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星野太「食客論❼味会」 (『群像5月号』)/九鬼 周造『「いき」の構造 他二篇』

☆mediopos2710 2022.4.18

「味会」という言葉は
九鬼周造『「いき」の構造』の終盤に
二回だけ登場するという

『「いき」の構造』は
「いき」という美的表現の
「内包的構造」および「外延的構造」
さらにその「自然的表現」と「芸術的表現」を
具体的な対称を通じて明らかにきてきたが
そうした「概念による把握だけでは」十分ではなく
最終的には「味会」なる営みによって
把握されねばならないのだという

つまり「物事の価値判断は
体験として「味わう」ことに始まる」
しかも「味わう」といっても
それは「味覚」のみではなく
嗅覚や触覚の働きも必要となりそれらの連関が
「原本的意味における「体験」を形成する」ということだ

ではなぜ九鬼周造は「味会」という「ぎこちない言葉」を
『「いき」の構造』の結論に登場させたのか

星野太は本論においてその理由を
「「我」と「汝」の邂逅が、
まずもって味わうべき対象にほかならないからだ」という

それは九鬼の『偶然性の問題』をはじめとした
「偶然」についての理論に関連している

「わたし」と「あなた」の邂逅(出会い)は
「偶然の産物」であるが
そうした「すべては偶然の産物である」というテーゼは
「一見それとは対照的な
「すべては運命である」というテーゼと、
実のところ表裏一体」なのだ

わたしたちの運命を左右する偶然の出来事は
まず「味会」されるべき対称であるということだ

本論で「「食客」と「宿主」の関係」である
「ほかならぬ「寄生」こそが、
「共生」に先立つこの世の摂理」だと
論じられてきたことは深くそのことに関わっている

「わたしたちは世界を喰らうとともに、
世界によって喰らわれている」
そうとらえることができるが
それは一方的な関係ではなく
「「わたし」と「世界」の互恵的な関係」なのだ

生まれてきて
「世界」とかかわること
「あなた」に出会うこと
それらすべては哲学的な概念把握だけでは
「味わう」ことにはならない

それらの偶然を
いかに「味会」することができるか
つまり「運命」として引き受けることができるかだ

■星野太「食客論❼味会」
 (『群像 2022年 05 月号』講談社 2022/4 所収)
■九鬼 周造『「いき」の構造 他二篇』
  (岩波文庫 岩波書店 1979/9)

「ひろく「寄生」という現象について考えるとき、その基本要素となるのは、言うまでも無く「食客」と「宿主」の関係である。
(・・・)
 われわれはここまで、ほかならぬ「寄生」こそが、「共生」に先立つこの世の摂理だと言ってきたのだった。それゆえ、さきほどのべたことは、わたしたちのあらゆる出会いについても当てはまる。あなたが、わたしが、この世界に生まれ落ちたのはひとえに偶然の結果であり、そこで生じる出会いにはいっさいの必然性が欠けている。生後すぐに、あるいはそれ以前から、わたしたちは偶然の計らいにより、この世界における最初の宿主と出会う。そして、やがて個体としての自律性を獲得するにつれ、わたしたちは次々に異なる宿主と出会い、同時にみずからもまたひとつの宿主へと転じていくことになるだろう。
 ここからしばらく考えてみたいのは、こうした「偶然の」邂逅がもつ、その意味についてである。わたしたちはこの世界にたまたま迷い込み、周囲の世界と、あるいは具体的な生物や事物と、そのたびごとに唯一無二の関係を結びながら死ぬ。むろんそこで、わたしたちは世界から一方的に糧を得ているわけではない、わたしたちは世界を喰らうとともに、世界によって喰らわれている。こうした「わたし」と「世界」の互恵的な関係を問題とするために、われわれが前回の最後に導入したのが「存在論的口唇論」という言葉であった。
 この、いくぶん奇妙な言葉を用いる理由について、いましばし言葉を費やしておきたい。それはおおよそこういった次第である。複数の存在者がたがいを喰らいあうというテーゼは、ともすると、異なる生き物どうしの容赦なき補色関係————いわゆる自然状態における争い————として、ごく安易な仕方で表象されるおそれがある。「共生」や「寄生」という主題に付随する「食べる」という営みへの注目は、しばしばそれを「食べる/食べられる」という非対称的な構造へと還元してしまう。これは「口」というトポスのなかでも、もっぱら口腔的な問題系であると言ってよいだろう。だが、わたしたちを取り巻く現実は、はたしてそこまで単純なものだろうか。たとえば栄養摂取のみならず、われわれのあらゆる生命活動が、広義の寄生状態に根ざしているのだとしよう。その場合、わたしと周囲のものたちのあいだに成立しているのは、一方が他方を無にしてしまうような酷薄な関係では絶対にないはずだ。食客が宿主に対してそうするように、わたしと他者との関わりはいつも、一方が他方を無にしてしまわないための配慮(ケア)に支えられている。われわれと他者のあいだには、生き物どうしの容赦なき補色関係にはとうてい回収しきればい、無限に繊細なニュアンスがある。いくぶん比喩的に言うなら、それはたがいの命のやりとりに終始する口腔的関係ではなく、それぞれの開口部を通じて甘噛みしあううような口唇的関係である。こうした認識のもと、さしあたり便宜的な名称として、ここからの議論を「存在論的口唇論」とよぶことにする。」

