福岡伸一『ロフティング『ドリトル先生航海記』』(2024年10月 NHKテキスト)
☆mediopos3611(2024.10.8)
ヒュー・ロフティング『ドリトル先生航海記』が
福岡伸一の「100分de名著」になり
10月のNHK・Eテレで放送されている
『ドリトル先生』のシリーズは全十三巻
(第十三巻は作者の死後遺稿がまとめられたもの)
『航海記』は二巻目にあたる
シリーズはあの井伏鱒二の訳で
岩波少年文庫として刊行されているが
福岡伸一はみずから『航海記』を訳している(新潮文庫)
テキストには「フェアネスとは何か」と副題が付されている
福岡伸一は「ドリトル先生のようになりたいと切に願い、
そのために生物学者になった」のだという
ドリトル先生は「誰に対しても、どんな生き物に対しても」
常に公平(フェアネス)であり
「あらゆる生命のありように、真摯に耳を傾け」る
「センス・オブ・ワンダーを持ち続けた、
本当の意味での生物学者」なのだ
ドリトル先生は「ナチュラリスト」と自称している
それは「標本や剥製を集めて分類したり、
分析したりする博物学者」なのではない
そのように福岡伸一も
「およそ二十年にわたる分解的生命研究への脱線と、
分子生物学者としての挫折を経験」した後
ドリトル先生の偉大さに気づき
子どものころにそう思っていたような
「ナチュラリスト」への道を歩むようになる
その「ナチュラリスト」になるための条件について
講義では「ピュシス」の大切さとともに
新たな「ロゴス」を見つけることが示唆されている
「誰しも最初は「ピュシス」としてこの世界と出会」い
その「センス・オブ・ワンダーから出発」するが
「やがて、もっと知りたい、謎を解きたい、
隠された宝物を見つけたいと「ロゴス」の旅に出る。」
しかし「ロゴス」は世界を切り分け
そこで「切り分けられないものや、
切り分けると失われてしまうものは、
ロゴスの世界では「ない」ことにするか、
「見えない」ことにするか、
もしくはタブーにして、見えなくしてしまう。」
だからといって
ロゴスの良き側面を捨てるわけにはいかない
「必要なのは、新しいロゴス、
より解像度の高い言葉でピュシスを語ること。
これまでのロゴスでは捨象されてしまっていた
ピュシスを語り直すこと」なのだという
そのためにも
「ロゴスでは語り尽くせないピュシスがあることを
教えてくれる」ドリトル先生のように
自然を見つめ直すことで
「ピュシスの豊かさを語り直すロゴスを見つける」が
人生をまさに「航海」するにあたって重要になる
子どもに戻ることはできないし
戻っても仕方がないけれど
偏狭な「ロゴス」によって閉ざされた
「ピュシス」への扉を開けることで
子どものころにもっていた
「センス・オブ・ワンダー」を思い出せば
世界の景色はずいぶんと変わってくるはず
■福岡伸一『ロフティング『ドリトル先生航海記』』
(2024年10月 NHKテキスト)
■ヒュー・ロフティング(福岡伸一訳)
『ドリトル先生航海記』 (新潮文庫 2019/6)
**(NHKテキスト『ロフティング『ドリトル先生航海記』』〜「はじめに」より)
*「主人公のドリトル先生は、小柄で太っちょな英国紳士。生き物が大好きで、さまざまな動物と会話ができるお医者さんです。いつもシルクハットをかぶり、きちんとした身なりをしていますが、世間やお金のことには、まるで無頓着。愉快で、やさしくて、どちらかというと脱力系の愛すべき人物です。
そんなドリトル先生はが動物たちと繰り広げる奇想天外な冒険物語が、一連の『ドリトル先生』シリーズ。」
*「最初に書かれたのは『ドリトル先生アフリカゆき』です。刊行されたのは一九二〇年。これが大人気となって、たくさんの続編が書かれました。私が名著として選んだ『航海記』は、全十二巻シリーズの二巻目。なぜこの作品を選んだかというと、ここで初めてトミー・スタビンズくんという少年が物語の語り手として登場するからです。」
