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廣末保『遊行の思想と現代―対談集』

☆mediopos-2470  2021.8.21

遊行者であることは
故郷喪失者であることに似ている

いうまでもなく
故郷喪失者であることは
現代において霊性を深めるためには
必要不可欠な在りようである

遊行は
空間を移動するかどうかとは関係しない
どんなに空間を移動しても
精神が成熟していかないならば
その移動はただの景色の変化に過ぎない

逆に同じ場所にいても
そこにおいて精神が変容し
成熟していくならば
その場所での営為は遊行となる

遊行者であることは
常に「よそ者」であることであり
集合的な在り方から自由であることだ

遊行者は円の中心を自由につくりながら
そこから広がる円を重層的に描いていく

管理社会は遊行者を認めない
定められた中心を持つ同心円の内の
決められた円として人を位置づけたいからだ

対談のなかで
時宗僧についての興味深い話があった
「一線を引く」という姿勢である

時宗僧は戦場からは離れず戦場に立ち会うが
「戦場に巻き込まれる形で最後まで立ち会」い
しかも「敵も味方も往生させてやる」というのだ

私たちの生きている世界も
「戦場」としてとらえることもできるのだが
私たちはその「戦い」に参加しながらも
時宗僧のような目をも
もつことが必要ではないかというのだ

世に在りながら
世から離れた目をもつということだ

それは専門の世界に生きながら
専門から離れた目を持つことでもある

常に「よそ者」であり
故郷喪失者である
そんな遊行者となれますように

■廣末保『遊行の思想と現代―対談集 (廣末保著作集)題十二巻』
 (影書房 1998/5)

(谷川健一・廣末保「遊行の思想と現代」より)

「谷川/遊行という観念は、ぼくなりにそれを解釈すれば、要するに任意性というものを徹底的につきつめていくこと、任意性というものを必然性というふうに短絡した形でごまかさないでいくものじゃないか、ということがありますね。もう一つは、定着の場合、その定着を中心の固定軸として同心円を描いて近きより遠きにおよぶという傾向があるんじゃないか、しかし遊行という場合にはその円が重層的に重なりあいながら、しかも同心円じゃない円が絶えず描かれていくということがあるんじゃないかと思うんです。
 遊行の場合には時間の持つ毒素というようなものを一つところで身に浴びて、それをがまんしていくということじゃなくて、空間を移動することによって、つまり任意の点から任意の点へ移るということによって、その時間性の毒素を克服していくんじゃないか。」

「谷川/遊行の思想というものを日本の伝統のなかで発掘する仕事が非常に重大だということ、それからそれをどこまで純粋に抽象化しうるかが課題ですね。たとえば遊行の精神というのは、定住的な生活がいま苦痛だから一所不住の徒となって歩けばいいというような、そんな実体的なものじゃないと思う。現代においては、遊行の思想というものはもっと抽象的な面を狙っているとぼくは思うんです。
廣末/遊行という言葉は昔からあるわけですけれども、遊行的なものという形で、一つの純粋な概念にはならないけれども、できるだけをれを抽象化してみて、そしてそれを現代にぶつけていくとどういうものが見えてくるかという関係。それをどなたか−−−−ぼくはやらねばならないけれども−−−−もう少し別の側面からやっていくことはできないだろうか。
 それからもう一つは、同じあの本のなかで時宗僧のことを書いたんです。一線を引くという考え方ですけど、これはちょっとむずかしいことですけど、一線を引くというのは、いわゆるカッコつきの傍観ということではなくて、時宗僧は戦場に立ち会うだけで、戦場に巻き込まれる形で最後まで立ち会っていて、しかも違うわけです。敵も味方も往生させてやる。つまり、最後まで立ち会って、しかも戦っている人間とは違うという生き方をした人間がいるわけです。それとぼくたちとは違うわけだけれども、いまみたいな時点で生きていく場合、その両方持っている必要があると思うわけです。戦っているという側面と、それから時宗僧的な側面を両方持たねばならない。(・・・)そういうものの目をも一人の人間が同時に持ちうるというふうな生き方ができないかどうか。そうすれば、オール・オア・ナッシングという選択でない、ある意味では遠回りになるけれども、だれかが戦って、それに自分が宗教家みたいにつき合うということじゃなくて、その両方を自分のなかに装置しておくということがあってもいいのではないかという気がしますね。」

