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中村 昇(聞き手:加藤哲彦)「言語ゲームとAI」(「トイ人」)

☆mediopos3301  2023.12.1

哲学者・中村昇の「言語ゲームとAI」が
Web「トイ人」で連載され
(現在全4回のうち3回目まで掲載)

聞き手の加藤哲彦との議論を通じ
後期ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」をガイドに
言語と意味について考える際の
基本的な視点が示唆されている

個人的にいえばここ数年とくに
「意味とはなにか」ということをめぐり
あれこれと問いを繰り返しているところなので
AIがらみで問題とされることもある
「意味」について整理しておく意味でも
とりあげておくことにしたい

ウィトゲンシュタインは前期と後期で
その考え方が大きく変化している

前期の『論理哲学論考』では
「この世界の基底には論理があるということを前提」に
「言語はわれわれがその論理を利用するためのものだ」
と考えていたが

『哲学探究』を中心とした後期では
「言語の本当の姿を知るためには、論理よりもむしろ、
われわれの日常に現れるさまざまな言語のあり方を
チェックしなければいけないと考え」
それを「言語ゲーム」と名付けて議論が進められた

それは意思疎通のためのコミュニケーションではなく
「意思の存在を前提」とはしていない
言語を使ったゲームである

なので「人間とまったく見分けがつかない
ロボットやアンドロイド」がいて
人間との違いを明らかにしようとしても
単に「感情移入」というだけで判別することはできない

そこで「意味」ということが問題になるのだが
AIが意味を理解できるかどうかという問いに対して、
オースティンの「言語行為論」と
ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」では
そのとらえ方が異なっている

オースティンの「言語行為論」は
「言語というのは世界を描写したり
出来事を記述したりするものではなく、
言葉として現れた瞬間に行為として
まわりに影響を及ぼすという考え方」で
その「行為を促すものが「意味」だとすると」
「言葉と「意味」がイコールではない場合、
AIはおそらく「意味」を理解することはできない」

「ある言葉の「意味」をAIに理解させようと思ったら、
その言葉が発せられるすべてのコンテキストを
メタレベルの情報としてインプットする必要」があるが
それはまず不可能だからである

それに対してウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」では
「意味というのは語と一対一で対応しているものではなく、
語の使い方であると主張し」
それが適切に使えていれば「意味」が理解されているとみなす

つまり言葉の意味を理解しているということは
「言語ゲーム」に参加できるということであり
そこに人間とアンドロイドやAIとの区別はない

しかし情報学者の西垣通はこの問題に対して
「個別の生物にとって『価値があるもの』
として出現するのが意味」であるとしていて
生命ではないAIに「意味」は理解できないとしている

それはオースティンやウィトゲンシュタインのいう
意味とは異なった「価値」における「意味」であって
ウィトゲンシュタイン的にいえば
「語りえないもの」に属することになるという

その「語りえない」ということが
結局のところ焦点になるのだろうが
実際に言語化されたものについて
それを人間が発したものかそうでないかは
今後ますます区別が付きがたくなっていくと思われる
それは言語だけではなく
あらゆる表現行為にも関わってくることである

しかし「言語ゲーム」という考え方においては
「どんな言葉をどのように使うか」
という「やりとりの場」における
その「使用」が「意味」であるとされている

言うまでもなく「意味」について
それをどう捉えるかということについては
さまざまな問いが可能である
考えれば考えるほどに「意味」とはいったいなんなのか
わからなくなるばかりだ

それは「語りえないもの」へと向かうしかなさそうだが
その問いを深めていくためには
まずは「語りえるもの」についての探求は欠かせない
その意味でも「言語ゲーム」を確かに検討する必要がある

■中村 昇(聞き手:加藤哲彦)「言語ゲームとAI」(「トイ人」)
 1. 言葉、私、世界(2023.11.11)
 2. 言語ゲーム(2023.11.18)
 3. 人間とロボットの違い(2023.11.25)

「AIの普及により、機械との「会話」が日常になりつつある現代。ただし私たちは、この「話し相手」が心をもたないことを知っています。しかし、よく考えてみると、人間はなぜそうではないと言い切れるのでしょうか(心はどっちみち、見ることも触れることもできないのに)。ウィトゲンシュタインの議論を手がかりに、言語と世界の関係、「私」の構造、そしてロボットやAIとの「共生」について考えます。(全4回)」
※現在、第3回まで掲載

(「1. 言葉、私、世界」〜「論理とは何か」より)

