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松浦寿輝「遊歩遊心 連載第五十回「カトリックと母性」」(文學界)/最相葉月『中井久夫 人と仕事』/鷲巣力『加藤周一を読む 「理」の人にして「情」の人』

☆mediopos3263  2023.10.24

松浦寿輝によれば
加藤周一と中井久夫には三つの共通点があるという

まず「二〇世紀日本を代表する
比類のない知性」だったということ
そして「出発点はともに医学」だったということ

しかし松浦氏が今もっとも興味があるのは
「死を意識するに至って
ともにカトリックに入信した」ということである

中井久夫については近刊の
最相葉月『中井久夫 人と仕事』があり
(著書『セラピスト』がきっかけになったとのこと)
そこにも中井久夫の入信のことがとりあげられているが

最相葉月にはちょうど
日本のキリスト者についての
『証し/日本のキリスト者』というルポがある
(mediopos2989(2023.1.23)でとりあげている)

日本のキリスト者は
人口比でいえば日本では1%ほどしかいない
それにもかかわらず
加藤周一や中井久夫だけではなく
優れた思想家や医者などをはじめ
キリスト者とくにカトリックの占める割合は
ずいぶんと多いようだ
(医療系の魂にはキリスト教的な
白色光線の系統が多いというのもあるだろう)

その理由としては
家族がキリスト教を信仰しているといった
家庭環境の影響が大きいようだが
それにあわせて重要なのは

キリスト教が「個」として
「救い」をもとめる自我の宗教である
というところもあるのではないかと思われる

加藤周一や中井久夫にとっても
その両者がカトリックへの入信に
それなりの動機を与えているように思える

さらにいえば中井久夫が
なぜ洗礼を受けるのかという質問に
「驕りがあるから」と答えたように
「救い」であるということが同時に
「自我」への深い戒めともなるよう
人格的でもある超越的なものの視線を求めた
ということでもあるのではないだろうか

ちなみに加藤周一の洗礼名は「ルカ」であり
中井久夫の洗礼名は「パウロ」である

たしかに
加藤周一は
「「理」の人にして「情」の人」だったことから
「ルカ」がふさわしいし
中井久夫のあの活動をみると
「パウロ」がふさわしい

そして両者とも松浦寿輝の示唆するように
カトリックだった「「母」の存在」が
深く影響しているようだ

カトリックについては
実感できないところがあるけれど
魂の底で支えるそうした「母」的なものの力があって
カトリックを信仰する「個」的な「魂」は知的な側面を
積極的に働かせることができるのかもしれない

個人的にいえば
「母」なるものも
また「父」なるものも
とくに魂を支えてくれるというのとはちがって
べつのところでなにがしかの「支え」を
求めているとはいえるようだ

それは信仰的な宗教ではなく
「なにごとの おはしますかは 知らねども
 かたじけなさに 涙こぼるる」のように
超越的な不思議な働きを感受しながら
神秘学的な世界観のもとで生きている
とでもいえるだろうか

■松浦寿輝「遊歩遊心 連載第五十回「カトリックと母性」」
 (文學界 2023年11月号)
■最相葉月『中井久夫 人と仕事』(みすず書房 2023/8)
■鷲巣力『増補改訂 加藤周一を読む 「理」の人にして「情」の人』
 (平凡社ライブラリー 平凡社 2023/9)
■最相葉月『証し/日本のキリスト者』(角川書店 2023/1)

(松浦寿輝「遊歩遊心 連載第五十回「カトリックと母性」」より)

「加藤周一と中井久夫には三つの共通点がある。まず、これは今さら言うまでもなかろうが、この二人こそ二〇世紀日本を代表する比類のない知性だったという点がある。「非専門家の専門家」を自称した加藤は、文学・芸術・政治に相渉多彩で鋭利な批評活動を驚異的なフットワークで実践した。他方、精神医学者としてのアイデンティティを手放さなかった中井は、臨床の現場に就きつつ、心と世界と歴史について広く深く豊かな思考を展開した。二人とも大変な名文家だったが、これは博大な学識、繊細な感性、強靱な思弁力を備えた知性なら必ずそうなるという当然の帰結でしかない。

