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松村一志 「「論破」する子どもたち」(群像)/野崎昭弘『詭弁論理学』

☆mediopos3411  2024.3.20

松村一志
「「論破」する子どもたち」(群像)によれば

「ひろゆき」の
「論破」と
「それってあなたの感想ですよね」というフレーズが
そこそこ流行語のようになっているようだが

小学生がそれらの言葉を使うことについては
大人はそれほど心配することはなさそうだ

ボタンを押すと
「それってあなたの感想ですよね?」とか
「なんかそういうデータあるんですか?」といった
フレーズが再生される
「ひろゆきの論破くん」(ライソン)という
商品さえあるそうだが

むしろ大人になってから
そういう毒抜きのような一種の「ギャグ」的な言葉に
ふりまわされてしまうことのほうが問題だろう

そしてそれよりも問題なのは
公の政治的な場において
議論にさえならないような仕方で
きわめて幼稚な「強弁」と「詭弁」が
繰り返されている現実だろう

子どもたちもそうだが
多くの「利」にさとい大人たちも
そういう公の場においてなされている
「範例」を模倣することで
処世術を身につけていることが多いのは
だれもが目にしていることである

議論がなされるのであれば
そこにはある程度の公正さが求められるはずだが
多くの場合議論の場にあるのは
「力」と「空気」である

それに代わるものといえば
「信仰」を背景にした「教義」や
「教育」を背景にした「校則」だろう

いうまでもなく科学をはじめとした
さまざまな公の研究機関には
そこにさらに「研究費」と「利権」が関わってくる

そうした場においては
公正な議論というのはほとんど成立し難い

とはいえ個人的にいえば面倒なので
議論などしたいとは思ったことはまずない
ディベートなどという詭弁遊戯にもつき合いたくはない

とはいえ
それらを避ける
あるいはその影響をできるだけ軽減するためにこそ
基本的な論理や
論理を欺くための詭弁
論理を蹴飛ばす強弁などといった
議論にかかわることについて
あるいていど理解しておくことに越したことはない

議論の場に出くわしたときにも
そこでなにが起こっているのかが見えていると
それに巻き込まれないですむ方法を
見つけることもできるだろうからである

少し古い本ではあるが
学生の頃から手元にある
野崎昭弘『詭弁論理学』から

「強弁術」と「詭弁術」に対して
どのように対応できるかを
少しだけ見やすくなるポイントのところを
引用部分に挙げてみた

さらにそれに加えるとすれば
議論の根底にあるものを
議論する者の「利害」も含めできるだけ見据えておくこと
そしてそこにデータ的なものがある場合は
データそのものにどのような根拠があるのかを
明確にしておくことだろう

「ひろゆきくん」的なゲーム機器のように
「それってあなたの詭弁ですよね」といった
対応するフレーズのでてくるボタンを
心のなかで用意しておくのも
余裕をもつという意味では必要かもしれない
(実際に口にすると問題になりそうなので禁句だけれど)

■松村一志「「論破」する子どもたち」(群像 2024年4月号)
■野崎昭弘『詭弁論理学』(中公新書 昭和51年10月)

**(松村一志「「論破」する子どもたち」より)

*「先日、小学生のお子さんを持つ知人と話をする機会があった。あれこれ話をしていると、面白いことを聞いた。お子さんの通う小学校で、「それってあなたの感想ですよね」という言い回しが流行っているというのだ。

 親や教師が何か言うと、「それってあなたの感想ですよね」と言い返してくる。そんな子どもに手を焼くという話は、以前からインターネットでも時折目にしていたのだが、意外と身近なところにその実例があると知って、驚いた。

