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佐々木 雄大『極限の思想 バタイユ/エコノミーと贈与』

☆mediopos-2565  2021.11.24

現代では「エコノミー」といえば
経済を意味するものとして捉えられているが
それは近代以降のことである

「エコノミー」の起源は
古代ギリシアの「オイコノミア」にまで溯れ
家を富ませるための家政の技術のことだったが

ストア派の哲学者は
宇宙を秩序づける根源的な働きとしてとらえるようになり
さらにキリスト教神学へと移入され
スコラ哲学のトマス・アクィナスはそれを
神による世界統治の様態としてとらえるようになる

やがて一八世紀になると
「重農主義」に関連させた有機的な秩序を意味するようになり
農業の分野で考究されるべき「政治のエコノミー」
そして自然界全体に働く「自然のエコノミー」の概念が生まれ
そこから「経済学」としての「エコノミー」と
「エコロジー」が派生してくることになる

バタイユは「エコノミー」を
経済を含む生産の観点からの
「限定エコノミー」と
非生産的な余剰という観点からの
「一般エコノミー」としてとらえ

「贈与」に関連した観点から
人間の全体生を考察することで
生産から消費へ
有用性から栄光へ
〈俗なるもの〉から〈聖なるもの〉へと向かう

「エコノミーの範型は目的への秩序づけ」であり
その目的を遂行するための手段としての有用性において
他者に関係づけられることで働くが
それは生産的エコノミーであって〈可能なもの〉の圏域にある
しかしバタイユのいう「至高者」における生は
〈不可能なもの〉の圏域にあり
自らの所有を放棄して見返りなく贈与する「消尽」へと向かう

そこでは「与える者は〈誰でもない者〉であり、
与えられる者は〈誰でもない他者〉であり、
与えられるものは〈何でもないもの〉」となる

純粋に見返りのない贈与というのは
与える者も与えられる者もなくただ与えることに他ならない

私たちが何かを「与える」というとき
そのことで具体的な「返礼」を求める

それは商品などの場合は交換や売買であり
具体的な「物」でない場合にも
与えられたものに見合ったものを返すことで
その平衡を保とうとする
一方的に与えられるだけでは平衡が保てないからだ

けれどもそれを宇宙的な秩序としてとらえるとき
与えることと返礼は
異なった次元のものどうしの秩序においても
平衡をとる必要がでてくる

たとえば宗教的な供犠では
地上だけの関係性だけではなく
地上と地上を越えた世界との関係性が問題となる
神的なものとの間の関係である

おそらく神々の領域においても
霊的エコノミーや贈与は成立していて
地上的な意味での返礼ではなく
別の意味での返礼が求められることになる

「見返りのない贈与」というのも
霊性における次元において平衡が求められている

その意味でいえば宇宙のエコノミーの原理は
「与えることで与えられる」ということであって
直接的にせよ間接的にせよ
次元間の見えないやりとりにせよ
みずからがみずからに求める
姿を変えた平衡作用として
とらえることもできるかもしれない

主体を超えた主体の関係性においては
「〈誰でもない者〉が〈何でもないもの〉を
〈誰でもない他者〉に与える」
ということにほかならないのである

■佐々木 雄大『極限の思想/バタイユ エコノミーと贈与』
  (講談社選書メチエ 講談社 2021/10)

「バタイユは人間の活動を生産の観点からのみ考察する思考の枠組みを「限定エコノミー」(économie restreinte)と呼び、いわゆる「経済」もこれに含まれる。これに対して、人間の活動から不可避的に生じる余剰という観点から、その非生産的な営為ををも考慮に入れる学問が「一般エコノミー」(économie générale)である。限定エコノミーの観点からすれば、人間は自己保存の欲求に従って、自己の共同体の生を維持・拡大するために、富やエネルギーを生産・消費・交換・分配する存在である。そこでは行為の一切は有用性という尺度の下で測られ、消費もまた結果的に生産へと寄与する生産的消費に過ぎない。しかし、バタイユによれば、人間は自己の損失をも欲望する存在である。それはときに自らの生命や財産を非生産的に浪費し、いかなる計算も見返りもなしに贈与する。そこでは人間は有用性の原理に従属することのない至高な存在であって、栄光だけが唯一の尺度となる。このような消尽をも含めた人間の生産性を考察するのが、バタイユのいう一般エコノミーなのである。」

