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橋本 麻里『かざる日本』

☆mediopos2619 2022.1.17

「「かざり」とは何のためのもので、
どんな機能を持つのか」

「この世ならざる聖性を招き寄せること」
であると著者は言う

「この世ならざるもの」を招き寄せ
日常を異化し聖化し荘厳する

「日常を律する道理や合理性と
相反するベクトルを帯び」た「かざり」

本書でとりあげられているのは
組紐・座敷飾り・供花神饌・紅・香木・鼈甲
帯・茶室・薩摩切子・変化朝顔・結髪・料紙装飾
表装・刀剣・音・螺鈿・水引折形・ガラス・和食だが

物・場・色・香り・音・味など
あらゆる領域において
「かざり」という非日常のなかに
さまざまな「聖性」が招き寄せられる

著者は「千利休の周りをうろつく」ことで
「豊かな簡素」と「貧しい簡素」の違いに
気づくきっかけになったという

おなじ「簡素」でも
豊かなそれと貧しいそれとでは
プレ(前)とポスト(後)の違いがある

現代では過度な装飾を外した
シンプル指向の日用品などが普及しているが
ほとんどの場合それは「貧しい簡素」にすぎず
「自分の趣味、好み」が確立した後で
それを指向しているのではない

ひとつの流行の後追い感覚でしかないから
世の大衆的流行が変われば
その指向へと向かってゆくことになる
「みんなで渡ればこわくない」である
そんな「みんな」の場には「聖性」は訪れない

「豊かな簡素」は
「たとえば実体が「ない」ところに、
その空白を埋めるためのイメージを、
観る者それぞれに異なる形で引き出してくる、
という高度な操作」が必要とされる
その「簡素」は
「極限の豪奢を可能態として蔵」してもいるのだ

この豊かさと貧しさは
あらゆる思想や表現においてもいえることだろう
考えることにおいても
言葉を使うことにおいても
歌うということにおいても
「豊かな簡素」と「貧しい簡素」とは
まったく対局にある「簡素」だといえる

その意味であらゆる真性の「かざり」は
閉ざされた日常性に裂け目を入れ
そこに聖性を招き入れるために
「豊かな簡素」へと向かう
高度な営為としてとらえることができる

■橋本 麻里『かざる日本』
 (岩波書店 2021/12)

「かざりを関知し、コントロールできるのは、視覚に関わる領域だけではない。嗅覚、聴覚、触覚、味覚という感覚に触れるものすべて、あるいはそのバリエーションとして、温度なども含まれるかもしれない。時間の過ぎ方、空間の感じさせ方でも、できることがあるだろう。いったい「かざり」とは何のためのもので、どんな機能を持つのか。
 とうてい考え尽くせるものではないが、今の時点での仮の結論は、「この世ならざる聖性を招き寄せること」というものだ。キッチュな形をとることも、荘厳な姿で顕れることもあるだろう。いずれにしても、日常を律する道理や合理性と相反するベクトルを帯びることに変わりはない。一九九〇年までフィギュアスケートの種目だった「コンパルソリー」は、課題の図形を滑走によって描き、その滑走姿勢と滑り跡の図形の正確さを競った。同じように、日常の道理をいくらトレースしても、そこに聖なるものが顕現するための「裂け目」は生じない。一時的、仮設的で、過剰であるものの存在こそが、この世界の枠組みに束の間の亀裂を生じさせて、聖なるものが不気味な貌を覗かせる。人間は造形史の始まりから、その相貌に魅了され続けてきた。
 あるいは、「簡素」が最後まで人為に留まろうとするもの、その極限をみようとするものであるなら、「かざり」は人為を梃子に、聖なるものを迎え入れようとする働きだといえるかもしれない。どちらが欠けても成立しない、対であるべき人の営みだ。この両輪の働きから生み出されてきたものが、列島の美術史に営々と積み重なり、ぶ厚い層を成している。」

