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山田英春『ストーンヘンジ ――巨石文化の歴史と謎』/ルドルフ・シュタイナー「儀式」(『神仏と人間』)

☆mediopos-3017  2023.2.20

ロンドンの西方・ソールズベリー平原にある
巨石建造物「ストーンヘンジ」

その歴史と謎について解説した
解説書が筑摩選書からでている
カラー写真や図版も多数ある要保存版

それによれば
ストーンヘンジのほとんどの部分は
紀元前二六二〇〜紀元前二〇二〇年頃
新石器時代の末期から
青銅器時代初期につくられたものだという

「主構造部は直径約三〇メートルの円形」で
「最も外側には円形に配置された
高さ約四メートルの巨石柱がほぼ均等に三〇並び、
文字通り石の環が形づくられていた。」

石はサーセン石と呼ばれる灰色の石

「三石塔」という
「石柱とリンテルという石組みは、
外側のサークルだけでなく、内側にもみられる。」
「石柱の幅にきっちりと合わせるようにして
乗せられたリンテルがつくる門のような形は、
ストーンヘンジのシンボルともいえる。」

これらの巨石建造物は
誰が何のためにつくったのかをめぐって
さまざまな議論がなされてきているが

それについては
ルドルフ・シュタイナーの講義録から

ストーンヘンジはかつて
ドルイド教の司祭が司っていた儀式の場であり
太陽の位置に応じて作られる影の変化によって
種蒔きや収穫の日
家畜に交尾させる時期などを決めていた

当時は文字が使われていなかったので
いわば農事暦的な役割を担っていたのである

またその石の配列はドルイド・サークルと呼ばれ
人々はかつては石で覆われたなかの影の差異を
見極める能力をもっていて
そこでは日光の霊性だけではなく
月の影響もよく観察されていたのだという

巨石文化は青銅器時代に移り
やがて文字が使われるようになるに従って
その場のもっていた意味もわからなくなり
たとえそこで儀式が行われていたとしても
その意味を理解することができなくなっていった・・・

シュタイナーはこの講義の最後にこう示唆している
「人類のなかで多くのものが滅び去った。
今日、人々は霊的な領域で新しい認識を必要としている。
新しい認識によって、すべてを探求しなければならない」

私たちはさまざまな「儀式」を行うことがあるが
それらの多くはほんらいの生きた意味を失い形骸化している
意味のわからない「儀式」が不要だとはいえないとしても
それがなぜ行われるのかについて考え
そこに新たな光を当てる必要がある

■山田 英春『ストーンヘンジ ――巨石文化の歴史と謎』
  (筑摩選書 246 筑摩書房 2023/1)
■ルドルフ・シュタイナー(西川隆範訳)
 『シュタイナー 神仏と人間』(風濤社 2010/11)

(山田 英春『ストーンヘンジ ――巨石文化の歴史と謎』より)

「ストーンヘンジの現在の姿のほとんどの部分は、紀元前二六二〇〜紀元前二〇二〇年頃、新石器時代の末期から青銅器時代初期につくられたものだ。エジプトで三大ピラミッドが建三された時代とも重なる。」

「主構造部は直径約三〇メートルの円形をしていた。最も外側には円形に配置された高さ約四メートルの巨石柱がほぼ均等に三〇並び、文字通り石の環が形づくられていた。石はサーセン石と呼ばれる灰色の石で、ブロック状に成形されている。

 サーセン石の石柱とリンテルという石組みは、外側のサークルだけでなく、内側にもみられる「三石塔」だ。二本の石柱とその上部に、石柱の幅にきっちりと合わせるようにして乗せられたリンテルがつくる門のような形は、ストーンヘンジのシンボルともいえる。三石塔は五組、北東方向に開く形で馬蹄形に配置されていた。三石塔は外側のサークルより少し高くつくられている。特に中央のひとつは最も高く設計されていて。現在残っている石柱は高さ約六・五メートルある。外側から見ると、石の環の上に中央の三石塔がはっきりと頭を出している形になっていた。」

