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石田光規『「友だち」から自由になる』

☆mediopos2861  2022.9.17

かつてプラトンは
「恋い焦がれる」ほど友を欲したが
結局のところ
「友とは何であるか
見つけることができなかった」という

本書の最後で著者も記しているように
「友だちがいることのほうが奇蹟的なのだ」

それなのに現代では
「いちねんせいに なったら」
「ともだちひゃくにん できるかな」
(まどみちお/一九六六年)
だとか

「みんなともだち ずっとずっとともだち
がっこうにいっても ずっとともだち」
「おとなになっても ずっとずっとともだち」
(中川ひろたか/二〇〇四年)
だとかいうように

物心ついたころから
「ともだち」をたくさんつくらなければならないよう
刷り込まれてしまっているところがある

そのひとつの象徴が
フェイスブックの「友達」でもあるが
「友だち」はますます軽くなり
軽いにもかかわらず
常につながっていなければならないように
私たちをしばりつけるような存在にさえなっている

現代における「友だち」は
奇蹟的に得られる「結果としての友人」ではなく
「形から入る友人」となっているのである

しかもその「友だち」は
「コスパの原理で判断」されたりもするような
つながりでもあったりする

そういえば浦沢直樹の漫画『20世紀少年』にも
「ともだち」という組織が登場するが
それはまさに「友だち」そのものが
シャドー(影)になっているのだともいえる

「友だち」を過剰に求めるというのは
「孤独」を過剰に恐れるということでもあるだろう
「孤独」「ひとり」はむしろ「孤立」の対極にあるのだが
「孤独」「ひとり」であることができないがゆえに
つながりの保証のような「友だち」を
求め続けてやまない病的な状態でもあるだろう

「友だち」を得ることは奇蹟である
生涯にひとりでも見つけることができれば
それだけでその生は奇蹟的な生ともなり得る

■石田 光規『「友だち」から自由になる』
 (光文社新書 光文社 2022/9)

(「はじめに」より)

「「友だち」を主題とした本書は、友だちづくりの指南書ではない。むしろ、友だちをつくることを過剰に求める社会に、一石を投じるものだ。」

(「第一章 変わりゆく「友だち」より)

「友人・友だち・友情を語る言説をたどると、かなり古い時代までさかのぼることができる。今から二五〇〇年前、古代ギリシア哲学の時代には、友情をめぐる議論がすでに存在していた。そこでの言説を繙いても、友人・友だち・友情は「素晴らしいもの」として描写されている。」

「その一方で、現代と異なる傾向を見出すこともできる、たとえば、友人・友情の稀少性は今と較べるとかなり異なる。
 ギリシアの哲学者たちは、友人、すなわち、友情で結ばれたつながりを簡単には得られないものと認識していた。というのも、彼らは友人関係を、理想の人間関係が具現化されたものと見なしていたからだ。
 彼らは、友人関係を人が結ぶつながりの理想型と確定した後に、似たようなつながりのあり方を提示し、真の友情や真の友人関係とは何かを考察する。」

「友人をあるべき人編関係の理想像と見なしていた時代には、友人はつながりのあり方の到達目標ととらえられていた。ゆえに誰かと友人関係になるには長い時間がかかった。アリストテレスも、「友愛が育つには、さらに、時間と親密さが必要」と述べている。つまり、友人とは、長年つきあいを育んでやっと得られる可能性のある「奇蹟」の産物だったのである。」

「現代社会を生きる私たちの友人関係は、あらかじめ友人・友だちという枠を当てはめ、そこに合うように関係の中を調整することで成り立っている。このようなつながりは、「結果としての友人」と正反対の「形から入る友人」とでも言うべきものである。

(「第二章 友だちには本音を言えない」より)

「外に目を向けると、誰かと「友だち」にならなくても、人とつながる機会はいたるところにあふれている。そもそも、「かつて」であっても「友だち」がいた人はそれほど多くなかった。
 「友だち」がいなくても、けっしてさびしくはない。誰かと「友だち」になることを求められる社会では、そのように基本的な事実すら忘れてしまうのである。」

(「第三章 会えなくてもつながる友だち」より)

「友人関係が「形かた入る」ものに転じたころ、人間関係にはもうひとつの大きな変化が生じていた。私たちの人間関係は。一九九〇年代後半以降、目の前にいない人とのやり取りが顕著に増えたのである。」

「人と人を共生的に結びつける社会の拘束力が弱まり、つながりに感情の入る余地が増えてゆく。このような状況は、人びとのつながり方を変えると同時に、友人への注目を高めていった、
 しかしながら、友人の概念じだいは定義しがたく、曖昧である。また、友人関係を構成するどちらかが、相手を「友だちではない」と感じた瞬間から、つながりは存続の危機にさらされる。
 このような危機感を埋めてくれたのが、目の前にいない人をつなぎ止める役割を果たす情報通信ツールであった。
 情報通信ツールを使うようになったことで、曖昧であった交遊の記録が残され、私たちの人間関係にわかりやすい境界線が引かれるようになった。私たちは、情報通信ツールの残す「コミュニケーションの記録」を参照しつつ、友人とそうでない人の境界線を意識して行動するようになったのである。
 友人の境界線の内側に入るために肌身離さず情報通信端末をもち、端末の確認を怠らないようにする。常時接続の環境は、目の前にいない人との交流に、私たちを絶えずしばりつけているのである。」

「しかしながら、私たちの身体のさまざまな機能、文化・社会のさまざまなシステムは、おおよそ対面での交流をもとに築かれてきた。重要なのは、ケータイ、スマホの急速すぎる普及によって、その影響力の検証がロクになされないまま、つながりのあり方が変えられてしまったことだ。技術の進歩も重要だが、技術がもたらす帰結の検証も、それと同じくらい重要である。」

(「第四章 コスパで決める友だちづきあい」より)

「友人が「形から入る」ものに転じると、友人の資源としての側面が強調されてゆく。まさに、自らにとって役に立つかどうかが重要になるのである。」

「つきあう相手をコスパの原理で判断する社会では、自らもコストの側に回るリスクをつねに負わされている。自らがコストに回らないよう、必死になってパフォーマンスを向上させながら友だちづきあいをする。このような状況はけっして心地よくはあるまい。
 パフォーマンスを求められ続けることに疲れを感じた人は、結果として、パフォーマンスと関わりなく自己を見てくれる場、認めてくれる場を欲するようになる。昨今の居場所や生きづらさの議論の流行の背景には、このような社会状況が影響しているのである。」

(「第五章 「形から入る友人」関係を超えて」より)

「重要なポイントは、関係の流動化とともに、友人・友だち概念が蔓延し、私たちが必要以上に「友人・友だち」をつくるように意識させられてしまったこと。その一方で、「かつて」の人びとのように、安定的な関係を下地に、友情を育むほどの時間に恵まれていないことにある。
 以上の議論をふまえて私が提案したいのは、いったん、友人・友だち・友情といった概念から距離を置くことである。」

「友人・友だちというつながりは「むかし」も「いま」もできにくく、失われやすい。だからこそ、友だちがいないからといって過剰に卑屈になる必要はない。友だちがいることのほうが奇蹟的なのだから。」

◎目次

はじめに
第一章 変わりゆく「友だち」
第二章 友だちには本音を言えない
第三章 会えなくてもつながる友だち
第四章 コスパで決める友だちづきあい
第五章 「形から入る友人」関係を超えて
あとがき

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