 相手を言い負かす、あるいは言い負かしたことにすることを、最近ではよく「論破」と言っている。「論破」する子どもをめぐっては、「この子たちは一体どうなるのだろう」と嘆く向きもあるかもしれない。けれども、私自身はむしろ、これを健全なことだと思っている。なぜなら、子どもたち(というか私たち)は昔から、相手を黙らせるための決まり文句を使ってきたからだ。
(・・・)
 私の小学校には、「あっそ、だから、で、なにが言いたいの?」という言い回しがあった。何か言われると、このフレーズをリズムに乗って繰り返す。思い出すだけで恥ずかしくなる光景だが、おそらく令和の小学生たちも、「それってあなたの感想ですよね」を一抹の羞恥心とともに思い出すことになるのではないか。」

「「論破」なる現象をそこまで悲観する必要はないと思う。少なくともそれは、議論で決着をつけようとする人々の存在を示しているし、そもそも「論破」が問題になること自体、良い論駁と悪い論駁を見分けようとする姿勢が広がっていることの表れとも言える。

 「それってあなたの感想ですよね?」と問いかける子どもたちは、早晩このフレーズを卒業し、もっとうまく議論できるうようになるのだろう。その意味では、私の子ども時代なんかより、ずっと良いスタート地点にいるようにも見える。」

*「ところで、「論破」する子どもの存在は、逆に、大人はそうそう「論破」しないという事実を浮かび上がらせる。大人の感覚が子どものそれとズレているからこそ、「論破」する子どもが心配になる。では、大人がそれじょど「論破」しないのはなぜだろう。

(・・・)

 相手を「論破」するようなセリフは、「ちょっと言いづらい」のである。

 コミュニケーションには、年齢や地位からくす上下関係や、親しい間柄での友好関係の負荷がかかっている。関係をうまく築くには、最低限の礼儀が求められる。そのため、相手の意見を論駁することが簡単でない場面も多い。

 上司の発言を果敢に論駁しようと思っても、時と場合を間違うと、「つべこべ言うな」とか「黙って言うことを聞け」と言われて終わってしまう可能性があるし、友人の発言を必要以上に問い詰めると仲違いするかもしれない。(・・・)

 裏を返せば、こうした負荷から自由な空間においてこそ、「論破」が現れやすい。例えば、インターネットは社会関係の負荷が低い空間を作り出した。(・・・)だから、社会関係の負荷がかかっていたら生まれないはずの「論破」が、ネット上では容易く発生する。

 そう考えると、「それってあなたの感想ですよね?」というフレーズが、他ならぬ子どもたちの間で流行するのも頷ける。大人を縛っている礼儀をまだ十分には内面化していないからこそ、子どもたちは気兼ねなく「論破」できる。」

*「そもそも「論破」が問題視されるのは、それが本当の意味での論駁になっていないという感覚があるからだ。本人は論駁しているつもりも、的外れで説得力がない。しかも、そういうケースに限って、「完全論破」を謳っていたりする。

 理屈が通っていない議論を論駁したり、「エビデンス」を求めること自体は、なんらおかしいことではないし、むしろ必要だろう。(・・・)

 他方で、数値に表れにくい現実の壁を捉えるには、個人の多様な「感想」が欠かせない。お客様アンケートの自由回答欄のように、「感想」もまた重要な「データ」になるからだ。どんな立場の人にどう見えているのかということ自体が、豊かな情報を含んでいる。

 その意味で、実は「感想」と「データ」が対立するわけでもない。「それってあなたの感想ですよね?」というフレーズに違和感を覚えてしまうのは、そのこことを捨象してしまうためだろう。」 

**(野崎昭弘『詭弁論理学』〜「はしがき」より)

*「世の中には、「話し上手」な人がいて、ちょっとした集まりなどでも、その場の雰囲気を和やかにし、皆を楽しませてくれる。(・・・)

 一方世の中には「議論上手」な人がいて、これはあまり人に好かれないようである。「議論べた」はいつも、あとになってかあ「ああ、あのときはこういってやればよかった」と後悔する。私はいつも後悔ばかりしているので、しまいには「後悔する」ことを後悔するようになった。

