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『自然とは何だろうか(スペクテイター〈49号〉)』/エマ・マリス『「自然」という幻想』

☆mediopos2637  2022.2.4

「地球にやさしく」という
エゴイスティックなものを内に秘めた言葉がある

それは地球が使い物にならないですむように
人間に都合のいいようなかたちで働きかけようという
ステートメント的なキャッチフレーズである

そのときの「地球」とは
「自然」ということに置き換えてもいい

たしかにわたしたち人間は多くの自然を破壊してきた
このまま破壊を続けていくわけにはいかない
自然を保護する必要がある

さて自然保護というが
その自然とは何だろうか

いわゆる自然保護のための諸活動は
「手つかずの自然こそ至高、自然を元の姿に戻すべき」
という基本的な考え方に基づき
自然を「元の姿」に戻そうとするものだ

自然は人為に対する
という視点でいえば
自然を守るためには
そこから人為を去る必要がある

そこで問われるのは
自然の「元の姿」である

『ホール・アース・カタログ』(一九六八〜一九七二)を発行した
スチュアート・ブラントは自然を「もとの姿に戻す」という
環境主義的な思想を唱えていたのだが

その後二〇〇九年に『地球の論点』を刊行し
かつての環境主義をあえて現実的なものにシフトさせ
「地球温暖化」を避けるためには
テクノロジーを活用することが必要だという

そのテクノロジーとは
「都市化」「原子力」
「遺伝子工学」「ジオエンジニアリング(気候工学)」である

ブラント自身この考え方が反発されることを承知し
みずからを「異端」と称してはいるのだけれど・・・

この4つのテクノロジーを
手放しで喜ぶことはできないのだが

エマ・マリス『「自然」という幻想』でも述べられているように
「手つかずの」自然はない
という現実を踏まえる必要があるのはたしかだ
まちから離れたところにある美しい自然だけが自然ではなく
自然はわたしたちのまわりのいたるところにある
しかもいわゆる「自然」はただ人に「やさしい」だけではない

その意味ではきわめて安易ではあるが
人に都合のいいように「地球にやさしく」するしかないとはいえる
人のエゴもふまえたうえで
現実的な自然環境をつくりだすというのは理には適っている

しかし問題は「テクノロジー」である
完全なテクノロジーはいまのところまず望めない
テクノロジーをとりいれるときのリスクを考えないわけにはいかない

ブラントの揚げたつのテクノロジーは
どれも大きなリスクを抱えている
しかもそれぞれのテクノロジーは現状では
背景にさまざまな利権構造をもってしか存在しえない
テクノロジーの方向性がある種の意図のもとに
方向づけられてしまうことも十二分に想定しておかなければならない
「SDGs」なども多分にそういう利権構造のもとに提唱されている

ではどうすればいいのか
なのだが・・・

『「自然」という幻想』では「残念ではあるが、
あらゆる状況に有効な唯一の最終目標は存在しない」という
しかし目標として掲げられている
「人間以外の生物の権利を守ろう」
「遺伝的な多様性を守ろう」
「精神的、審美的な自然体験を守ろう」
といったことは重要な観点であるのはたしかである

人間は人間であることを逃れることはできない
環境保全というきわめて困難な課題のもとに
さまざまな問題を抱えながら進んでいくしかない

「自然を守ろう」「自然に帰ろう」といった
単純すぎる感情論ではなく
現実的なものを見すえていく必要があるのはたしかだろう

■『自然とは何だろうか(スペクテイター〈49号〉)』
 (エディトリアル・デパートメント/編集)
 (幻冬舎 2021/12)
■エマ・マリス(岸由二・小宮繁訳)
 『「自然」という幻想/多自然ガーデニングによる新しい自然保護』
 (草思社文庫 草思社 2021/4)

(『自然とは何だろうか(スペクテイター〈49号〉)』より)