「一般エコノミーの観点からすれば、至高性とは消尽することであり、至高者は非−知の主体であり、至高者のコミュニケーションは企図されえない。そてゆえ、至高な生は知と所有の主体による生産的なエコノミーの外部に存する。この生産的エコノミーが〈可能なもの〉の圏域なのだから、至高の生はその外部、つまり〈不可能なもの〉である。もし何らかの意味で至高性があるとすれば、それは「不可能であるにもかかわらずそこにある」ことになるだろう。この意味で、至高性とはひとつの奇跡なのである。
 このように至高性が〈不可能なもの〉だとすれば、最後にもう一つ重要な問いの答えがここから導出される。至高者のコミュニケーションは瞬間・好運・純粋記憶という脱臼した時間性において生起する。そこで至高者となった者は非−知へと変容し、自らの所有を放棄して消尽する。この消尽を通じて、至高者は自らを与える。そこで与える者は〈誰でもない者〉であり、与えられる者は〈誰でもない他者〉であり、与えられるものは〈何でもないもの〉である。それはまさしく「〈誰でもない者〉が〈何でもないもの〉を〈誰でもない他者〉に与える」という贈与の定式を満たしている。実を言えば、〈不可能なもの〉としての贈与とは至高者のコミュニケーションだったのである。」

「至高者のコミュニケーションとは〈不可能なもの〉としての贈与であった。だとすれば、その運動に相応しい表現もまた贈与であることになる。バタイユが自らの書くものを「最も狂った、最もよく聾者に宛てられた呼びかけ」だと形容するとき、それが贈与を指していることは明らかだろう。聾者に宛てられた呼びかけとは返答のあてのない呼びかけであり、応答の可能性を予め考慮されることのない発話である。それは返礼のない一方的な贈与であり、生産へと決して回収されない消尽なのである。
 とはいえ、沈黙を含む表現と再生産的な表現を客観的な基準の下で明確に判別することなどできない。もし両者が区別されるならば、それらは互いに生産的な領域へと繰り込まれてしまうだろう。ポエジーはたしかに言表不可能なものを表現しようとする試みだと言えるかもしれない。しかし、表現可能なものを限界まで踏破していなければ、それは単なる慰めへと堕してしまう。そのとき、ポエジーはもうひとつ別の言説として通常の言説に対立するだけであって、一方の手が与えるものを他方の手が引き止めるにすぎない。また逆に、論証的言説だからといって、沈黙を含みえないわけでもない。なぜなら、いかなる表現であろうと、それが〈可能なもの〉であるかぎり、その内に既に〈不可能なもの〉を抱え込んでしまっているからである。それゆえ、何らかのメルクマールがあるとすれば、それは結局、コミュニケーションの運動に呼応しているか否かということでしかない。すなわち、ある表現が別の表現を促し、その表現がまた別の表現を強いたという事実によって、事後的にそれが贈与だったことになるのである。
 なぜバタイユは書いたのか。それは書かざるをえなかったからである。そして、バタイユの書いたものを読んだ者が書くことでと促されるとき、あるいは、書かざるをえなくなるとき、バタイユの表現が始めて贈与なるのである。」

(「補論 エコノミー概念小史」より)

「エコノミーとは何か。今日「エコノミー」(economy,économie)」という語は「経済」という意味で理解される。それは時間や貨幣、エネルギーといった稀少材の節約や効率的な使用を、あるいは利益と損失を計算する合理的判断を、そしてまた商品の生産・分配・交換・消費を文肢とする諸活動の相対を意味する。とはいえ、そうした経済の捉え方はあくまでも現代の経済体制に即した理解にすぎない。例えば、経済史家のカール・ポランニーが言うように、歴史的に現れた様々な経済システムを互酬性・再分配・家政・交換という四つの原理へと分類し、市場経済が支配的になるまでの間、これらのシステムは社会的諸関係の内に「埋め込まれていた」(enbedded)と考えるこよもできる。」

