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土居健郎「人間理解の方法————「わかる」と「わからない」」(『最終講義 学究の極み』)

☆mediopos3501  2024.6.18

手元に1997年実業之日本社からでている
『最終講義』という一冊がある

今回(五月)角川ソフィア文庫から
『最終講義 学究の極み』『最終講義 挑戦の果て』
という二冊がでているが
これは二〇二二年に刊行された『増補版日本の最終講義』が
分冊の上文庫化されたもの
上記の『最終講義』以降に行われた講義をはじめ
そこには収められていない講義も収録されている

以下そのなかから
土居健郎の「人間理解の方法————
「わかる」と「わからない」」をとりあげる

「わかる」という日本語は
「分ける」といった区別するニュアンスがあり
「曖昧模糊としてわからないところから
「わかる」ものが出てくる」ということだが

「わかる」とは
「馴染みがある」または「馴染める」ということ
したがって「わからない」とは
「馴染みがない」ことだと考えられるとしている

「わかる」ことがふえていくということは
「同定と同一化」という形によっておこなわれるが

「これまで未知でわからなかったことがわかる」ためには
「わからないことの中に、ある問題を見つけ、
その問題を解決する」ことが必要となる

つまり「まず、何がわからないか」が見えてこないと
「問題を解決するという形」にはならない

しかし「どうやって問題を発見するのか」
ということを説明することはむずかしい

しかも「人間の認識というものは、
どんなにわかっても必ずわからないところが残り」
「むしろわからないことがふえていくとも言える」

だから「「わかる」ということだけでは非常に危険」なのだ

そのことについて「分裂病」という名称をつくった
オイゲン・ブロイラーという
精神科医の言葉が紹介されている

「普通の人間がいかに生半可なわかり方をして
平然としているか、医者も御多分にもれない」
というのである

「人間は馴染んだものに執着して、
馴染まないものを否定する傾向」があり
「その場合「馴染まない」ものに対して
「わかろう」とする姿勢をなくし」
「妄想に発展する場合」さえある

「人間の集団思考というものが大体そう」で
「集団の中だけが正しくて、
外はみんな悪くなってしまう。
これはわれわれが常に心しなければならないこと」だ
そう土居氏は語っている

この講義が行われたのは一九八〇年のことだが
そこから四〇年以上経った現在
その「危険」は深刻な状況にまで至っている

講義の最後では
これから医者になろうとしている学生に対し
「必ず自分のやることがプロフェッションである
ということを肝に銘じてほしい」と語られ

かつて自身の大学時代
「だれ一人として〝よい医者になれ〟
といってくれた教授がいなかった」という残念な思いから
「いい医者になりなさい」という
メッセージが送られているが

医者に限らず
政治家もメディアに関わる人間も
「プロフェッション」であることが
あまりにも等閑にされている危険な状況である
それぞれの利害のためなら
医者も政府もメディアも
国民をスポイルして恥じないようなそんな・・・

プロフェッショナルであろうとするごく一部の人たちが
かつての預言者のごとく曠野で声をあげているが
「「馴染まない」ものに対して
「わかろう」とする姿勢」のないひとたちに
その声がとどいているとはいえない

「わかる」ためには
まず「わからない」として
そこに問題を見つけなければならないのだが
それが明かな問題として外からやってきて
それが問題であることを教えられないかぎり
「わかっている」という思い込みの外に出るのは
きわめてむずかしいことだからだ

■土居健郎「人間理解の方法————「わかる」と「わからない」」
 (『最終講義 学究の極み』角川ソフィア文庫 令和6年5月)
 *一九八〇年(昭和五五)東京大学

*「まず「わかる」とはどういうことかということをわかる必要があるでしょう。「わかる」というのは一体全体どういう心の働きなのか。皆さん、わかると気持ちがいいですね。わからないと気持ちが悪い。それから「土居の話は聞かなくてもわかる」と言えば、「もうわかっている」、こういうことですね。しょっちゅう聞いているからわかっている。あるいは、「土居の話はさっぱりわからない」ということもできる。結局、「わかる」ということは「馴染みがある」または「馴染める」ということなんだろうと私は思います。したがって、「わからない」というのは「馴染みがない」、「馴染みがある」と「わかる」とは大体イコールではないか、このように私は考えます。」