「ストーンヘンジは石組みを中心として、直径約一〇〇メートルの円形の堀と土手に囲まれている。外側に堀があり、そのすぐ内側に土手が作られていた。堀は幅約六メートル、深さ約一・二〜二メートルほどあったと考えられている。

 こうした円形の堀と土手によって囲われた施設はブリテン島各地にみられる。ただ、多くは内側に掘、外側に土手という形で、ストーンヘンジのそれとは逆になっており、そうしたタイプのものを考古学用語でヘンジと呼ぶ。ややこしい話だが、ヘンジという言葉はストーンヘンジから生まれたものであるにもかかわらず、ストーンヘンジの堀と土手はヘンジではない、ということになっている。」

「ストーンヘンジの主な石組みは紀元前二五〇〇年前後につくられたものだが、実はこれは歴史のごく一部でしかない。その歴史は紀元前三〇〇〇年頃にまで溯り、その後、実に一〇〇〇年以上にわたって、さまざまに姿を変えてきたことがわかっている。どのように始まり、どのように作り替えられてきたのか。過去さまざまに議論されてきたが、これについても近年の調査によって年代が修正され、新たな見方が定着しつつある。おおまかに五段階に分類されている。

【ステージ1 紀元前三〇〇〇〜紀元前二六二〇年頃】
 最初につくられたのは円形の堀と土手の囲い地だった。

(・・・)

【ステージ2 紀元前二六二〇〜紀元前二四八〇年頃】
 ステージ2は、巨大なサーセン石と三石塔が設置された。ストーンヘンジの姿が最も劇的に変化した時代だ。また、紀元前二五〇〇年頃には銅が大陸から持ち込まれ、短期ではあるが、「銅器時代」とも呼ばれる。このステージ以降、ストーンヘンジ内での埋葬は行われなくなる。

(・・・)

【ステージ3 紀元前二四八〇〜紀元前二二八〇年頃】
 ステージ3は新石器時代が終わり、青銅器が使われるようになった時代だ。
 (・・・)
 この時期は新石器時代特有の大規模なモニュメントの造成の時代だ。ストーンヘンジの北にシルベリーという巨大な土の山が築かれ、これが数千人規模の人手で大規模なモニュメントをつくる最後のものとなった。

(・・・)

【ステージ4 紀元前二二八〇〜紀元前二〇二〇年頃】
 ブリテン島で青銅器の本格的な使用が広がっていった時期だ。
 (・・・)
 ストーンヘンジではこの時期はブルーストーンの配置が大きく変わったと考えられている。サーセン石の外側のリングと三石塔の間にサークル状に置かれ、三石塔の内側に楕円形の置かれた。内側のブルーストーンの配置は後に馬蹄形に変化するが、意図的に変えられたというよりも、後代に破壊されたものかもしれないという。

(・・・)

【ステージ5 紀元前二〇二〇〜紀元前一五一〇年頃】
 この時代、ストーンヘンジの構造に大きな改変はなかった。おそらくほとんど使われていなかったのではないかと考えられているが、サーセン石のリングの外側にYホール、Zホールと呼ばれる円形の配置された穴が二九か三〇個彫られている。穴は掘られたものの、石や木の柱が立てられることもなく、自然に埋まっていったと考えられている。
 (・・・)
 この時期には、ストーンヘンジにそれまでなかったものが加えられた。彫刻だ。短剣や青銅の斧頭の浅い彫刻が多数、サーセン石の表面に彫られている。」

(『シュタイナー 神仏と人間』〜「儀式」より)
Urspringu und Bedeutungu der Kulte,GA 350

「「どのようにして儀式は発生したのか。儀式の目的は何か」ということを考えてみるのは興味深いことです。

 私は最近、イギリスに旅行しました。ペンマインマウルでの講座は、古代の儀式場の近くで行われました。イギリス西岸、ウェールズです。アングルシーという名の島があり、そこには山のまわりのいたるところに儀式の場が残っていました。それらは荒廃し、廃墟しか見られません。しかし、人智学を知っていれば、その廃墟から儀式の意味を見出すことができます。

 山に登ると、山頂に儀式の場があります。山頂に平地が開け、窪地になっています。そこに古い儀式の場がありました。いまでは瓦礫の山ですが、かつてはどのようであったか、まだはっきりとわかります。