「エコノミーの営為そのものはおそらく人類の歴史と同じほど古く、その始原を跡づけることはできない。しかしながら、「エコノミー」という語は古代ギリシアの「オイコノミア」にまで溯ることができる。」
「オイコノミアを主題とする。現存する最古の著作はソクラテスの弟子クセノフォンによる『家政論』である。」

「オイコノミアを再び宇宙規模にまで拡大したのは、ストア派の哲学者たちだった。ストア派にとって、宇宙とは単一の神的理性によって合法則的に秩序づけられた自然の総体である。この宇宙を秩序づける根源的な働きがオイコノミアと呼ばれる。」

「神の宇宙統治としてのオイコノミアはキリスト教神学へと移入されると、その中心的教義に関わる重要な意味を担うようになる。(・・・)
 パウロが用いる「オイコノミア」という言葉には、二通りの解釈がありうる。この語を「職務」と理解するならば、パウロは神によって託された職務を預かっているということである。他方、これを「摂理」と取るならば、神による宇宙の管理のために、パウロが派遣されたことを意味する。いずれにせよ、パウロが自らの個人的な意志ではなく、神によって使命を託されて福音を告知しているという点では変わらない。」
「中世のキリスト教神学において、オイコノミアに関連する三つの概念を用いて神による世界統治の様態を説明したのが、スコラ哲学最大の神学者トマス・アクィナスである。(・・・)
 トマスにおける神の世界統治は秩序の計画・実行・逸脱という三つの様態として捉えられる。」

「一八世紀に初めて「エコノミスト」と呼ばれる一群の人々が登場した。それが「重農主義」(physiocratie)である。彼らにとって「エコノミー」が重要な概念だったことは、その代表的人物ケネーに捧げられた弔辞によく表れている。(・・・)ここで「エコノミー」とは、様々な学問領域における有機的な秩序を意味している。そして、とりわけ農業の分野で考究されるべき「政治のエコノミー」(économie politique)がつまり、「経済」なのである。」

「動物のエコノミーが一箇の生物体内に限定された秩序だとすれば、これを自然界全体にまで拡張したのが「自然のエコノミー」である。二名法で知られる植物学者輪廻は『自然のエコノミー』において、神学と生物学の交差する地点にエコノミーを見出す。」
「エコロジーとエコシステムは自然のエコノミーから派生した概念である。」

「エコロジーと同様に、初期近代のエコノミー概念から分岐して、現代の思想や社会に多大な影響を与えている支流がもう一つある。それが「経済学」(political economy)である。」

「エコノミーの範型は目的への秩序づけである。そこには永遠的な側面と歴史的な側面、摂理と運営、目的のための手段の配置と手段を用いた目的の遂行が含まれる。こうした目的−手段関連の下での行為が指示するものとはつまり、有用性である。有用性とは(・・・)目的のための手段である。それはより一般的に言い換えれば、他のものへと関係づけられることを意味する。それ自身を目的とし、他者へと従属することのない至高者は決して有用となることがない。仮に神がそれだけで存在し、世界という他者がいなければ、オイコノミアは必要とされなかっただろう。したがって、エコノミーとは究極的に他者への従属的関係を意味するのである。」

【目次より】
序 章 バタイユのエコノミー論
第一章 エコノミー論の生成
1.一九四五年九月二九日付ガリマール宛書簡 2.松毬の眼 3.消費の概念
第二章 エコノミー論の軌跡
1.異質学 2.聖社会学 3.有用なものの限界
第三章 エコノミー論の探究
1.知/非 知 2.可能なもの/不可能なもの 3.限定エコノミー/一般エコノミー
第四章 エコノミー論の展開
1.贈与 2.エロティシズム 3.〈聖なるもの〉 4.至高性
終 章 バタイユの贈与論
補 論 エコノミー概念小史

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