 第二に、文学や人文科学の領域で大きな業績を残したこの二人の、出発点はともに医学だったという点がある。加藤は血液学、中井はウィルス学。医学者としての出自は、後半の文学的また人文的な仕事とどこまで必然的な絆で結ばれているのか。この問題を加藤は晩年に温めていた『鴎外・茂吉・杢太郎』で徹底的に考究するつもりだったはずだが、この企画は残念ながらエスキスに終わった。

 しかし、わたしが今もっとも興味があるのは、第三の共通点、すなわちこの二人が、死を意識するに至ってともにカトリックに入信したという事実なのだ。二〇〇八年五月に癌告知を受けた加藤は、同年八月上野教会で洗礼を受け、十二月に逝去する(享年八十九)。老人ホームに入居し車椅子で暮らすようになっていた中井は、二〇一六年六月、被昇天の聖母カトリック垂水教会で洗礼を受け、二〇二二年八月に逝去する(享年八十八)。

 加藤の入信については、鷲巣力『加藤周一を読む』に情理を尽くした証言と考察がある。受洗の数日前、加藤は鷲巣に電話で、自分は無宗教者だが妥協主義、懐疑主義、相対主義でもある、母も妹もカトリックであり、自分が無宗教のまま死ねば残された妹たちが葬儀に際して困るだろう、云々と語ったという。鷲巣はさらに、加藤が若い頃からカトリシズムの論理整合性と超越的思考に魅了されていたことにも注意を促している。

 中井の洗礼式に立ち会った最相葉月は、近著『中井久夫 人と仕事』に、なぜ洗礼を受けるのかという旧友からの質問に中井が返した答え————「驕りがあるから」を書き留めている。中井の著作に親しんだ者ならただちに腑に落ちる自省の言だろう。謙虚と真率、そしてそこかえあ生まれる品位は、中井の(そして加藤の)名文の特質そのものだった。(・・・)臨床医だった中井は患者との間の力関係に敏感たらざるをえず、ヒュブリス(傲慢)の罪に傾きかねない自己を修正絶えず警戒しつづけ、それが最終的に入信の決断へと行き着いたのではないか。

 二人の入信の動機はそれぞれ異なるが、わたしはここでもまた、二人を繋ぐある共通項をクローズアップしてみたいという思いに駆られる。それは「母」の存在である。

 カトリック信者だった母親を加藤は深く愛慕しており、その死とともに「無条件の信頼と愛情のあり得た世界から、そういうものの二度とあり得ないだろうもう一つの世界へ自分が移ったことをはっきりと感じた」と書いている(『続 羊の歌』)。中井の母親もミッションスクールを出た人で、毎晩枕元で聖書を読んでいたという。「自我成立以前」に自分は「母の聖書からの言葉を受けているはず」で、「それは本以前のところで私を動かしているのではないかと折に触れて思う」と中井は書いている(「私の人生の中の本」)・

 生の時間の突端に接近するとき、記憶の底から亡き母の声の響きが甦ってくる。そうした現象自体、カトリックの教義の本質にどこか触れている部分があるのかどうか。」

(最相葉月『中井久夫 人と仕事』〜「第11章グッド・ドクター」より)

「二〇一六年五月二十九日の日曜日、神戸市垂水区にある被昇天の聖母カトリック垂水教会で中井の洗礼式が行われた。
 神父は「父と子と聖霊の御名によってあなたに洗礼を授けます」と唱えながら、中井の額に三度、聖水を注いだ。聖歌隊の声が響く中、車椅子に乗った中井はそっと両手を合わせ、頭を垂れていた。
 この日は二人の娘と秘書のほか、家族ぐるみで付き合いのある大学時代からの親友、故・村澤貞夫の妻、村澤喜代子とその長男で龍谷大学社会学部教授の村澤真保呂も同席していた。
 受洗希望者のための入門講座に付き添っていた喜代子によれば、なぜ洗礼を受けるのかという質問に、中井は一言、「驕りがあるから」と答えたという。
 少年の頃、ヒュブリス(傲慢)がカトリックで大罪とされると聞き、「私も「ヒュブリス」とは無縁でありうるはずがない」と自覚してきた中井にとり、神の前に立つことは必然であったのだろうか。」

「なぜカトリックなのかという問いに対しては、「宗教のほうがぼくに声をかけてほしかったのかも」と謎めいた答えを筆者に返している。カトリックである理由はとくにない。プロテスタントでもよかった。ただ、カトリックには友人や恩師がいたと。
 加賀乙彦からは、「きみは呼ばれてるんじゃないか」といわれた。カトリックになれとは一切いわない。でも、自分を待っていたのではないかと中井には思えた。
 土居健郎に、「きみはカトリックだけど、それに気づいていないだけだ」といわれたこともあった。「あの人、暗示だけかけているんですね」。中井はそういって笑みを浮かべた。」