(内村剛介・廣末保「旅と隠棲/内なる旅へ向かって」より)

「内村/ほんとは井の中の蛙でいいはずだと思う。今こそまさにまともな人間は遁世し、井の中の蛙として半眼で宇宙から展望する。そういう人間だけにまともにものが見えるんじゃないですか。あれこれつまんで歩く諸君には何も見えやしない。
廣末/大体ぼくもそう思う。
内村/井の中に腰をすえることが今いちばん大事なのに、腰をすえるべき最後のよりどころさえも見失って流れ出したというのが現代の旅ではないかと思っています。
 旅というものは、外側に求めるのではなくて内側に求めるべきではないですか。way of life として。ところが楽しみのための旅、人のための旅、出張の旅などやたらに有効性ばかり問題にする。そしてその果てが何でも見てやろうとなる。そのようにしてみやみにコミュニケイションを追いかけていっているが、それは実はコミュニケイションを自分の中に収斂するという気持ちがなくなったのではないかな。その意味ではディス・コミュニケイションの方がましだと思いますよ。ディス・コミュニケイションは一種の隠遁になりますね。」

(森本哲郎・廣末保「ぼくらはなぜ旅に出るのか」より)

「廣末/空間的に限られているということは、観念の世界の中で無限ということを経験する以外にないとうことですからね。
 旅の形態でも交易とか戦争とかいう場合のそれは、やがては帰って来るにしろ、或いは新しい所に定住するにしろ、定住志向というものをもっているわけですね。だから、終わりがあるわけです。その終わりというのは子孫に受け継がれていくものだし、死と復活ということで言えばその共同体の中で新しい時間が始まって連続する。
 ところが、そういうものと違ったもう一つの旅というのは、終わりがない旅です。芭蕉なんかの場合は、自分が経験したものをもっていくところ、還元するところがないわけですね。そうすると、観念として昇華されていく意外にないわけです。だから、旅には終わりのある旅と、終わりのない旅がある。
 今、僕なんかが関心をもっているのは、終わらないから旅だというときの「旅」の概念なんですね。それが、旅を観念化したということであって、経験としての旅というもの、人生経験なり社会経験なりの旅というのは、必ず功利的に生かされていくものですが、それではない。その二つがあって、しかも、観念としてのそれが純化されて行ったというのは、日本の場合には経験的なものをどこまでもどこまでも拡張していくだけの可能性はないですからね。そうすると、時間・空間を或る段階で観念の次元に切り替えるほかない。時間と空間の概念が飛躍する時点がそこにあるわけですね。そのところで旅が文学のテーマになったという関係があるんじゃないでしょうか。」

「森本/現代は、先生がおっしゃったように旅というのは無くなった時代ですね。
廣末/旅と定住とを両極に置いた場合に、そのどちらの範疇にも入らない形態が出てきたということでしょうね。
森本/現代社会に住んでいる人達は旅を捜しながら旅しているような、そんな感じがしますね。
廣末/非定住だけれども旅じゃない。かといって定住の可能性はないから、せめて自分なりの新しい旅を発見したい、ということはあるでしょうね。」
「廣末/帰れる所をもっている旅というのは、たまたま自分をスリリングな状態に置くわけですけれど、帰る所のない旅というのは永遠によそ者としれ生きる旅でして、それは本当に大変なことです。
 よく批判的に「所詮よそ者の目だ」なんてことを言いますけれども、しかしそういう言い方には、必ずしも賛成できないんで、よそ者に徹している人間の目というのは、これまた、かなりこわい目だということですね。
森本/まさにそうだと思います。私は文化というものに必要なのは、よそ者の目だと思うんです。いつも定住民の目で見ていたら文化は停滞してしまう。文化そのものもまた旅人でなければならないと思うんですよ。」

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