「中村 ウィトゲンシュタインという哲学者は面白くて、前期と後期で考え方が大きく変化しています。前期を代表するのが1921年に発行された『論理哲学論考』という本なんですけど、実は19世紀からこの本が出た20世紀前半にかけて、論理学の分野で革命が起きているんです。」

「加藤 論理学というのは文字通り論理を探求する学問だと思いますが、論理とはそもそもどういうものだと考えればいいですか。

中村 論理というのは、われわれがこうして話したり、ものを考えたりする際のパターンのようなものだと言っていいと思います。いちばんわかりやすいのは言葉のベースにある構造ですね。われわれは、それぞれ自由に考えているといっても、基本的には言語を使って思考しているので、ある意味ではそれに拘束されています。同時に、言語のベースにある構造を共有しているからこそ、同じテーマについて考えたり、意見を言い合うことができるわけです。」

「中村 論理の理って「ことわり」ですよね。論理はギリシャ語で「ロゴス」というんですけど、このロゴスは言葉であると同時に、この世界のことわりや法則を意味しているんですよ。つまり、世界そのものが論理によって組み立てられおり、われわれは否応なくその構造に乗っかって生きている。『論理哲学論考』という本は、このような考え方に基づいて書かれています。

加藤 仮にこの世界を、神が創ったWebサイトやアプリケーションだとすると、論理はその挙動を定義するプログラムだということですね。だとすると、プログラム=論理を解読しさえすれば、いちいち経験しなくても、この世界のことは全部わかるんだと。

中村 ウィトゲンシュタインは神という言葉は使っていませんが、そういうふうに考えていいと思います。ただ彼は、世界のすべてが論理で解明できるとは考えませんでした。『論理哲学論考』は「語りえないものについては沈黙しなければいけない」という有名な一文で終わっていますが、この「語りえないもの」というのはそれこそ神であったり、道徳や倫理といったわれわれが生きていく上での価値判断に関わるもののことです。こうした事柄は論理の枠外にあり、言葉にすることはできないんだと。

 今日のテーマに引き付けて言うと、この「語りえるもの」と「語りえないもの」の区分は、AIやコンピュータが扱えるものとそうではないものにも対応していると思います。」

(「1. 言葉、私、世界」〜「私は私の世界である」より)

「加藤 『論理哲学論考』には「私は私の世界である」や「主体[私]は、世界の一部ではない。そうではなく世界の境界」といった記述がありますが、これはどういった意味なのでしょうか。

中村 これは西洋哲学の歴史に古くからある「独我論」という考え方に由来するものです。世界と私がイコールだというのはどういうことかというと、この両者が絶対に切り離せないということです。

 私は――おそらく加藤さんもそうだと思うんですけど――生まれてから今までずっと「私」という中心から世界を見てきましたし、これからもたぶんそうだと思います。この「私」という中心からは絶対に脱けられないし、どんなに頑張っても、加藤さんの中に入ることはできません。万一入れたとしても、私のままで入ったとしたら、それは結局私(=中村)であって、加藤さんではない。」

「 加藤 「私」というのは身体と中身に分離できるようなものではなく、誰もがそこでしか生きていくことのできない唯一無二の場所=世界だということですね。」

「加藤 もう一つの、私が世界の一部ではなく「世界の境界」だというのはどういうことでしょうか。

中村 「境界」というのは、私というワンルームマンションからの視野、いわば映画のスクリーンのようなものです。私というスクリーンがあり、そこでは世界がさまざまに展開していくんだけど、映画にスクリーンそのものが出てこないのと同じく、世界に私が登場することは絶対にない。あるいは、私=眼球と考えてもいいかもしれません。眼球は視野を構成する大本であり、その視野に眼球そのものが現れることはありません。これが私と世界との関係なんです。

加藤 世界の一要素として私が存在しているのではなく、私自身がこの世界を構成しているということですね。それが意識的であるかどうかはともかくとして。 」

(「2. 言語ゲーム」〜「相対化される世界」より)

「加藤 20世紀の初めにフレーゲやラッセル、ホワイトヘッド、そしてウィトゲンシュタインらによって「言語論的転回」が起きたというお話がありましたが、そこに至るにはどんな経緯があったんですか。

中村 さっきもお話した通り、「言語論的転回」というのは、数学を基礎づける学問として論理学を位置づけようとする試みなんですね。なぜ「転回」という言い方がされているかというと、この動きが、18世紀にカントが起こした「認識論的転回」を踏まえているからです。

(・・・)