「ちなみに「わかる」という日本語の言葉ですが、これはご存じのように「わける」「わかつ」などとともに、すべて同根の言葉ですね。「わけがわからない」という場合の「わけ」もこの「分く」の連用形が名詞化したものです。そこで「わかる」というのは、「分ける」「区別する」「別れる」もそうですが、区別のニュアンスを持っていることになります。「わからない」という場合は、曖昧模糊として区別がつかないわけです。そういう曖昧模糊としてわからないところから「わかる」ものが出てくるわけですね。「ああこれだ」「これなら知っている」、「わかる」というのはそういう意味内容を持つ言葉のように思われます。」

*「同定と同一化。この二つは本質的には根は同じなんです。対象が人間の場合には同一化、人間以外の場合は類の創造による同定、こういう形で「わかる」ことがふえていく、このように考えることができます。」

「しかしいうなれば研究的なわかり方、つまりこれまで未知でわからなかったことがわかるということはどういうことかということになるとちょっとむつかしい。結局、わからないことの中に、ある問題を見つけ、その問題を解決することによって「わかる」ことが増えていくわけです。ですからまず、何がわからないかが見えてこないとだめなわけです。そして初めは何もわからず曖昧模糊としているのですが、そこに何らかの問題が見えてくると、その問題を解決するという形でわかるようになる。こういう形で人間の認識というものがふえていくんだ、こういうことが言えると思います。(・・・)

 ではどうやって問題が出て来るのか、この点はそれこそ説明困難です。どうやって問題を発見するのかという問題です。」

「それからもう一つ大事なことは、人間の認識というものは、どんなにわかっても必ずわからないところが残るということです。これはどうも人間の認識の根本にあることのようで、わからないことがいっぱいあって、だんだんわかって人間の知識がふえていけばわからないところが減るかというと、そうではないらしい。むしろわからないことがふえていくとも言えるわけです。非常に単純に言って、初めわかるところが小さな円であるとすると、あとはみんなわからないんだけれども、わからないという意識は円の周辺だけです。しかしわかる円が大きくなると、円周も大きくなりますからわからない部分も大きくなってしまう。ともかくわかればわかるほどわからないところもふえていくということができます。おそらくすぐれた研究者はすべて同じような思いを持つのではないでしょうか。」

*「最後に三つほどお話をします。

 第一は、診断と分類に関することです。」

「神経症群の人は「わかってほしい」という気持ちを持って医者のところへ接してくる人たちである。こういうふうに理解するとわかりやすい。もっとも患者が何をわかってほしいかということは、本人自身もよくわからないんだけれども、まあ苦痛をわかってほしい、と考えてもいいでしょう。」

「それからパーソナリティ・ディスオーダー(人格障害)の人は、わかられたくないという気持ちをひそかに持っている。自分の弱点、自分のくせといってもいいけれども、そういうものが秘しておきたい、それが出ることを恐れている、こういうことのように思います。」

「それから躁うつ病の人は、わかられることを期待しないことが特徴的です。躁病でもうつ病でも典型的な場合には自分を説明しようとしないですね。しかし躁病の場合は目立つから問題はありませんが、うつ病の患者をときどき見落とすことがあるのは、彼らは自分の気持ちを進んで説明しようとしないからです。相手が自分の苦痛をわかるとは思わないわけです。」

「どうも分裂病の人は自分の心が自分の意志に反してわかられているという風に信じるらしい。」

「図1の真ん中に書いた輪は、ただ「わかっている」と記されていますが、これが曲者なんです。なぜかというと、さっき言ったように、本当にわかるためには「わからない」というところを一辺くぐらないと「わかった」ことにはならない。「わからない」ところから区別されて「わかる」というのが出てくるんです。ところが非常にしばしば、漠然と、「ともかくわかっている」、「絶対そうなんだ。何といったってそうなんだ」というわかり方をする場合があります。————いうなれば妄想的です。そしてそういうわかり方をする人たちを従来の言葉でパラノイア(paranoia)と呼んでもいいでしょう。なお図の中でそれぞれの輪が重なっていますが、これは精神科の主な診断は、どうも疾患単位の診断じゃなくて、類型診断だから重なるんです。そこから当然、最近しばしば論じられる境界例というものが出てくることがおわかりでしょう。」