「『航海記』以降は、基本的にドリトル先生の助手となってスタビンズくんの一人称で語られるものが中心になっていきます。先生と一緒に航海の旅に出て、数々の胸躍る冒険をしたスタビンズくん。彼の目を通して、ドリトル先生という人物の魅力やその功績がいきいきと描かれていくのです。
なかでも『航海記』は、十歳になったばかりの少年が初めて経験した冒険旅行のお話です。」
「『航海記』の叙述には、もうひとつ素敵な工夫が施されています。ドリトル先生との冒険を、すでに「ずいぶん歳を取った」スタビンズくんに述懐させているのです。
回想録ですかた、地の文はすべて過去形です。しかし、会話部分は実際に交わされたときのまま、現在形で書かれています。つまり、物語のなかに二つの時間が流れているのです。
二つの時間軸があざなわれることで、ドリトル先生の物語は俄然、立体的になりました。子どもたちは、冒険旅行の顛末を追いつつ、まるで自分がその場に居合わせたかのようにワクワクしながら読みすすめることができます。」
*「私はドリトル先生のようになりたいと切に願い、そのために生物学者になったと言っても過言ではありまえん。ドリトル先生の素晴らしさや好ましさの本質————それが「フェアネス(公平さ)」にあります。誰に対しても、どんな生き物に対しても、ドリトル先生はつねに公平です。そして、あらゆる生命のありように、真摯に耳を傾けます。センス・オブ・ワンダーを持ち続けた、本当の意味での生物学者です。
ドリトル先生は、自分のことを「ナチュラリスト」と言っています。日本語に訳すと「博物学者」。でも、標本や剥製を集めて分類したり、分析したりする博物学者ではありません。私が目ざしたのは、もちろんドリトル先生のようなナチュラリストです。大人になった私は長い長い道草を経て、子ども時代に憧れた本来のナチュラリストに戻るべく大きな決断をしました。」
*「ドリトル先生のようになりたい————。その思いはスタビンズくんと同じです。大人になってもドリトル先生に満腔のリスペクトを持ち続けている私は、今でもスタビンズくんなのだと自負しています。
彼が『航海記』でドリトル先生の功績を伝えてくれたように、今回は私がスタビンズくんとなった、みなさんに『航海記』の物語世界をご案内しましょう。」
**(NHKテキスト『ロフティング『ドリトル先生航海記』』〜
「第1回 ドリトル先生の「フェアネス」」より)
*「『航海記』冒頭に名前が出てくる四人————スタビンズくんと三人の親友たちには、ある共通点があります。それは、社会の日影にいる人たちだということです。」
「ドリトル先生の本当の素晴らしさを知っているのは、彼らのような人々です。スタビンズくんもそんな彼らと心を通わせ、学校では教えてくれないたくさんのことを学んでいます。社会の日陰にいる人々がドリトル先生に心酔し、リスペクトする一番の理由————それは先生の人柄と「フェアネス」です。」
**(NHKテキスト『ロフティング『ドリトル先生航海記』』〜
「第2回 「道のり」を楽しむ」より)
*「船が難破したというのに、のんきにひげを剃っているドリトル先生。この嵐でたくさんのものを失ったのに、いつもと変わらずにこにこしています。なぜって、先生はナチュラリストだからです。
自然を相手にしていると、がっかりすることのほうが多いものです。自然はそう簡単に扉を開いてはくれません。だから、焦らず、注意深く観察しながら、じっと待つ。すると、ほんの少しだけ扉を開いてくれるような奇跡的な瞬間が訪れます。センス・オブ・ワンダーを感じる瞬間です。それがわかっているから、どんなピンチに遭遇しても、ドリトル先生はオロオロしたり、せかせかしたりしないのです。
先生は、お金にも頓着しません。先生が心配しなくても、ポリネシアをはじめとする周囲の動物たちが知恵を働かせて、万事うまくいく。いつもフェアで、正直で、ちっともあくせくしていない。「こんな大人がいるんだ!」という発見は、少年少女の読者には大きな喜びです。
