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村上靖彦『客観性の落とし穴』

☆mediopos3239  2023.9.30

とりわけここ数年の
コロナ禍や恐るべきワクチン薬害という
だれもが少なからず影響を
受けざるをえなかったことから
あらためて浮き彫りになったことがある

本書は『客観性の落とし穴』
ということで

「エビデンスはあるんですか」
「数字で示してもらえますか」
「その考えは客観的なものですか」

というように数値化や統計化にばかり
価値が置かれるようになったことへの警鐘として

質的に異なった個別の「経験の生々しさ」による
「一人ひとりの視点から見た世界」の重要性から
「社会的な困難のなかにいる人、
病や差別に苦しむ人の声を尊重する社会」を
示唆するものだが

昨今浮き彫りになっているのは
「エビデンス」が「エビデンス」でさえなく
「数字」が「数字」でさえなく
「客観性」が「客観性」でさえなくなってしまっている
そんな事態である

「落とし穴」は
「客観性」以前のところにある

いうまでもなく
現状の惨禍は「数値化」「客観化」の世界が
盲信されているため
逆説的に起こっているともいえる

端的にいえば
多くのひとは自分で考え確かめ
蓋然性の高い判断によって行動するのではなく
「権威」と「利益」そして「評価」や
それらによって作られる「不安」や「恐怖」によって
行動する傾向があるということである

それらの傾向は
「教育」「政治」「メディア」
そして「科学」と称されるものによって生み出される
言葉を換えていえば「洗脳」される

「エビデンス」「数字」「客観性」を
与えてもらうのではなく
じぶんで確かめ考えることさえ怠らなければ
そしてそのなかで蓋然性の高い安全な行動を
とることさえできれば
コロナ禍もまたワクチン薬害も
拡大することはなかったはずだが

じぶんで確かめ考えることなく
「権威」の指示を信じ込みそれに従ったがゆえに
それらの拡大を抑えることができずにいる

「エビデンス」「数字」「客観性」を
「権威」から与えられることだけで
それを盲信してしまった結果である

それは知識人とされるような
アカデミックな立場にある人も同様である
そうした方にとっても「客観性」を
担保してくれている「権威」から離れ
自分で考えることを怠っているという現状がある
そしてその錯誤に気づいても
プライドのためか利益のためか
それを表明しないままでいる

現代はかつての時代とは異なり
なんらかのかたちで
ある程度じぶんで確かめることは可能なのだが
「権威」に従うことを条件づけられているとき
パブロフの犬のようになってしまい
そこから抜け出すことが難しくなっているのだろう

「客観性の落とし穴」に気づくためには
少なくとも「客観性」そのものの有効範囲について
その「エビデンス」こそ確かめておく必要がある

「落とし穴」には
プレ(以前)の落とし穴と
ポスト(以後)の落とし穴がある
その両側面から自己検証が求められる

■村上靖彦『客観性の落とし穴』
 (ちくまプリマー新書 427 2023/6)

(「はじめに」より)

「大学一、二年生向けの大人数の授業では、私が医療現場や貧困地区の子育て支援の現場で行ってきたインタビューを題材として用いることが多い。そうしたとき、学生から次のような質問を受けることがある。

「先生の言っていることに客観的な妥当性はあるのですか?」

私の研究は、困窮した当事者や彼らをサポートする支援者の語りを一人ずつ細かく分析するものであり、数値による証拠づけがない。そのため学生は客観性に欠けると感じるのは自然なことだ。一方で、学生と接していくと、客観性と数値をそんなに信用して大丈夫なのだろうかと思うことがある。「客観性」「数値的なエビデンス」は、現代の社会で真理とみなされているが、客観的なデータではなかったとしても意味がある事象はあるはずだ。

 数値に過大な価値を見出していくと、社会はどうなっていくのだろうか。客観性だけに価値をおいたときには、一人ひとりの経験が顧みられなくなるのではないか。」

(「第1章 客観性が真理となった時代」より)

