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今泉 文子『ノヴァーリス/詩と思索』

☆mediopos2604  2022.1.2

「学問はいずれも
 −−−−哲学となった後に
 −−−−詩(ポエジー)となる」

言葉を紡ごうとするときには
ノヴァーリスのこの言葉が
心のどこかで響いてくる

学ぶことから
哲学は失われてはならないし
哲学は哲学のままでは
生きた力をもつことはできない

それは詩(ポエジー)とならなければ
生きた創造性が失われてしまうからだ

さらにいえば
「詩は歌に」なることで
精神を自由に羽ばたかせることができる

そのとき忘れてはならないのは
それは過去にあった
「黄金時代の復活」のためではなく
あらたな自由への道であるということだ

学ぶことは
哲学を経て
詩に
そして歌になる
過去へではなく
未来へむかう祈りとして

とでもいえるだろうか

そうすることで
「わたし(自我)」はみずからを
「わたしの芸術作品として、
高次のわたしへと形成」する
はるかな道へと向かわせることができるが

自我は自我のままでは終わらず
さらに自我を越えた
高次の自然学への道ともならねばならない

ノヴァーリスに興味をもつようになったのは
ベンヤミンの
『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』からだが
深くその言葉が魂に届くようになったきっかけは
中井章子の
『ノヴァーリスと自然神秘思想/自然学から詩学へ』だった

それ以来最初に挙げた
ノヴァーリスの言葉であらわされる理念は
忘れることのできない指針となっている

さて今回主に引用紹介をしている
今泉文子『ノヴァーリス/詩と思索』は
今年(二〇二二年)がノヴァーリスの
生誕二五〇年を迎えることもあり刊行されているようだ

今泉文子のノヴァーリスに関する著作は
翻訳を除けば四冊目であり
最初の『鏡の中のロマン主義』から
三十年以上に渡り
ノヴァーリスと向き合ってきていることになる
この機会にあらためて
ノヴァーリスを読み直すことにしたい

学ぶことが
じぶんのなかに
自由への歌を響かせるものとなるように

■今泉 文子『ノヴァーリス/詩と思索』(勁草書房 2021/11)
■今泉 文子『ノヴァーリスの彼方へ/ロマン主義と現代』(勁草書房 2002/1)
■今泉 文子『ロマン主義の誕生/ノヴァーリスとイェーナの前衛たち』(平凡社 1999/7)
■今泉 文子『鏡の中のロマン主義』(勁草書房 1989/5)

(『ノヴァーリス/詩と思索』より)

「おりしも二〇二二年は、ノヴァーリスことフリードリヒ・フォン・ハルデンベルクの生誕二百五十年にあたる。
 近代の幕開けから現代へいたるこの二百五十年のあいだに輩出した数多い詩人・作家たちのなかでも、〈ドイツ・ロマン派〉のノヴァーリスほど極端な毀誉褒貶にさらされつつ、しかもなお現代思想のなかで意味深く取り上げられている作家は、他にあまり例をみない。」
「ノヴァーリスが書き遺したものは、未完の小説ふたつ(『ハインリッヒ・フォン・オフターディンゲン』と『サイスの弟子たち』)、数多くの詩(長編『夜の賛歌』、『聖歌』のほか、若書きの詩も多い)、講演風の小論(『キリスト教世界、またはヨーロッパ』)やアフォリズム風の作品(『信仰と愛』)、などのほか、夥しい数の断章(最初の断章集は「花粉」と題されて「アテネウム」誌に掲載、またロマン主義的百科全書の試み「一般草稿」のほか、多方面にわたる思索を書きつけた大量の断章がある)や、研究ノート(膨大な「フィヒテ研究ノート」やカント、ヘムステルホイスなどの哲学研究ノート、フライベルク鉱山学校時代の「自然科学研究ノート」など)があり、また、ロマン主義解明にも意味深い多くの書簡や日記がある。
 ハルデンベルクは夭折した。しかし、じつに大量の断片から成り立つ「ノヴァーリス」という思索圏は、ひとつひとつの断片がなおも生命を孕んで燃え上がろうとしている。」

