来の力を発揮し、ものごとを遂行することができる。たいていは、そのためにこそ役だっていると思うのだ。
(…)
 同じようなことが「予言」や「約束」にもあるように思う。最終的にその予言が当たり、約束が果たされるという保証はない。けれどもいま、真剣にそう思うから、そう願うから、そう信じるから、言葉にして共有し合う。未来に言葉を投げかける。
(…)
 思想家のハンナ・アーレントは、「赦し」と「約束」について語っている。彼女はそれらが「再開の可能性への賭け」になるという。復讐にたいしての「赦し」、支配に対しての「約束」。
 復讐の代わりに「赦し」を、というのはわかりやすい。復讐とは過去のくりかえしであり、赦しは過去の呪縛からの解放になるからだ。では支配の代わりの「約束」とはどういうことなのか。わたしの勝手な解釈なのかもしれないが、支配もまた過去のくりかえしであり、過去の呪縛であり、強制であり、力ずくであり、一方的なものである。「約束」とはそれ自体が一〇〇パーセント守られる保証はなく、夢であり、祈りであり、希望であり、信じることである。「約束」は、双方向的な関係の中でのも成り立つ。約束する個でなく、約束される個がそれを受け入れ、もう一度信じてみるという危険性を冒すことによって、かろうじてそれは成り立つ。
「幸せになんてなれずはずがない」と思い込んでいた人、「幸せになってなってはいけない」と思い込んでいた人には、過去の呪縛から解き放たれるための言葉が必要になる。恐怖にすくんだ人が足を伸ばし、歩きはじめるには、未来を捕捉する言葉が必要になる。
 実際の命綱やガードレールがどんなに頼りなくても、人はなにかが、もしくはだれかが、現実のもろさや危うさの中で、未来を捕捉することは実際にはできないからこそ、希望を分かち合うことによって未来への道筋を捕捉しようとする試み。予言。約束。願い。夢。
 明日、天気になあれ。みんな、幸せになあれ。そう思い、そうつぶやく。そう囁き、そう唄う。」

(「弱さを抱えたままの強さ」より)

「英語に「ヴァルネラビリティ」(vulneravility)という言葉がある。通常会話のほか、遺伝学や生物学の用語としてもよく使われる。訳としては「脆弱性」が最も一般的だろうか。単純に「弱さ」と訳されることもあるし、「攻撃誘発性」と訳されることもある。わたしはこの言葉がとても気になりながら、ずっとその意味の輪郭をきれいにつかみきれないでいた。なぜ同じ言葉が「弱さ」でもあり、「攻撃誘発性」でもあるのか。その弱さとはどんな種類の弱さなのか。」

「わたしはふと、「あ、そうか、「隙がある」とか「つけ込まれやすい」というのがヴァルネラビリティということなんだ」と思いいたったのである。そのもの自身が弱いわけではない。ただ防御力に乏しく、その結果として攻撃を受けやすい状態。「隙がある」とか「つけ困れやすさ」という訳は学術論文では使えないが、意味としてはそういうことなのだ。」

「どれだけ「鎧」をつけて過剰防衛をおこなっても、人間は、生物は、社会は、ヴァルネラビリティから逃れられはしない。つねに未来は不確実なままであり、心配や不安をなくするのは不可能であり、一〇〇パーセントの安全はありえない。医療現場はとくに、病気やけが、障害、老いといったヴァルネラビリティをあつかう領域である。だからこそ、医療文化はそのヴァルネラビリティを受け入れ、慈しみながら、同時にそれと闘いつづける必要がある。弱さを克服するのではなく、弱さを抱えたまま強くある可能性を求めつづける必要がある。」

(「見えるものと見えないもの」より)

「わかる人にはわかる、という現象は、二つの異なる意味で危険をはらんでいる。
 見えないものが見えたり、感じることのできないものを感じる人がいるとき、そこで見えるもの、感じられるものが「実在」するのかどうかは、あとにならないとわからないことが多いし、あとになってもわからないことも多い。」

「いまの時点では客観的に証明できない、エビデンスを出しようのない「なにか」も、まだまだ数知れず実在する。そういった「なにか」を先に察知する特殊な能力や技術をもった人は、しばしば疑惑の目を向けられ、迫害されてきた。
 立体視の絵がある。目の焦点をずらすと、物体が浮き上がって見えるというものだ。比較的簡単に立体視できる人もいるし、かなり練習しないとできない人もいる、どれだけ練習しても見えない人もいる。わたしたは立体視の絵を見ながら、空想する。この社会に独裁的な権力者がいるとする。彼は立体視ができない。だから一度も浮き上がる物体を見たことがない。見えるという人、見えて喜び合う人たちにたいして。苦々しい思いを抑えきれない。屈辱感をぬぐい去るため、立体画を禁止する。立体画が見える人たちを「嘘つき」「異端者」「悪魔」として排斥する。わたしは魔女狩りの時代に思いをはせ、いまから振り返れば狂気の沙汰のような魔女狩り現象も、単純にそういうことだったのではないかと考える。
 ふつうの人たちが察知できないものを察知する人は、かすかな空気の汚染に気づくカナリアなのか、それともただの「敏感関係妄想」なのか。特殊な能力をもった癒やし手なのか、それとも魔女なのか。」

(「傷を愛せるか」より)

「傷を愛せるか。心の傷にはいろんな傷がある。擦り傷、切り傷、打撲傷。自傷、他傷。傷つけられたという傷。傷つけてしまったという傷。いつまで経っても治らない傷。かさぶたがすぐ剥がれる傷、どんどん合併症を起こしていく傷、感染を起こす傷、肉芽が盛り上がり、ひきつれて、瘢痕を残す傷、身体の機能不全を起こす傷。
 傷は痛い、そのままでも居たいし、さわられると、もっと痛い。
 傷を愛することはむずかしい。傷は見にくい。傷はみじめである。直視できなくてもい。ときには目を向け、見えないふりをしてもいい。隠してもいい。
(…)
 傷がそこにあることを認め、受け入れ、傷のまわりをそっとなぞること。身体全体をいたわること。ひきつれや瘢痕を抱え、包むこと。さらなる傷を負わないよう、手当をし、好奇の目からは隠し、それでも恥じないこと。傷とともにその後を生きつづけること。」

「くりかえそう。
 傷がそこにあることを認め、受け入れ、傷のまわりをそっとなぞること。身体全体をいたわること。ひきつれや瘢痕を抱え、包むこと。さらなる傷を負わないよう、手当をし、好奇の目からは隠し、それでも恥じないこと。傷とともにその後を生きつづけること。
 傷を愛せないわたしを、あなたを、愛してみたい。
 傷を愛せないあなたを、わたしを、愛してみたい。」

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