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鳥原 学『教養としての写真全史』

☆mediopos-2547  2021.11.6

文字が発明され
それがはじめは
特権的な地位をもっていたのが
文字を記し複製する技術とともに
いわば大衆化してきたように

写真が発明され
(十九世紀の前半頃)
それもはじめは特権的なものだったが
写真を写す技術が高度化し
ある程度大衆化したのに加え
コンピューターの発明と大衆化にともなった
デジタルカメラとスマートフォン
そしてSNSの普及によって
「総写真家時代とも呼ばれるような状況が訪れている」

言葉や文字を使いこなすよりも
写真を撮ることはずいぶんと敷居が低い
しかもカンタンに撮った写真を
SNSというプラットフォームを使って自己表現したり
コミュニケーションしたりすることもできる
しかも撮った写真の加工も手軽にできる

そういう意味では
一九三五年に安井仲治が
「百年後の写真」を予想せよといわれて
「写真家はなくなる」と応えたのは
すでに現実のものとなっている
もちろんそこでいう「写真家」とは
たんに写真を撮って見せる人というだけの意味だろう
技術がそれを加速度的に実現させてきた

しかし文字がそうであるように写真にも
それを書き・写し・見て・読みとるために
必要な基本的な「リテラシー」は欠くことができないが
それを身につけるのは簡単なことではない

しかもそれはつねに創造的な観方をもちながら
深めいく仕方でしか可能とはならない
そしてそこにはつねに問いが欠かせないのだ

だれでもが写真を撮って見せる時代
だれでもが文字を使って伝える時代には
「だれでも」の多くはリテラシーを欠き
技術に使われる存在となっているにもかかわらず
じぶんがそうだという自覚をもてないでいる

写すということ
文字にするということは
そこでは問いではなく
与えられた単純な答えになってしまっているのだ

その意味で本書は
写すということ
写されたものを見るということを
問い直すための
基本的な「ビジュアル・リテラシー」を
身につけるための良き教科書ともなっている

もちろん必要なのは教科書の先であり
リテラシーの先には新たな問いがある
教科書はあくまでも禅僧が月を指す指なのだ
指だけ見ていても月を観ることにはならない
ましてや道具に使われる自らを
解放することさえむずかしくなる

■鳥原 学『教養としての写真全史』
 (筑摩書房 筑摩選書 2021/10)

「世界中の人が、日々、写真を撮っている。その量はじつに膨大で、二〇一八年に撮影された写真の総枚数はおよそ一・六兆枚にもなるらしい。二〇一七年における世界人口がおよそ七五・三億人だから、単純計算では一人当たり二百十二枚になる。その多くがスマートフォンで撮られているということは想像に難くない。
 その手続きを実現したのは「コンピューテーショナル・フォトグラフィ(computational photography)」と総称される、画像処理技術の進化によるものである。撮影の失敗が解消され、さまざまなアプリによって加工と修正も手軽にできる。しかも無量のプラットフォームであるソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)での共有に最適化されており、費用がかからない。かつてプロフェッショナルな写真家の特権だった技術が標準化された結果、総写真家時代とも呼ばれるような状況が訪れている。」

「興味深いことに、写真の賢者は昔からこうなることを知っていたようだ。日本の戦間期を代表する写真芸術家の安井仲治は、一九三五年に「百年後の写真」を予想せよといわれて、「写真家はなくなる」と応えた。」
「安井の言葉でなお興味深いのは、写真の「普遍化」を、芸術としての発展とは区別していたことだ。」
「芸術としての写真も横で拡がってきたが、それは、社会的用途の広がりと重なっている。新しい発想の写真表現は、ありふれた記念写真、広告、報道、記録から生まれてくるのだ。その中には、これらの紋切り型のスタイルを忠実に模倣する作品も少なくない。「自己言及的」、「シミュラークル」などと呼ばれるこの傾向は、写真が撮られる量の増大化に比例して強まっている。写真が溢れる社会に育った人は、自分の心理に影響を与える映像環境に順応しつつ、それを相対化するためにも写真を撮るのである。
 そのような環境はまた、写真に対する二つの読み方を使い分けるようにと促す。ひとつは、画像を現実の率直な代替物として読むことであり、もうひとつはある種の演出によって作られた象徴的なイメージとして解釈することだ。いや、どのような写真も再現と創作という正反対の性質を併せ持っていることをすでに私たちは知っていて、使い分けているというべきか。一般的にこうした解釈力を「リテラシー(literacy)」というが、問題はいつもそれを発揮できるわけではないことだ。
 本書の意図は、写真の歴史を辿ることで、現在に至るその影響を考えるための糸口を提示することにある。そのために写真に関する技術の発展と社会からの要請、そこから展開されたコミュニケーションと表現の変容を簡潔に記した。それも一貫した通史ではなく、それぞれの社会的な用途に分けてそれぞれの展開を辿る。
 大きく分ければ、前半は写真によるビジュアル・コミュニケーションとして、肖像、スナップショット、報道とドキュメント、広告について述べる。後半は芸術としての展開を軸に、ファッション、ヌード、ネイチャー、建築などのカテゴリーを見ていきたい。また、同じイメージや写真家が社会的文脈を横断して、影響を与えたという事実も知ることができるだろう。時代が写真を作り、写真が時代を作ってきたのである。」

「現在では誰もが気軽に写真や動画を使いこなし、コミュニケーションや表現のツールとしている。しかし、その成り立ちや社会的な影響力を考えることについては、まださほど自覚的に取り組まれているわけではない。とくに画像認識やディープフェイクといった技術が汎用化されるなかで、写真を読みとる能力、つまりビジュアル・リテラシーの向上は喫緊の課題ではないだろうか。
 今日、多くの中学校や高校などの美術教育に写真が取り入れられていると聞く。少年期において作品制作や鑑賞を通じ、写真表現の価値に触れる機会ができたことは素直に喜ばしい。ただし、もう一歩先に進んで、写真が社会に与えてきた影響の大きさも共有されて欲しいとも思うのである。例えば本書で触れた、ポートレイトと個人のアイデンティティ形成、ファッション写真とライフスタイルの変容、人間存在の映し鏡としての自然写真などだ。これらを考えていくと、現在の私たちの歴史的な立ち位置が見えてくる。写真や映像が築いてきた文化は極めて分厚く、文字や言葉とは別の大系をすでに持っている。」

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