 「後悔しない」ためには、自分が議論上手になればよい。しかしそれには、努力ばかりでなく天分も必要なので、「なろう」と思ってもなれるものでもないらしい。ではどうしたらよいか。たとえば議論には勝てないとしても、冷静に、相手の戦術を分析し、人間研究の材料として利用することはできるであろう。また、時簡に追われずにマイペースで、のんびり「論理パズル」を楽しむことも悪くないであろう。なまじ「議論上手」になって人に嫌われるよりは。天分を生かして「話し上手」になるか。、あるいは「勝てなくてもよい」という前提で議論を楽しむ「ゆとり」を身につけたほうが、はるかに好ましいのではないかと思う。この「ゆとり」を望む人々(私自身を含む)ために、本書は生まれた。」

**(野崎昭弘『詭弁論理学』〜「Ⅱ 強弁術/強弁術の総括」より)

*「強弁術の要諦を格言ふうにまとめると、次のようになるであろう。

(1)相手のいうことを聞くな。
(2)自分の主張に確信を持て。
(3)逆らうものは悪魔である(レッテルを利用せよ)。
(4)自分のいいたいことを繰り返せ。
(5)おどし、泣き、またはしゃべりまくること。

 このようなワザの達人を、はびこらせてはならない。といっても、小児型強弁術について前に観察したように、根が深いところにある(らしい)ので、なかなか絶命はむずかしかろうと思う。ただ、常識がないために自分の感情をふりまわす「悪気のない強弁術者」に対しては、健全な常識を作りあげ。普及させることが有益であろう。」

*「強弁術をふりまわすことができるかどうかは、頭の良しあしでも技術の問題でもなく、結局は人柄の問題である。自信の強い人が強弁をはじめたら、少々相手の痛いところをほのめかしても通じるはずがなく、「釘をさした」つもりが「馬耳東風」で「糠に釘」ということになりかねない。したがって、よほど言葉を選んで、相手が見落としている点をズバリと衝くくか、あるいは第三者に立ち合ってもらうことが望ましい。それでも正論が通らないときは、むしろ第三者に語りかけたほうが有益である。」

**(野崎昭弘『詭弁論理学』〜「Ⅲ 詭弁術/詭弁術の総括」より)

*「詭弁術にはいろいろな型があるから、手法や心得を簡単に要約することはむずかしい。しかし基本的な対策としては、強弁術のときと同じように(あるいはそれ以上に)「健全な常識、健全な判断力を養う」ことが大切ではないかと思う。(・・・)

 言葉の意味に注意するのも大切なことである。特に「本質的」とか「純粋の」などという形容詞が使われはじめると、言葉の本来の意味が消え失せて、ほしいままに使われるおそれがある。そのようなときは、なるべく具体的に「どういうことなのか」を説明してもらい、お互いの解釈に食いちがいが起こらないように努力する必要がある。」

*「詭弁術に押されない、また気づかずに詭弁を操ったりしないための「心構え」を、要約しておこう。

【原則1】無理やり説得しようとするな。
(・・・)
【原則2】時間を惜しむな、打ち切るのを惜しむな。
(・・・)
【原則3】結論の吟味を忘れるな。
(・・・)
【原則4】「わからない」ことを恥じるな。」

*「個々の戦術に対しては、次のチェック・ポイントを心得ておくとよい。

【二分法に対して】
(1)中間的な場合を考えなくてよいか。
(2)開きなおったらどうなるか。

【相殺法について】
(1)相殺される事柄の、バランスはとれているか。
(2)バランスがとれていないとしたら、どんな点での違いが重要か。

【消去法について】
(1)消去の仕方は乱暴でないか。見とおされている場合はないか。
(2)結論は受け入れられるか。

【ドミノ理論について】
(1)「将棋倒し」が本当に起こるのか。その現実性はどれくらいか。
(2)ドミノ理論に従うための努力(プラス副作用)と、期待される結果(あるいは予防効果)とのバランスはとれているか。」

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