「現代では簡素、シンプルを指向する日用品が多様、かつ広範囲に普及しているため、「取りあえず装飾から逃れる」だけなら、さほど難しくはない。何が「いい」のか、自分の趣味、好みが確立されていない時期には、灰汁抜きとでもいうのか、ただただシンプルに徹していられるのは楽なものだ。そこからどういう趣味—————テイストに進むのかは、たとえば水野学『センスは知識からはじまる』(朝日新聞出版、二〇一四年)の書名かが極めて端的に示しているとおり、それぞれが積んだ経験、確立した価値観によって異なる。そして「それ以前」の迷走期は往々にして、「黒歴史」と呼ばれることになる。
 私自身は仕事のなりゆき上、茶の湯に親しみ、千利休の周りをうろつくようになって—————ひとまず「豊かな簡素」と「貧しい簡素」とでも呼んでおくが—————「簡素」にもいろいろあることに、朧気ながら気づいた。ここで「豊かな簡素」と呼んでいるものは、一見して「簡素」に見せるために周到に計画し、手数をかけ、隅々まで差配する側の意識を行きわたらせた存在だ。わび茶の流行期、都市の喧噪のただ中にあって、周囲を木々で覆い、あたかも山中の隠遁者の庵のごとき草案茶室を営み、世俗から離れて客をもてなすフィクショナルな場を「市中の山居」と呼んだ。むろん主も客も、遁世者どころか権力や富のそば近くでその腐臭を嗅いで生きる者たちであり、欺瞞を十分に承知の上で入れ込む、真剣極まりない「ごっこ遊び」の舞台というわけだ。
 本来そうではない者が、「みすぼらしいようにする。目立たないように姿などを変える」ことを、「やつす」と言う。折口信夫はその始まりを、「青草を結束ひて蓑笠として、宿を衆神に乞ふ」(『日本書紀』)スサノオノミコトの姿に見、「笠を頂き簔を纏ふ事が、人格を離れて神格に入る手段であつたと見るべき痕跡がある」と記す(『國文学の發生・第三稿』一九二九年。」その延長線上に、貴種流離譚の系譜に連なる「高位の若殿や金持ちの若旦那などが流浪して卑しい身分に落ちぶれた姿を見せる演技、またはその演技を中心にした場面」という、歌舞伎の「やつし事」が成立する。」

「極限の豪奢を可能態として蔵した場に位負けしない「簡素」は、難物だ。そぎ落とすだけの「貧しい簡素」は、さほど訓練も知識もなく、誰でも簡単に実現できる。だが「豊かな簡素」は、たとえば実体が「ない」ところに、その空白を埋めるためのイメージを、観る者それぞれに異なる形で引き出してくる、という高度な操作を行う必要がある。そういう意味で、「利休道具」と総称される茶道具類は、「豊かな簡素」の希有な成功例と呼びべきものだろう。」

「『「かざり」の日本文化』でも、文体をテーマとする本田和子の論考「ことの葉をかざる—————古屋信子の文体」を収録するなど、視覚芸術以外への目配りを見せているように、かざりの働きは物質だけに限定されるものではない。「過剰な装飾語で覆われた言葉の連なりもまた、「ひらひら」的ではないだろうか。なぜなら、それれは聴覚イメージに転化されるとき、「ひらひら」と揺れる言葉として耳に訪れるからである。(中略)「ふる(震る、振る)」とは、「ものが生命力を発揮して動く」意であるという。振られ、揺り動かされることで、活力は沸き立ち、四辺に溢れるだろう。(中略)ふるい時代に神に仕える女たちは、「ひれ」を振りつつ舞うことで神を招いたとされるのもこのせいであろうし、畏服の揺れが時として一種の媚態と見なされ、若い娘たちの振り袖が、あるいは女学生の髪のリボンが、優れて挑発的に機能したのも同様の理由であろう」(「ことの葉をかざる—————古屋信子の文体」)

《目次》

まえがき

組紐  はじまりの紐
座敷飾り  かざる方程式
供花神饌  聖なる奇観
紅  赤の蕩尽
香木  見ることも書くことも叶わぬかざり
鼈甲  鼈甲は眼で舐めろ
帯  神々を招く帯
茶室  黄金の仮想現実
薩摩切子  ガラスの剛毅
変化朝顔  奇想の花
結髪  髪を制するかたち
料紙装飾  光ふる紙
表装  再創造としての表装
刀剣  武士の魂は「おかざり」か?
音  音の祭り
螺鈿  本質としての表層
水引折形  水引に張りつめる力
ガラス  光を封じたグラス
和食  懐石にしぶく徴
かざる日本  かざりの働き

あとがき
図版出典一覧
索引

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