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藤崎 彩織『ねじねじ録』/東畑開人×藤崎彩織「心のトリセツ」

☆mediopos-2557  2021.11.16

先日とりあげた
(mediopos-2552/2021.11.11)
『心はどこへ消えた?』の
臨床心理士の東畑開人と
「SEKAI NO OWARI」の藤崎彩織の
「心のトリセツ」という対談がある

藤崎彩織は
「くよくよ」でも「うじうじ」でもなく
「ねじねじ」と悩んでいるという

「ねじねじ」とは
「大小さまざまな歯車が絡み合っているような様子」で
「ああでもないこうでもないと、
前に回ったり後ろに回ったりする歯車」
「上手く噛み合わずに何度も止まりながら、
何とか回ろうとする歯車」

藤崎彩織は
「自分はこのままではどこにもたどり着かない」
という「ねじねじ」状態に陥る

その「ねじねじ」をエッセイにすることで
「少なくとも後ろ向きなねじねじから
前向きなねじねじにはなれた気がする」というが
「落ち着いてはまたぶり返しての繰り返し」だともいう

東畑開人は「ねじねじ」することは
論理的にじぶんを追い込んでしまう超自我から
心を守る力があるというが

藤崎彩織はその反面「論理的な思考」が
「自分の心が苦しいとか悲しいといった
負の感情に染まってしまったときに助けてくれる」ともいう

「ねじねじ」することで
じぶんを追い込む論理もあれば
その「ねじねじ」の袋小路から
じぶんを助けてくれる論理もあり
つまりは心は揺れながら
それなりのバランスをとっている

心がそのように揺れること
そのものにもまた意味があるのだろう
心が揺れなければ心は動きを止めてしまう

仏教で「止観」というのがあるが
それもまた心の動きを止めてなくしてしまうのではない
動いてこその心なのだ
要はその心の動き方

ゲーテの『ファウスト』の「天上の序曲」の
「人間は努力するかぎり迷うものだ」
という言葉を思い出すが
「ねじねじ」することそのものを
いかに創造的な迷いに導くかが大切のようだ

■藤崎 彩織『ねじねじ録』
 (水鈴社 2021/8)
■東畑開人×藤崎彩織「心のトリセツ」
 (文學界(2021年12月号) 2021/11 所収)

(藤崎 彩織『ねじねじ録』より)

「その日のライブを振り返っていた私に深瀬くんは言った。
「サオリちゃんって、いつもねじねじ悩んでるよね」
「ねじねじ?」
「そう、なんかいつも難しい顔しててさ。ねじねじ悩んでるって感じするじゃん」
確かに深瀬くんの言う通り、私の悩み方は、『くよくよ』でも『うじうじ』でもなく、『ねじねじ』である気がする。
『ねじねじ』という言葉からは、大小さまざまな歯車が絡み合っているような様子が浮かんだ。
ああでもないこうでもないと、前に回ったり後ろに回ったりする歯車。
上手く噛み合わずに何度も止まりながら、何とか回ろうとする歯車。
ねじねじ。まるで自分の頭から聞こえてきそうな音だと思った。」

「2020年は特にねじねじした年だった。音楽制作も行き詰まったけれど、小説家としての活動はもっと行き詰まっていた。
 デビュー作の『ふたご』を直木賞の候補にして頂いたのが2017年。それから3年経っているのに、何一つ形にできていないことに焦り、不安を振り切りたくてとにかく膨大な文章を階梯や。書きまくれば何か見つかるのではないか、振り返らずに直進すれば。ゴールに辿りつくのではないかと、ひたすた手足を動かす。
 でも、「自分はこのままではどこにもたどり着かない」ということに気づいて、私は立ち尽くしてしまった。」
「そんな時、ずっと一緒に仕事をしている編集者から「エッセイの連載を始めてはどうか」と打診された。」
「こんな状態の自分でも挑戦していいのなら。そんな気持ちで、『ねじねじ録』というエッセイの連載をさせて貰うことになった。」
「エッセイを書き始めると、いかに自分の心が追い詰められていたのかを改めて実感した。疲れていたし、酷く落ち込んでいた。歯車は幾つも錆びて、回ろうとするたびに軋んで嫌な音を立てる。
 でも、毎週短い文章を完成させていくことで、少しずつ錆びが撮れていくのも感じた。読み返してみると、良かったッポイントや反省点が分かり、次はこうしようと思うエネルギーが頭の中の歯車を回そうとする。そのうちにばらばらに動いていた歯車が同じ方向に動きはじめたのか、スランプ続きだった音楽制作の方もようやく噛み合い始めた。」
「リハビリのように始めたねじねじ録は、私にねじねじさせる時間を作らせなかった。ねじねじしている時間があったら、そのねじねじを書け。まるでそう言わんばかりのタイトルのエッセイを週に一回書く。
 結果的に、私はこのエッセイに救われたのだと思う。自分のねじねじしたところに嫌気がさしてねじねじし、そこから脱しようとねじねじし、脱せなくてねじねじしていた自分は、それらを書くことで、少なくとも後ろ向きなねじねじから前向きなねじねじにはなれた気がする。」

(東畑開人×藤崎彩織「心のトリセツ」より)

「東畑/あのエッセイはゼロリスクを考える上で、学びが大きかったです。藤崎さんが帰宅を急ぐあまり赤信号を無視して横断歩道を渡ったら、車と衝突して事故になってしまった。警察官からは「運転している人を裁判で訴えることもできる」と言われたけれども、ほとんどケガがなかったこともあって、「赤信号を渡ったのは私だから」とも思う。ここで「ねじねじ」するんですね。白黒をはっきりさせずに、考える。コロナ禍で「ゼロリスク」が目指されるときに、「ねじねじ」することは大事だと思うんですね。論理的に突き詰めて考えると白か黒かになるんだけど、エッセイは物事を「ねじねじ」させる。もちろん、論理的に考えた方がいいこともたくさんあるけれども、人間社会は複雑です。超自我って論理的に突き詰めてくるんで、「生きていること自体がリスク」ということになってしまいかねない。ですから、「ねじねじ」することに超自我から心を守る力があるように思いました。
藤崎/論理的に考えない方が救われることもあると思うんですけど、私の場合は、自分の心が苦しいとか悲しいといった負の感情に染まってしまったときに助けてくれるのは、論理的な思考だったりするんです。自分の心の仕組みというかシステムを論理的に理解すると、自分の性格が悪いから、負の感情に染まっているのではなくて、何らかの出来事によって、自分のシステムが作動して、負の感情に心が運ばれてしまったからなんだ、と自分を客観的に見られて、心を落ち着かせられます。」
「東畑/心のトリセツなんですよね。それがあると心を呑み込もうとしている感情などがから距離を取ることができる。それで、気持ちは落ち着くようになりましたか?
藤崎/それで万事がうまく行ったわけではなくて、落ち着いてはまたぶり返しての繰り返しで・・・・・・。結局、東畑さんが先ほど言っていた同じ脚本を何度も繰り返すことになりました。やっぱりそこから抜け出せていません。
東畑/みんなそうですよ。僕もずっと同じことを悩んでいます。でも、同じことを悩み考えているかあ、文章が生まれるのではないかと思います。悩んでいないことについては、文章を書けないんですよね。
藤崎/確かにそうですね。」

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