「「一個の芸術作品」として「わたし/自我」を創るために、「フィヒテ研究」以来、かれがどれほど多方面から自我を攻囲しようとしていたかは、さまざまに形容詞をつけて思索しているところからも察せられよう。いわく、永遠の自我、絶対的自我、経験的自我、理論的自我、実践的自我、自由な自我、分化した自我、神的自我、高次の自我、理想的自我、統合的自我、間接的自我、道徳的自我、必然的自我、政治的自我、純粋自我、独立した自我、完全な自我、想像的自我、現実的自我などと。このようにさまざまな切り口で思索をめぐらしつつ、〈わたし(自我)〉とは、わたしがわたしをわたしの芸術作品として、高次のわたしへと形成する途上にあるものとみなす。(・・・)「芸術作品として自我を形成する」というのは、たんに観念上の話なのではなく、当然、具体的・実践的なものでなければならない。その方途は、対象のすべてを一個の〈きみ〉(親称のDu)としていくという要請になる−−−−「われわれはいっさいを一個の〈きみ〉へ−−−−第二の〈わたし〉へ−−−−変えねばならない。もっぱらそうすることによってのみ、われわれは自分自身を、あの大いなる自我へ−−−−あの一であると同時に全であるものへ−−−−高めるのである」(「一般草稿」)」。

「ある断章に「魔術主義、あるいはファンタジーの統合主義。哲学はここではまったく魔術的観念論として現れる」と書かれている。(「一般草稿」)かれは自分の哲学論−−−−かれの言う「哲学の哲学」−−−−を記した断章群に「ロゴロギー的断章」というタイトルを付けたが、この「ロゴス論」という言葉でかれが目ざしたのは、従来の哲学と異なる「来たるべき哲学」であった。かれは「従来の哲学探究は、哲学をまず打ち殺し、次いで分解し、解体してきた。その残滓からなる成分が哲学の成分だと、人びとは信じてきた」(「準備録))と断じ、そんな「哲学」に対して「来たるべき哲学」は、悟性と想像力を統合したものとする。(・・・)この時期は、「分業」を基本とする資本主義が展開しだしたことに歩調を合わせるように、あらゆるものが分化・分裂していく時期であった。この「近代」の開始とともに、思考さえも分化・分裂し、統合性を失っていく。であればこそ、このロマン主義者は、「思索をもう一度統合的なものにせよ」と主張する。「われわれの思考は、従来、ただ機械的か−−−−推論的か−−−−原子論的か−−−−あるいはただ本能的か−−−−力動的なものかであった。いまや。分裂したこれらを統合する時代がやってきたのではないか?」と問い、「怠惰な者や未熟な者のためにあるにすぎない論題の分析的叙述」(同)を脱して、「真に統合的に哲学する」ことをうながすのである。」

「「詩作することと一篇の詩を作ることは異なる」(「準備録」)という言葉が端的に示すように、〈詩作〉とは、ノヴァーリスにおいて、人間に本来的な創造的営為であり。また、それ自体を反省するものである。この自己自身を反省する詩は「来たるべき詩、超越論的ポエジー(transzendentale Poesie)」(同)と呼ばれる。ところでノヴァーリスは「ほとんどすべての人間は、わずかながらもすでにして芸術家なのだ」と言っていた(同)。「だれでもが為す」という点で、人間(ホモ・サピエンス)にとって詩作とは、じつに思索と同じことであり、逆に、思索とはとりわけて創造的なものであり、また、そうでなければならない、と言うのだ。」
「思索とは創造的でなければならないし、逆に詩作とは創造的な詩作なのである。あるいは別のおもしろい言い方を挙げると、「悟性の詩が哲学である−−−−それは、悟性が自己自身を跳び越える最高の跳躍−−−−悟性と想像力の統合−−−−である」(「準備録」)となる。」
「学問はいずれも−−−−哲学となった後に−−−−詩(ポエジー)となる」(「一般草稿」)という言い方もなされる。対象に向ける注意深い眼差しに裏打ちされた思索が、真の学を、哲学を、形成する。その思索は、表現するときはじめてクリティカル(判定しうる、決定的な)なものになるからには、必然的に詩を呼び込む。」