「垂水教会で記念撮影を終えて帰るバスの中、中井はみんなから質問攻めにあった。
(・・・)
「洗礼名のパウロはご自分で決めたんですか」
「そう」
「パウロはキリスト教最大の伝道者ですよね」
 すると、子どもの頃から息子のようにかわいがられてきた村澤真保呂がすかさずいった。
「先生も伝道の旅に出ないと。あ、いや、これまでもエクソシストみたいなことをしてきたから、あまり変わらないかなあ」
 中井は、こいつ何いってんだという表情で目を大きく見開くと、にやりと口角を上げた。車中が笑いに包まれた。」

(最相葉月『中井久夫 人と仕事』〜「ヒュブリスの罪と十字架————追悼・中井久夫」より)

「中井が精神科を選んだ理由の一つは、研修医時代に各科をまわり中で、唯一、回復して退院していく患者に会ったからだと語っていた。
 「西欧が————おそらくその傲慢(ヒュブリス)によって————acculturation(文化同化)と呼ぶものが、精神医療に及んだ結果」である精神医学の世界に足を踏み入れた一人の精神科医として、また、そうでなくとも感謝や尊敬の対象とされることの多い医業に身を置く者として、中井がまるで自らの十字架のようにヒュブリスを語っていたことに、改めて気づかされる。
 神谷美恵子の訃を知ったとき、中井は、「夭折した人を惜しむ気持」にきわめて近い感情を懐いたと先の追悼文で書いている。
 ヒュブリスが跋扈し、世界を分断する今、多くの後進が、中井の神谷に対するのとほとんど同じ気持ちで中井の不在を惜しみ、悼んでいるだろう。願わくば、その遺志がいつまでも現場の働きの中に受け継がれんことを————。」

(鷲巣力『増補改訂 加藤周一を読む』〜「第10章 加藤周一————または「理」の人にして「情」の人」より)

「二〇〇八(平成二〇)年の始め頃に加藤は隊長に多少の違和感を覚えたようである。五月に精密検査を受け「胃がん」であると診断された。」

「病状は刻一刻と悪化していた。一週間か一〇日ごとに見舞うと、加藤の病状はその前に比べて確実に悪くなっていった。矢島(翠)は「加藤周一が加藤周一でなくなっていく」と嘆いた。
 八月中旬に加藤は、矢島と、実妹本村久子およびふたりの甥に、カトリック入信の意思を別々に伝えた。矢島も本村久子も「驚いた」という。矢島は入信に反対であり、反対の意思を加藤に伝えた。久子は「兄から電話があり、自分はそう長くは生きられない。カトリックに入信したいので、神父に連絡を取ってほしい、といわれました。病状がそれほど悪いとは思っていませんでしたから驚きましたが、入信したいということばにもびっくりしました。本当かどうかを息子〔加藤にとっては甥〕ふたりに確認してもらいました」と語る。上野毛教会に入信の意思を伝え、八月一九日に加藤は受洗した。そして矢島の希望に沿って「ルカ」という洗礼名が与えられた。入信に反対であった矢島も、入信した以上は加藤に相応しい洗礼名を希望したのである。医者にして聖書の著者のひとりとされる「ルカ」は、いかにも加藤にふさわしい洗礼名である。
 入信の五日目、二〇〇八年八月一四日夜、加藤は私に電話を掛けてきて、おおよそ次のようなことを述べた。

   宇宙には果てがあり、その先がどうなっているかはだれにもわからない。神はいるかもしれないし、いないかもしれない。私は無宗教者であるが、妥協主義者でもあるし、懐疑主義者でもあり、相対主義者でもある。母はカトリックだったし、妹もカトリックである。葬儀は死んだ人のためのものではなく、生きている人のためのものである。〔私が無宗教では————引用者〕妹たちも困るだろうから、カトリックでいいと思う。私はもう「幽霊」なんです。でも化けて出たりはしませんよ。