「自然をめぐる考えは時代や人により千差万別であり、歴史的に変化しながら、明確につながっている(・・・)。
 自然にただ一つの〝正解〟はありません。」
「資料にあたっていく過程で、自然を考えるうえで示唆を与えられた本に、エマ・マリス著『「自然」という幻想』(・・・)があります。
 これまで自然保護者たちは、〝手つかずの自然〟こそ理想の姿であるとして、それまで当然のごとく、理想の自然像が語られ続けてきました。
 しかし、マリスによれば、〝手つかずの自然〟とは、アメリカ人が形成してきた幻想に過ぎない。地球に人間が住み着いた前も後も、自然はつねに変化をし続けてきたではないか。理想の自然などはどこを探してもない。現代の〝改造された自然〟も〝原生自然〟も、同じ自然なのだ。懐古主義的に昔の自然を理想としてかかげることは、きわめて不自然な態度ではないか、と主張します。
 自然を相対化することで著者は、われわれはいま、目の前にある自然を維持し、管理すれば良いのだとする〝自然への新しい見方〟を問題提起しており、いま私たちの日々の暮らしの背景にすでにある。大小さまざまな多様性ある自然こそが、現代の自然なのだとして、新しい時代の自然を説いています。同書を読んで以来、それまで自明なこととして抱いていた思い込みが消え、〝本来の自然〟とは、もしかしたらアメリカ人がつくり出したフィクションだったのではないか・・・などと、考えをめぐらせるようになりました。
 このように自然の定義は常に揺れ動きながら変化していくものであって、同時に、人智を活かすことで問題を解決し、あらたなつながりを生み出す可能性を秘めているということが、さしあたりの結論です。」

「『ホール・アース・カタログ(Whole Earth Catalog)』(一九六八〜一九七二)は、カウンターカルチャーに大きな影響を与えた雑誌として、広く知られている。この雑誌は幅広いテーマをあつかっていたが、なかでも「環境(エコロジー)」は、最大のテーマであったといえるだろう。表紙の地球の写真と、誌名の「アース(Earth)」が、それをよく示している。この雑誌の発行人であるスチュアート・ブラント(一九三八〜)は、環境主義のリーダー格の一人であると見なされてきた。
 『地球の論点(Whole Earth Discipline)』は、そのスチュアート・ブラントが、二〇〇九年に出した本である(日本語訳は二〇一一年、英治出版、訳・仙名紀)。本書の主題は「地球温暖化」であり、それをふせぐために、「都市化」「原子力」「遺伝子工学」「ジオエンジニアリング(気候工学)」という四つのテクノロジーを活用しよう、という内容である。これらの四つはいずれも、従来の環境主義では「嫌われ者」といえる。しかし、これらのテクノロジーこそ、むしろ「グリーン」(「エコ」)なのだ、というのが本書の主題である。ブラント自身、この考え方が反発を受けやすく、逆説的であることを承知しており、みずから「異端」と称している。従来の環境主義という「正統」に対して、そのリーダー格の一人だったブラントが反旗をひるがえし、「異端」に走った、という構図である。」

「エコモダニズムとは、このブラントの「異端」路線に賛同する動きである。エコモダニスト(エコモダニズムの支持者)の全員がブラントに影響を受けているわけではないが、エコモダニズムというあたらしい環境主義の流れができていくにあたって、ブラントと「地球の論点」の影響力は大きかったようだ。」

「二〇一五年m「エコモダニスト宣言(Ecomodernist Manifesto)が発表された。」
「宣言の内容は、人間の活動を止めるのではなく、技術によって環境への負荷を減らしていくことによってこそ、環境問題を解決できる、というもので、『地球の論点』とぼぼ同じ論旨である。」
「エコモダニズムは、環境と経済を切り分け、「デカップリング(分離)」する。経済成長し、技術革新を進めてこそ、環境問題を解決しうる、と考える。「経済成長を支持する環境主義」なので、右派も支持しやすい。」
「エコモダニズムは、人間の能力を信頼している。この楽観主義は、マット・リドレー『繁栄』、スティーブン・ピンカー『21世紀の啓蒙』、ハンス・ロスリング『ファクトフルネス』といった、最近の思想にも通じるところがある。」

(エマ・マリス『「自然」という幻想』より)