 小さな儀式の場は、石でできています。おそらく、氷によってそこに運ばれてきたのでしょうが、それ以外の方法でも、その場所に石が運ばれてきました。その石を、四角形になるように並べました(左上図)。横から見ると、このように見えます(左図中)。全体を覆う屋根のような石があります。これが小さいほうです。大きい方の儀式の場は、同様の石からできています。石が一二個。円環状に並んでいます(左図下)。

 おそらく、いまから三〇〇〇〜四〇〇〇年前が最盛期だった儀式です。まだ人口が少なかった時代です。濃厚と牧畜しかなかった時代です。この儀式の最盛期には、この民族には文字がありませんでした。人々は読み書きということを、まったく思いつきませんでした。

 この儀式にはどんな意味があったのか、と問うことができます。「当時は読み書きがなかった」と、私は言いました。たとえば農作物を豊かに実らせようとするなら、それぞれの作物に適した時期に種を蒔かねばなりません。家畜の場合は、適時に交尾することなどが必要です。その時期は、地球と宇宙全体との関連によります。

 今日では、農事暦があります。それを見ると、きょうが何日か分かり、種を蒔いたり収穫する日が人間の思惟には拠らない、ということを人々は忘れます。人間は種を蒔く日や収穫をする日を、自分の思いどおりに決めることはできません。星の運行や月の位置から、種蒔きや収穫の日を決めねばなりません。今日カレンダーを作っている人は、昔の言い伝えにしたがって計算をしています。計算をして、種を蒔いたり収穫すべき日がいつなのか算出します。

 かつては種蒔きや収穫の日を、太陽に位置に従って決定していました。今日でも人々は太陽の位置によって適切な日を決定できますが、たいていの人々は太陽の位置や星の位置を目安にせず、カレンダーを見ます。当時は読み書きができなかったので、カレンダーを見るということは考えられませんでした。

 人類が読み書きを始めたのは、もっと後のことです。文字ができたのは、今から三〇〇〇〜四〇〇〇年前です。この地域での読み書きは、二〇〇〇〜三〇〇〇年以上前には溯りません。当時の読み書きは原始的なもので、今日のものとは比べられません。いずれにしても、住民の大部分は読み書きができませんでした。」

「山上でこのように円環状に並んでいる石を見ると、「太陽が天空を巡る」と思えます。太陽は静止しているということを私たちは知っていますが、太陽が動いているように見えます。太陽はさまざまな側から射して、影を作ります。その影を人間は毎日追っていけます。「朝、日が昇ると、ここに影ができる。日が高く昇ると、影はそちらにできる」と言うことができるます。影は、一年の経過のなかでも変化します。太陽が日々異なった位置から昇るので、影が変化するのです。

 当時、このようなことを観察していた学者=祭祀、ドルイド教の司祭は影を判断できました。「影がここにできると、春には畑でこれこれの作業をしなければいけない」ということが、ドルイド司祭にはわかりました。それを彼は人々に告げました。

 あるいは、影が別の位置にできると、牛を交尾させねばなりませんでした。一年のうちの決まった日に、動物は交尾しなければならないからです。いつ何を行なうべきかを、司祭は太陽が作る影から読み取ったのです。

 こうして、生活全体が太陽の運行にしたがって決められました。今日ではカレンダーに書いてあるので、人々は自分で見出そうとは考えません。当時は自分が源泉に赴いて、宇宙からものごとを読み取らねばなりませんでした。

 一定の時期、たとえば秋に、畑で何を行なうべきか、正確に決められました。司祭たちの指図によって、牛祭りの時期もきめられました。普段は家畜から遠ざけられている牛は、村を連れまわされました。このようにして、古代の祭りは手はずを整えられました。祭りは、このようなことに関連していたのです。