 カント自身はこれを天動説から地動説への転回を意識して「コペルニクス的転回」と呼びましたが、一般的には「認識論的転回」という呼び方が定着しています。これを踏まえて、人間の認識構造である「色眼鏡」の一部、あるいはそのもっとベースの部分には言語や論理が関わっているんだという議論が「言語論的転回」なんです。」

「加藤 「言語論的転回」は、そういった人間独自の世界認識の根底に言語が深く関わっているんだと。

中村 「認識論的転回」を否定しているのではもちろんなく、認識における言語の重要性を浮き彫りにしたということです。それまで言語は思考や表現、あるいは意思疎通のための「道具」だと考えられていました。でも実は、言語は、こちらが自由に使えるようなものではなく、世界のあり方=われわれの認識構造に深く食い込んでいる根源的なものであることが「言語論的転回」によって示されたんです。」

(「2. 言語ゲーム」〜「論理から現場へ」より)

加藤 それではいよいよ今日のテーマである「言語ゲーム」についてお聞きしていきたいと思います。最初にウィトゲンシュタインは前期と後期で考え方が変わったというお話がありましたが、まずはその違いについて、改めて教えていただけますか。

中村 前期のウィトゲンシュタインはこの世界の基底には論理があるということを前提に、言語はわれわれがその論理を利用するためのものだと見ていました。なので、言語を洗練していけば、完全に秩序だった「普遍言語」のようなものが出来上がるはずだと考えていたのですが、後期は一転して、言語が地域や文脈によってさまざまな使われ方をしていることに目を向けます。そこで、言語が必ずしも論理をベースにしているわけではないことに気づいた彼は、言語の本当の姿を知るためには、論理よりもむしろ、われわれの日常に現れるさまざまな言語のあり方をチェックしなければいけないと考えました。そして、このような言語のあり方のことを「言語ゲーム」と名付けたわけです。」

「中村 後期のウィトゲンシュタインは現場主義なんです。ただ、注意しないといけないのは、日本語で「ゲーム」というと将棋とか囲碁みたいなものをイメージすると思いますが、元の言葉であるドイツ語の「シュピール」には、ゲームの他に芝居や演劇という意味も含まれているんです。なので、「やりとり」とか、ある種の行為みたいな感じですね。われわれが使う「ゲーム」より膨らみのある言葉なんですよ。

加藤 ニュアンスとしては「コミュニケーション」に近いですか?

中村 いえ、コミュニケーションは「意思疎通」なので、それは違いますね。さっきのワンルームマンションの話に戻ると、私というワンルームマンションに他人は絶対に入ってこれないので、意思が伝わるということは構造的にありえません。なので、そのような意思の存在を前提としないのが「言語ゲーム」なんです。」

(「3. 人間とロボットの違い」〜「感情移入の可否」より)

「加藤 意思や心といったものと言葉との関係についてもう少し考えていきたいのですが、ここで大森荘蔵の「ロボットの申し分」というエッセーの一節を引用したいと思います。(引用省略)

中村 これは「心があるなら見せてみろ」という人間に対し、ロボットが反論しているわけですね。あなたたち人間同士だって相手の心を見ることなんてできないでしょ。それなのになぜ自分に対してだけそんな要求をするのかって。これはもう、おっしゃる通りなんですよね。

 繰り返し言っている通り、われわれはそれぞれが「私」というワンルームマンションにいて、そこから出ることも、そこに他人を招き入れることもできないわけですが、その構造は相手がロボットでもまったく同じです。もしもわれわれと同じように話しているのがロボットだとしても、そのロボットのワンルームマンションには入れない以上、心があるかないかを判断することはできません。

 なので、フィリップ・K・ディックの小説のように、人間とまったく見分けがつかないロボットやアンドロイドが登場したら、われわれは同じ人間として扱うべきだと思います。でもそこではロボット差別、アンドロイド差別のようなことが起こるかもしれません。あの人もしかしてアンドロイドじゃない、みたいな。そういうことまで想定して、大森荘蔵はこのエッセーを書いていると思います。」

「中村 フッサールなんかも「人間は誰もが感情をもっているんだ」ということを基に独我論を破ろうとしていますが、おそらくうまくいっていないと思います。

 ワンルームマンションの例でいうと、感情移入という時の感情は、自分のマンションの中にあるものなんですよね。だから、それが他人のマンションの中にあるものと同じかどうか、そもそも他人のマンションにそんなものがあるかどうかさえ、原理的にわからない。」

「加藤 今お聞きしていて思ったんですけど、感情移入というのは文字通り感情を移し入れているわけですね。相手を器か何かに見立てて、そこに自分の感情をボコっとはめ込んでいる。それは、相手に心や感情があるかどうかとは、明らかに別の話ですね。