「食客と宿主、「わたし」と「あなた」を取り持つ紐帯は、例外なく偶然の産物である。さらに(…)この「すべては偶然の産物である」というテーゼは、一見それとは対照的な「すべては運命である」というテーゼと、実のところ表裏一体である。
 偶然と運命というのは人間にとって普遍的な主題だが、それを理論的に把握せんとする試みは、どこか空回りを避けられない。というのも、現実に出来する一回性の出来事を捕まえようとするその野心は、往々にして無味乾燥な思弁に行き着くことを免れないからだ。おそらくその数少ない例外たりえているのが。『偶然性の問題』(一九三五)をはじめとする九鬼周造(一八八八−一九四一)の一連の仕事である。(・・・)九鬼は「偶然」と呼ばれる事象を精緻に腑分けし、それをきわめて洗練されたひとつの理論として提示した。しかし他方で、九鬼にとって偶然をめぐる諸問題はたんなる抽象的な思考実験ではなく、ほかならぬこの「わたし」によって味得される実践経験にほかならなかった。あらかじめ言っておくなら、九鬼において「わたし」と「世界」との邂逅は、ほとんど人間どうしのそれのような情感を帯びたものとして構想されている。」

「(『「いき」の構造』)は、「いき」なる美的表現の「内包的構造」および「外延的構造」を明らかにし、次いでその「自然的表現」と「芸術的表現」を具体的な対象を通じて手明らかにしてきた。しかしながら、もっぱら概念による把握だけでは「いき」の何たるかを知るには十分ではない。その具体的意味は、最終的には「味会」なる営みによって把握されねばならないのである。
 その理由を九鬼は次のように説明する。いわく、物事の価値判断は体験として「味わう」ことに始まる。日常的な飲食の場面を考えてみれば明らかであるように、われわれは日々の経験のなかで覚えた「味」を基礎として、そのつどみずからの判断をくだすのだ。しかし「味わう」と言っても、それが純粋な「味覚」のみである場合はほとんどない。九鬼が考えるところの「味なもの」とは、味覚のほか、ほのかな香りを嗅ぎ分ける「嗅覚」や、その感触をたしかめる「触覚」のはたらきを同時に要求する。この味覚・嗅覚・触覚の連関が「原本的意味における「体験」を形成する」と九鬼はいうのである。」

「では、この「味会」とはいったい何なのか。」

「それはほかでもなく、「我」と「汝」の邂逅が、まずもって味わうべき対象にほかならないからだ。『「いき」の構造』の結論で唐突に導入されるこの語彙は、九鬼のいう「出会い」が————本来の意味での————美的な経験にほかならないことを証し立てている。われわれの運命を特に大きく左右する偶然の出来事は、それを運命として引き受けるかどうかにかかわらず、まずもって味会さるべき対象である。おそらくそのように言うべきだろう。

 わたしたちは生きている。そして生きるということは、さまざまな生物や事物と日々「行きずり」の関係を結ぶということである。それは、かならずしもわかりやすい「縁」によるものとはかぎらない。むしろ九鬼が言うところの「行きずり」の邂逅は、異なるものたちのあいだにごく恣意的な「しるし」が見出されるという、その事実のみを担保として成立する。」

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