 ある石の配列は、ドルイド・サークルと呼ばれました。ドルメン、クロムレックがあります。石が立てられ、上を覆われます。なかに影ができます。

 人々は、日光が強まったり弱まったりするのを知りました。汗ばむか凍えるかを、彼らは感じたからです。しかし人々は、影が光と同様に異なっていく、ということを知りませんでした。光が異なるにしたがって、影が異なります。人々は今日、影の差異を見定めるという習慣をなくしました。古代の人々は、影の差異を見極める能力を身につけていました。人々は影のなかに霊的なものを見たのです。ドルイド司祭は日光の霊性を観察しました。土地にどの植物を栽培するとよいかは、日光の霊性に関連するのです。そのほか、この翳のなかには月の影響が非常によく観察されました。月の作用は、たとえば家畜の交尾に大きな影響を与えます。それが家畜の交尾の時期を決めるのに役立ちました。太陽を観察して一年が区分されました。」

「人間は考えることを学ばねばなりません。今日では崩壊した岩石が円環状に並んでいる様子を見ると、この廃墟から、昔はどうであったかを知ることができます。アングルシー島や、その他の海岸地帯、ペンマインマウルです。それらの遺跡を見ると、「人類のなかで多くのものが滅び去った。今日、人々は霊的な領域で新しい認識を必要としている。新しい認識によって、すべてを探求しなければならない」ということを、人々は知ります。

 ここから、儀式が生活に必要なものであったことを、みなさんは理解できると思います。のちに、儀式が無目的になった結果、人々は儀式から生命を奪ってしまいました。もはや理解することなく儀式を続けるようになりました。」

◎山田 英春『ストーンヘンジ ――巨石文化の歴史と謎』【目次】

はじめに

第一章 ストーンヘンジはどういう遺跡か
ストーンヘンジはどのような姿だったか/精緻な加工技術/二つの石の来歴/謎の多いブルーストーン/堀と土手、円形の囲い地/ストーンヘンジ建造と改造の歴史
コラム ストーンヘンジ未完成説/コラム どうやって運び、建てたのか?

第二章 ストーンヘンジを見る目の歴史
英雄物語の中のストーンヘンジ/高まる古代世界への興味/作ったのはローマ人かサクソン人かデーン人か/ケルトの祭司ドルイドの神殿としてのストーンヘンジ/「ドルイド教」の教祖/「真の宗教」を受け継ぐ者としてのドルイド/ストーンヘンジの形に基づいた町づくり/全てはドルイドの名のもとに/愛国主義を支えるストーンヘンジ/ドルイドのイメージの世俗化/美しく、ピクチャレスクなものとしてのストーンヘンジ/ストーンヘンジのガイドたち
コラム 巨石と天体の関係/コラム ヒュペルボレオイとブリテン島

第三章 発掘の時代
石と青銅と鉄と/新たな崩壊、本格的な発掘調査/「わかったことはとても少ない」/上空から見えたもの/工務局対ドルイド団体/放射性炭素による年代測定/大規模な発掘と修復/建造過程と年代の再構成/ミノア文明の落とし子?/幻の旅人を探して
コラム 巨石とフォークロア、オカルティズム

第四章 巨大な複合施設の中のストーンヘンジ
さらに遠い過去へ/農耕文化の伝搬/チェダーマンと狩猟採集社会/ストーンヘンジ周辺の景観/一万年前のミッシング・リンク/大きな家と深い穴/世界最古の家系図/集いの場と戦乱と/巨大な居住地/石は死者のため、木は生者のため/小さな家、囲炉裏と飾り棚/二つのウッドサークル/生者の領域と死者の領域をつなぐもの/冬至の大規模な饗宴/短命に終わった居住地/巨大な穴の列は何か/道はずっと前からそこにあった
コラム ストーンヘンジと音/コラム パワースポット、レイライン、癒やしの力

第五章 始まりの地から終末へ
西ウェールズから運ばれた遺骨/ブルーストーンの故郷へ/ストーンヘンジの前身か/海路説、陸路説に決着はつくか/新石器の暗黒時代?/新たな文化の始まり/北の果ての巨石の都/ボイン渓谷の巨大施設/「フレンチ・コネクション」/巨大なストーンサークルの時代/石の文化が滅びるとき/権力がモニュメントを生むのか?/壮大な共同作業/大陸から来た男/大きな爆弾
コラム 巨石時代の芸術とシンボル

あとがき/参考文献/図版出典一覧

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