中村 そうなんですよ。なので、もしも本当に相手に心や感情があることを確かようとするのであれば、コロンブスが「新大陸」を見つけたときのように、「感情発見」とか「感情確認」というタームを使わないといけない。でも、私=世界という構造上、その発見は結局私というワンルームマンションの中の出来事であって、他人と共有することは不可能なんです。

加藤 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』では、アンドロイドかどうかを見極めるために「感情移入度測定検査」というものが行なわれるんですけど、これと似たものに「チューリングテスト」があります。コンピュータの基礎をつくったアラン・チューリングが考案したもので、隔離された部屋にいる判定者が、ディスプレイを介して人間と機械を相手に文字による会話をする。その結果、どちらが人間でどちらが機械か判別できなかった場合、この機械はテストに合格したことになるというものです。」

「中村 チューリングテストというのは要するにAIやコンピュータに特有の挙動、言葉選びや話し方のクセのようなものがあるかどうかというテストです。生成AIがこれだけ人口に膾炙したところ見ると、われわれは、人間とAIの話し方にはっきりとした違いはないと認めたことになるのではないでしょうか。

 チューリングは実はウィトゲンシュタインと浅からぬ関わりがあって、ケンブリッジでのウィトゲンシュタインの講義に学生として出席しているんです。チューリングは数学者なので、ウィトゲンシュタインと数学の議論をたたかわせたんです。

加藤 そうだったんですか。コンピュータの起源と論理学の革命に因縁があったというのは興味深いですね。」

(「3. 人間とロボットの違い」〜「意味とは何か」より)

「加藤 話を一度「言語ゲーム」に戻すと、われわれがやりとりしているのはあくまでも言葉であり、その時相手がどんな感情を抱いているのか、そもそも相手に心や感情があるかどうかさえ構造的にわからないんだということでした。とはいえ、実際の会話の場においては、話者の言葉と意図(心)がイコールではないといったことが往々にして起こると思うんです。

 たとえば、ある人が部屋に入ってきて「暑いな」と言ったとしたら、われわれはそれを字義どおりにではなく、「窓開けろよ」とか「エアコンつけろよ」といったメッセージとして受け取ってしまう。それを仮に「意味」だとすると、AIはその「意味」を理解できるのかどうかということに興味があります。

中村 いま言われたのは、ウィトゲンシュタインと同時期に活躍したオースティンという哲学者の「言語行為論」ですね。これは、言語というのは世界を描写したり出来事を記述したりするものではなく、言葉として現れた瞬間に行為としてまわりに影響を及ぼすという考え方です。「暑いな」と言われて、窓をちょっと開けようかなとか、エアコンつけた方がいいのかなと思うのは、まさに言葉が行為として働いているからです。この行為を促すものが「意味」だとすると、今の例のように言葉と「意味」がイコールではない場合、AIはおそらく「意味」を理解することはできないと思います。

 言葉の字義どおりではない「意味」を理解するには、その言葉が発せられた状況、すなわちコンテキストを踏まえる必要があります。「暑いな」という言葉は、街中でも、会議室でも、サウナでも発せられる可能性がありますが、そのどれなのかによって「意味」はまったくといっていいほど異なります――まさかサウナでエアコンをつけようとする人はいないでしょう――。そのため、ある言葉の「意味」をAIに理解させようと思ったら、その言葉が発せられるすべてのコンテキストをメタレベルの情報としてインプットする必要がありますが、そんなことは現実的に考えて不可能です。

加藤 言葉の意味について、先生は次のようにも書かれていますね。

こういう意味で、言葉の意味は使用なのです。ちゃんと使えれば、意味を理解しているということなのです。意味が、その言葉とべつのところに存在しているのではなく、実際に使っている場面での、言葉の使用そのものだと言えるかもしれません。(『ウィトゲンシュタイン、最初の一歩』(亜紀書房)84頁)

内側に「意味」なるものがあって、それを語で表現したのではない。語が最初から使われていて、その語をちゃんと間違いなく(他の人が違和感をもたないように)会話で使っているときに、「意味」なるものがあると言えばある、といった感じです。(同書 83頁)

中村 これは「意味」という従来の実体的な概念に対するウィトゲンシュタインのアンチテーゼを説明した箇所ですね。彼は、意味というのは語と一対一で対応しているものではなく、語の使い方であると主張しました。

 われわれはふつう、意味は言葉にくっついているものだと考えますよね。たとえば「リンゴ」という語の意味は実在する赤い(あるいは緑色の)果物のことだとふつうは考えますが、ウィトゲンシュタインはそれは間違いだと言います。