「精神科的な問題を持っている人はすべてパッシヴ(受身的)であるということができます。自分から「わからない」と考えたり、そのために「わかろう」とするというところがないんです。そこでわれわれ医者ないし精神衛生の専門家として患者に働きかける際に一番大事なことは、彼らの心に自分から「わかろう」とする気持ちが呼び醒まされるように指導することです。しかしそのためには「わからない」というところがまずわからないと困る。精神療法の勘所というのは結局そこなんだろう、こういうふうに私は考えています。」

*「次に、いまだに「わかる」ということだけでは非常に危険であると言いましたが、このことについてオイゲン・ブロイラー(E.Bleuler)という有名な精神科の医者の言葉を紹介したいと思います。(・・・)この人が晩年に“Das autistischundisziplinierter Denken”と題した本を書いています。(・・・)日本語でいえば「自閉的生半可な考え」、半可通の考えですね。彼はこの本で何を言おうとしたかというと、分裂病を論じているんじゃないんです。普通の人間がいかに生半可なわかり方をして平然としているか、医者も御多分にもれないということを論じたわけです。これは非常に重要なことです。人間は馴染んだものに執着して、馴染まないものを否定する傾向があるんですね。これは初めから「馴染む」と「馴染まない」で始まるからそうなんですけれども、その場合「馴染まない」ものに対して「わかろう」とする姿勢をなくしてしまう。妄想に発展する場合がそうでしょうし、人間の集団思考というものが大体そうなんですね。

 日本人はよく集団思考的だといわれますが、もちろん集団が悪いわけではない。大体集団がないと人間は生きていけないし、われわれが診る患者さんは大体集団生活に失敗している人たちです。それならば集団さえうまくいけばいいかというと、そうではない。集団生活の危険は集団思考に陥ることです。集団の中だけが正しくて、外はみんな悪くなってしまう。これはわれわれが常に心しなければならないことです。(・・・)

 日本の集団は同心円的な集団になるか、寄り合い世帯になるか、どっちかですね。いろいろ集団があっても、同心円的に重なるか、あるいは寄り合っているだけで、集団同士がクロスしない。東京大学のようなところはうっかりすると寄り合い所帯になる。集団がひしめき合うだけのことです。集団がクロスするような機構ができないと社会全体のバランスがとれないのです。たしかに精神衛生のために集団は必要だけれども、しかし、集団の最大の罪悪は戦争ですからね。戦争までいかない集団憎悪は私たちの周囲にもいくらでもあります。ですからどこかで集団を超越できるのでなければならない。少なくとも患者を診るためにもそのことが必要でしょう。孤独を経験し、それに堪えることをしない人間は精神科の医者として、あるいは精神衛生をやる者としては不適格ではないか、私はこう思うくらいです。」

*「最後にもう一つ言います。これは、われわれの仕事というのはプロフェッショナルだということです。医者は人を裸にできる。医者は人に針をさしたり、人の肌にメスを振るうこともできる。医者は人に対して、普通は聞いちゃいけないことも聞くことができる。医者でない精神衛生の専門家になった場合も同じです。なぜか————それはプロフェッションだからです。プロフェッションとして相手の利益のためにやることが社会によって承認されているからです。だから皆さん、そのうちに医者になるでしょうけれども、必ず自分のやることがプロフェッションであるということを肝に銘じてほしい。

 私自身、大学時代、一つ残念なことがありました。それはだれ一人として〝よい医者になれ〟といってくれた教授がいなかったことです。だから私はきょうあえて言いたいんです。皆さん、いい医者になりなさい。それは最も大事なことだと思います。」

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