大人になった読者も気がつくでしょう。ドリトル先生のように、いくつになっても少年のような無垢なセンス・オブ・ワンダーを保ち続けることはできるし、今からでも取り戻すことはできる。まさに「ネヴァー・トゥ・レイト(never too late)」。これは大人の背中を押してくれる物語でもあるのです。」
**(NHKテキスト『ロフティング『ドリトル先生航海記』』〜
「第3回 「ナチュラリスト」の条件」より)
*「ドリトル先生のようなナチュラリストになりたいと思った昆虫少年(引用者註:福岡伸一)は、およそ二十年にわたる分解的生命研究への脱線と、分子生物学者としての挫折を経験しました。そして、幼い頃に憧れたドリトル先生やロング・アローの偉大さに、改めて気づいたのです。
機械論的な生物学に邁進していたときも、ドリトル先生やファーブルは意識のどこかにつねにいたのです。そうでなければここに戻ってくることはなかったでしょう。」
*「誰しも最初は「ピュシス」としてこの世界と出会います。ピュシスとは、本当の自然。ギリシャ哲学では、とらえどころのない、瑞々しい自然を指します。私たちは自然の美しさや精妙さに気づく喜び、センス・オブ・ワンダーから出発し、やがて、もっと知りたい、謎を解きたい、隠された宝物を見つけたいと「ロゴス」の旅に出る。ロゴスとは言葉であり、論理、知識であり、専門性です。
人間は、勉強したり学問をしたりすることでロゴス的に鍛えられ、成長していきます。そして私たちは言葉によって世界を理解しようとしますが、この世界には、ロゴスでは語り尽くせないものあがる。自然そのもの、生命の不思議、あるいは宇宙のあり方。これらはピュシスに属するものです。それをロゴスで解明するということは、すなわちロゴスによって切断する、ということです。
ロゴスは「これは犬」「あれは猫」というふうに名づけて世界を切り分けていきます。切り分けられないものや、切り分けると失われてしまうものは、ロゴスの世界では「ない」ことにするか、「見えない」ことにするか、もしくはタブーにして、見えなくしてしまう。人間がタブーにしていることのほとんどは、ロゴスでは制御できない自然のあり方です。
ならばロゴスを捨て、ピュシスの素晴らしさに驚いていればいいかというと、それもまた違います。人間は言葉の力によって思考し多くの自由を獲得していきたし、さまざまな差別や偏見を克服してきたわけですから、ロゴスの良き側面は大切にしなければいけません。必要なのは、新しいロゴス、より解像度の高い言葉でピュシスを語ること。これまでのロゴスでは捨象されてしまっていたピュシスを語り直すことだと思います。
ドリトル先生は、ロゴスでは語り尽くせないピュシスがあることを教えてくれる存在として、いつも私たち読者を見守ってくれています。ドリトル先生のようなあり方で自然を見直すことができれば、ピュシスの豊かさを語り直すロゴスを見つけることは、きっとできるはずです。」
**(NHKテキスト『ロフティング『ドリトル先生航海記』』〜
「第4回 小さな鞄ひとつで軽やかに生きる」より)
*「小さな旅でも、あるいは物語世界を旅するだけでも、さまざまな気づきや発見があるものです。発見の喜びは、もっと知りたいという気持ちを触発し、世界の見方を変えてくれる。それが、自分が「変わる」ということなのだと思います。
人生は、航海のようなものかもしれません。航海に出るまでは子ども時代。出航してすぐは、いわば青年期。その後成人し、社会に出て、さまざまな困難にぶつかり、現実に揉まれながら成長していく。どこかのタイミングで自分の原点を思い出し、大きく舵を切ることもあるでしょう。ときに迷走してしまうこともあるかもしれません。
そんなときのために、役立ちそうな知識やツールで武装したくなる気持ちもわからります。でも、ドリトル先生がしたことはその逆です。」
「私たちは、つい荷物を抱えすぎてしまいますが、荷物に煩わされたり、振り回されたりしていないでしょうか。」
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