「「われわれの言語−−−−それは当初あるかに音楽的であったが、しだいにかくも散文的に−−−−かくも調子はずれに−−−−なってしまった。いまではさらに鳴り響きに−−−−騒音に−−−−なってしまった」(「一般草稿」)。そうであるならと、このロマン主義的哲学詩人は「詩はふたたび歌にならなければならない」と言う。
 「詩は歌に」と、ポエジーの本源的な音楽性をふたたび取り戻そうとあえてうながすのは、言うまでもなく「お楽しみや、お気に入りや、趣味の対象」とするためではなく、さりとて「芸術の本質を規定している厳格な冷徹さ」に「低次の美」(ベンヤミン)でもって覆いをかけるためでもない。それは、ノヴァーリスならではの〈認識〉に−−−−感性と精神あげての認識に−−−−かかわる独自の思念のゆえである。」
「音楽を聴くと精神が快く、自由になるというだけの話ではなく、文字記号による詩が〈歌〉になったとき精神が自由になる、ということであり、まさしくこのことが重要なのだ。精神はただ機械的に思考に思考を重ねる(DenkenにNachdenkenを)のではなく、歌となった詩のなかを「インドの故郷」にいるがごとくに自由にのびのびと逍遙するし、そうでなければならないというわけである。」
「巧みな遊戯者となった精神、あるいは思索家、哲学者についてこんな言い方もされる−−−−思索家の自己形成と熟練度が増すとともに、自由も成長する。(自由と愛はひとつのことなのだ)[・・・]しまいに哲学者は詩人となる。詩人とは、最高度の思索者、もしくは最高度の感性をもった者にすぎない。(詩人の程度)詩人と思索家の区分けは見かけ上のものにすぎない−−−−しかもそれは両者の短所になってしまう」(「一般草稿」)。ここで言われる自由とはただ放恣を許すということではなう。ノヴァーリスは「精神ほど自由なものはないが、同時に、精神ほど、強制しうるものはない」(「準備録」)とも言う。自由だからこそ、みずからにおいてみずからを強制できるとするのである。」

「  世界は、生あるものにはどんどん果てしのないものになっていく−−−−したがって、多様なもの同士の結合にけっして終わりはありえず、思考するわたし[自我]にとっては無為という状態は決して訪れない−−−−黄金時代が現出するということもありうるかもしれない−−−−しかし、それは事物の終焉をもたらすものではない−−−−人間の目標は黄金時代ではない。(「フィヒテ研究」)

「人間の目標は黄金時代ではない」−−−−ノヴァーリスの最高の理念をただ「黄金時代の復活」とのみする者は、この言葉を肝に銘じてほしい。」

「「理念の楽園を創る−−−−もろもろの理念の断片を探し集め、「それらの理念のすべてに固有の土壌と−−−−気候と−−−−格別な手入れと−−−−本来あるべき隣人とを与える
」仕事をするのは思索家であるとして、ノヴァーリスは、思索家がその造園作業に「見事な」腕を発揮するのは、以下のような仕儀になると言う。

  思索家の自己形成と熟練度が増すとともに、自由も成長する。(自由の程度)。方法の多様性が増し−−−−ついには、思索家はどんなものからもあらゆるものを作りだせるようになる−−−−哲学者は詩人となる。詩人とは、最高度の思索者、もしくは最高度の感性をもった者にすぎない」(「一般草稿」)。

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