「リンゴ」であればこういった考えでもさほど不具合は生じないのですが、たとえば「哲学」であるとか「友情」、あるいは「抽象」といった語の場合、これらに対応するものはこの世に実在していません。そのため、会話の中でこういう語が出てきた場合、われわれはその意味を、その時々の使用のレベルで受け取るしかない。つまり、発話者がその語を適切なコンテキストで使えていれば、その人はその語の意味を理解していると考えるしかないわけです。

加藤 「友情」という語を、他の人が聞いた時にも違和感なく使えていれば、その人はこの語の意味を理解しているとみなすわけですね。『ジャンプ』といえば友情だよね、みたいな。

中村 そういうことです。逆に、「お腹すいたから、ちょっとコンビニで「友情」買ってくるわ」と言ってきたら、その人は「友情」を理解していないことがわかる。

加藤 それで言うと、生成AIは言葉の意味を理解しているということに……

中村 なります。

加藤 私なんかより、よっぽど的確に言葉を使っていますもんね。

中村 ウィトゲンシュタイン的に言うと、言葉の意味を理解しているというのはつまり「言語ゲーム」に参加できるということなんです。人間だろうがアンドロイドだろうが生成AIだろうが、言語ゲームに参加できているのであれば、それはもう意味を理解しているとみなすしかない。私=ワンルームマンションという構造上、確認できるのはそこまでなんですから。 」

(「3. 人間とロボットの違い」〜「生物に現れる「意味」」より)

「加藤 AIが意味を理解できるかどうかという問いに対して、オースティンの「言語行為論」とウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」で見解が分かれました。ここで話をさらに複雑にしてしまうかもしれませんが、情報学者の西垣通先生はこの問題に対し、トイビトのインタビューで次のようにおっしゃっています。

『つまり、個別の生物にとって『価値があるもの』として出現するのが意味なんです。私は今のどが渇いているのでこのお茶を飲みます。すると、おいしい。これが意味です。一方私は酒が飲めないので、ここにいくら高級なワインがあっても意味がない。ワインは私が生きていく上で価値のないものなんです(…)個々の生物の生存にとっての価値および重要性、それこそが意味なんですよ』(西垣通「人間とはどのようなシステムなのか」)

『文章を生成するチャットGPTのようなAIは、データベースにある大量の文章データを分析して単語列のパターンを分類し、出現確率の高い単語列をつなげて文章を作る。なので、一見もっともらしい文章を上手に出力します。でもAIは、それが何を意味するのかはまったく理解していません。著者の意図も、事実かどうかも関係なく、ただ確率にしたがって文章を作っている(…)』。(同上)

加藤 西垣先生の議論は生命の次元の意味論といった感じで、個人的にはすごく共感するのですが、「意味」という言葉は同じでも、オースティンやウィトゲンシュタインのそれとはまた違うものを指しているように思います。

中村 そうですね。西垣先生がここでおっしゃっている「意味」はウィトゲンシュタイン的にいうと「価値」に近く、「語りえないもの」に属することになると思います。

加藤 西垣先生の見方だと、AIがどれだけもっともらしい文章を出力したところで、それはデータベースにある言葉を出現頻度に従ってまさに機械的に組み合わせているだけであり、そもそも生命ではないAIに「意味」が理解できるわけがない、ということになります。

中村 それはまったくその通りだと思います。ただ、もしもわれわれがそのようなAIの仕組みを知らずに出力された文章だけを見たとしたら、AIは意味を理解しているとみなすしかありません。ウィトゲンシュタインが言っているのはそのことなんです。

 すこし話がそれるかもしれませんが、私は他人どころか自分自身でさえ言葉の意味を理解しているかどうかわからないときがあって、さっきも出た「友情」とか「感謝」とかなんですけど。

加藤 たしかに、メールで「心より感謝いたします」って書いたのを自分で見て、きっと自分はこの人に「感謝」しているんだろうなと思うことはありますね。

中村 感謝するというのが実際にどういうことかよくわからないけど、感謝してるからこういう風に書けるんだと自分を説得するみたいな感じですよね。

 言葉って不思議だなっていつも思うんですけど、言語化すると自分の内側にあるものが出てきたような気になるじゃないですか。でも、本当にそうなのかどうかは、自分を含めて誰にもわからない。だからこそ、どんな言葉をどのように使うかということが重要であり、そのやりとりの場に注目しようというのが「言語ゲーム」という考え方なんです。」

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