「過去300年で、私たちは多くの自然を失った。「失う」という言葉に持つ2つの意味でだ。まず、多くの自然が破壊されたという意味で、私たちは自然を失った。森は住居になった。小川は、暗渠と駐車場になった。リョコウバトも、ステラーカイギュウも消えて、博物館の薄暗いギャラリーの毛皮と骨格行本になった。そして私たちは、もう一つ別の意味でも自然を失った。私たちは自然のありかを見失った。私たちは、私たち自身から、自然を引き離し、見失ってしまったのである。
 私たちが間違ったのは、自然は、「私たちと離れたところに」、どこか「遠く」にあると考えるようになったからだ。私たちはテレビで自然を見る。豪華な雑誌で自然を読む。私たちが思い描く場所は、どこか遠く、束縛のない野生、住民も道路もフェンスも電線もない、手つかずの、季節の変化のほかは変わることのないような場所なのだ。手つかずの野生という夢想が私たちに襲い掛かる。そして私たちは自然について盲目になる。」
「本書は自然への新しい見方がテーマだ。慎重に管理されている国立公園も、広大な北方林も、無人の北極の地も、自然である。しかしあなたの庭の野鳥も、マンハッタンの五番街をぶんぶん飛ぶミツバチも、植林地で列をなすマツも、都市河川の川辺のブラックベリーやバタフライフィッシュも、道端のニワウルシも、畑を駆け抜けるウズラも、雑草と藪に覆われてベビやネズミも徘徊する放棄された畑も、「侵略種」と名指しされる植物が鬱蒼と茂るジャングルも、見事にデザインされたランドスケープガーデンも、緑化屋根も、高速道路の中央分離帯も、アマゾンの奥深くに抱かれた500年の歴史を持つ果樹園も、そして、ごみ捨て場から芽を出したアボカドの木も、自然なのだ。
 自然はいたるところにある。しかし、どこにあるとしても必ず共通する特徴がある。「手つかずのものはない」、ということだ。いま現在、地球という惑星に、手つかずのウィルダネスは存在しない。」
「認めるか否かにかかわらず、私たちはすでに地球全体を管理しはじめている。意識的、効率的に管理を進めるために、私たちは、自らの役割を認め、引き受けてゆかねばならないのである。」
「変化した生態系より従来の生態系のほうがよいとするこの信仰のようなものは、生態学周辺領域にあまりに根深く定着しているため、自明の前提とされてきた。(・・・)手つかずの自然というカルトは、文化的につくりあげられたものだ。しかもその歴史は比較的新しい。他のさまざまな文化的な信条と同様、アメリカで生まれたのである。」

「残念ではあるが、あらゆる状況に有効な唯一の最終目標は存在しない(・・・)。つまり、すべての土地について、所有者、管理者、行政機関、土地に関心を持つ人々が協力して、共通の最終目標を見出すために詳細に議論するしかないのだ。これはとても難しいことではあるけれども。」
「目標1 人間以外の生物の権利を守ろう」
「目標2 カリスマ的な大型生物を守ろう」
「目標3 絶滅率を下げよう」
「目標4 遺伝的な多様性を守ろう」
「目標5 生物多様性を定義し、守ろう」
「目標6 生態系サービスを最大化しよう」
「目標7 精神的、審美的な自然体験を守ろう」
「多様な目標を土地ごとに設定しコストも考慮しよう」

◎『自然とは何だろうか(スペクテイター〈49号〉)』《目次》

◆まんが 人は自然をどうみてきたか? 作画/関根美有 原作/赤田祐一
第1章 キリスト教の自然観
第2章 楽園をきりひらいた人たち
第3章 ロマン主義者の自然観
第4章 自然保護のはじまり
第5章 生物多様性のめざめ
第6章 サイレント・スプリング
第7章 ピープルズ・パーク事件
第8章 エコロジー運動の夜明け

◆『地球の論点』とエコモダニズム 構成・文/桜井通開 挿画/川勝徳重
・地球の論点と自然観の変遷ーーーこの本をいま、再読する理由
・まず『WEC』と『WED』を比較してみた
・『地球の論点』を読む(都市は「グリーン」である/原子力は「グリーン」である/遺伝子工学は「グリーン」である/ジオエンジニアリングは「おそらく必要」である)
・「エコモダニズム」とはなにか?
・エコモダニズム・ブックガイド

◆ロングインタビュー 三人に聞く わたしの自然観
取材・構成/鴇田義晴、赤田祐一(編集部) イラストレーション/ひさうちみちお
・内山節氏に聞く―――哲学者と考えた 自然と人間の関係
・坂田昌子に聞く―――ネイチャーガイドから教わった「生物多様性」の意味
・能勢伊勢雄に聞く―――ライブハウス・オーナーに聞く「自然をどうとらえるべきか」

◎エマ・マリス『「自然」という幻想』《目次》

第1章 自然を「もとの姿に戻す」ことは可能か
第2章 「手つかずの自然」を崇拝する文化の来歴
第3章「原始の森」という幻想
第4章 再野生化で自然を増やせ
第5章 温暖化による生物の移動を手伝う
第6章 外来種を好きになる
第7章 外来種の交じった生態系の利点
第8章 生態系の回復か、設計か?
第9章 どこでだって自然保護はできる
第 10 章 自然保護はこれから何をめざせばいいか

「昔に戻す」以外の自然保護の目標を議論する
多様な目標を土地ごとに設定しコストも考慮しよう

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