 加藤は「死」を覚悟した。そしてカトリックに入信する意思とその理由を明らかにした、と私は受け止めた。受洗の意思を告げられたとき、私はそれほど意外な感じをもたなかった。驚きもしなかった。「ああ、やはりそうか」というのが率直な感想だった。そう考えた理由はいくつかある。
 加藤は若いころからカトリックに親近感と好奇心を懐いていた。(・・・)
 高校生のときには、カトリックを知りたいという知的好奇心を抱いた。それもあるいは母ヲリ子の影響かもしれない。」

「論理整合性と並んで加藤が惹かれるのは、「超越的思考」である。日本の思想に鎌倉仏教を除いて「超越的思考」がないことを繰り返し問題にする。」

「カトリックに論理整合性と超越的思考を見出したのだが、論理整合性と超越的思想を兼ね備えているのは、カトリックだけではない。同時に、論理整合性と超越的思想だけでは、カトリックに入信する、あるいは宗教に帰依する動機としてはやや乏しい。その不足を補う動機は何だったろうか。」

「あえて批判を恐れずに述べる。加藤の思考に沿えば、入信するのは必ずしもカトリックでなくてもよかったに違いない。論理整合性をもち、超越性を志向し、「ギャップを埋める」ものであれば、カトリックであろうと、浄土教であろうと、よかったのだ。複数の選択肢からカトリックを選んだ理由は、母も妹もカトリックであるという条件である。「妹も困るだろう」と妹のことを心配した結果だと思われる。
 近代日本の多くの知識人にとっては、「家」や「故郷」からいかに離脱するかが知識人として成長していく過程での大きな課題であった。ところが「家からの離脱」「故郷からの離脱」うぃ考えたことは加藤にはおそらく生涯ほとんどなかったに違いない。それは加藤が地方出身者ではなく、東京・山の手出身の(本郷に生まれ渋谷に育つ)、しかも知識階級の家庭に育ったということと深く関係しているだろう。」

「加藤はしばしば「「理」の人」といわれる。その通りである。透徹した知性に怜悧な論理が具わっている。類稀な「「理」の人」である。だが、もう一方では、垣花秀武や矢内原伊作や吉田秀和が述べるように、加藤はあふれるような「情」をもっていた。まさしく「「情」の人」でもあった。」

(最相葉月『証し/日本のキリスト者』より)

「「なぜ、あなたは神を信じるのか————。
 本書は、日本に暮らすキリスト教の信者にそのような問いを重ねながら、神と共に生きる彼らの半生について聞き書きしたものである。」

「「令和三年版の『宗教年鑑』(文化庁)によれば、日本のキリスト者は、一九一万五二九四人(二〇二〇年十二月三十一日現在)。(・・・)人口の約一・五パーセント。多少の増減はあるものの、近年は減少傾向にあり、マイノリティといってよい存在である。
 その一方で、日本には国内外の修道会や宣教団体、個人によって設立されたミッションスクールや医療・福祉施設が多く、洗礼は受けていないもののキリスト教の教えや文化にふれてきた人は数えきれないほど多い。信者でなくとも、結婚式をあげるためだけに教会に通い、聖書講座を受けた人もいるだろう。
 イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスや、復活を祝うイースターといった、本来はキリスト教の祝日も、レジャーやイベントなどの消費文化として社会に根付いている。
(・・・)
 だが、キリスト教に親しむことと、キリスト教を信じることのあいだには大きな隔たりがある。人口比でわずか一パーセント強のキリスト者がどのような人たちなのか。」

「人間はなぜ神と出会い、信じるようになったのか。有史以来続く、信仰の謎についても想いを馳せるきっかけとなれば幸いである。」

「新約聖書学者の田川建三によれば、福音書の中でもっとも早く書かれたマルコ福音書の現存最古で最重要とされる紀元四世紀の写本には、復活したイエスが自ら顕現したという記述はなく、それが現れるのは五世紀以降の写本であるという。
 そのことをもって、復活は嘘だ、創作だ、ファンタジーだとみなすのは簡単である。そうではなく、ではなぜ、後世のキリスト者は三日目の復活を加筆したのかと問うてみたい。そして、復活を信じるキリスト教が、なぜ世界を席巻したのかということも。
 日本のキリスト者たちの声は、この問いを考えるための手がかりを与えてくれるだろう。
 キリスト教とは、「自分を救えない神」を信仰する宗教である。自分で自分を救えない神が、人々に掟を与えたのである。
「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)と————。」

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