「どうも客観性という言葉は一九世紀はじめには新語であったものの一九世紀半ばには普及したようなのだ。
 「客観性objective」という言葉は、昔から存在はしたが、一七世紀には「主観的」という意味をあらわしていた。例えば哲学者のデカルトは、一六四一年に出版した主著『省察』のなかでrealitas objectivaという概念を用いた。現在の語感ではオブジェクトに関わるのだから「客観的実在」と訳せそうに思えるが、実際には「思い描かれた実在」のことだった。(・・・)
 客観的なデータこそが正しいというのは今ではあたりまえの感覚だが、歴史のなかで徐々に生まれた発想だ。」

「「科学の客観的価値とはなにか」と問うとき、その意味は「科学はものごとの本当の性質を教えてくれるか」ということではない。「科学はものごとの本当の関連を教えてくれるか」とうことを意味する。

 個々の対象ではなく対象間の法則こそが客観性だとみなされるようになるのだ。法則性が重視されることで、人間の関与は一層抹消される。さらには法則の方程式にはどんな数値が代入されてもよいわけだから、個別の対象も抹消される。数好きと数値だけが残るのだ。
 法則性の追求によって、あらゆる学問の成果は研究者の意識を離れて、客観的に保証されるようになる。図像も機械による測定も離れて、論理的な整合性こそが、自然の科学的真理を言い当てると考えられるようになるからだ。」

(「第2章 社会と心の客観化」より)

「自然が客観的な真理となり、社会が人から切り離されて客観的事象となっていく(・・・)その過程で、人間の経験は科学的知見から切り離された。ところが客観化の流れが拡大し、人間の経験までもが客観的に記述されようとする。」

「自然科学、社会学、心理学は、人間の経験から独立したデータを求めることで、自然という客体、社会という客体、心という客体を生んだ。三つの客体が生まれるどのプロセスにおいても、人間の主体的な経験は消去されていった。あるいは心理学がそうであるように、経験そのものがデータとなって数値へと切り詰められていく。人間の経験は、感覚や感情、体の動きだけにとどまらない。対人関係のさまざまなやりとりや、社会の影響。自然とのやりとりを含みこむ。自然・社会・心の客体化を通じて自然・社会・心が「モノ」あるいはデータになるとき、経験という「やりとり」が視野の外へと消される。
 このとき一人ひとりの一人称的な経験と二人称的な交流の価値が切り詰められていく。客観化する学問そのものが悪いわけではない。客観化が、世界のすべて、人間のすべて、真理のすべてを覆い尽くしていると思いこむことで、私たち自身の経験をそのまま言葉で語ることができなくなることが問題なのだ。」

(「第3章 数字が支配する世界」より)

「数値至上主義は偏差値に限った話ではない。社会に出たらあらゆる活動が数値で測られる。
(・・・)
 つまり個人かた組織、国家にいたるまで、子どもから大人にいたるまですべて数値で評価されている。数値に基づいて行動が計画・評価され、価値が決められるのだ。」

「もちろん数値化されるのは人だけではない。自然と社会を含む森羅万象が一九世紀にいたって数値で測られるようになった。そして、この数値化は、統計学の支配という形を取ってきた。たとえば現在、医療の世界では「エビデンス(根拠)に基づく医療(EBM)が絶対的価値を持つ。これは統計学的に病態を分析し、統計学的に有効であると認められた治療法を選択するという営みだ。」

「エビデンスによって有効とされる治療を選ぶプロセスには際限がない。病が進行していくプロセスのなかで、効率は出る確率が高い治療法が選ばれることが多いだろう。しかし確率が高いといっても「四〇%の人にはこの治療法が有効であった」という意味であり。残りの六〇%の患者には効かない。つねに数値をめぐって患者は「効かないかもしれない」と不安な状態に置かれることになる。」

「科学哲学者のイアン・ハッキング(一九三六−)は、世界そのものは数学化したときに、世界は統計(確率)によって支配されることになったと書いている。」

「そもそもリスク計算を重んじる社会が生まれる前提として、社会学者のウルリヒ・ベックは、経済活動における個人主義、自己責任論による支配の問題点を挙げている。」

「個々人が責任ある行為者とみなされ、行為がもたらすネガティブな結果のリスクが計算される。さらには、そのリスクに責任を負うのは、国やコミュニティといった集団ではなく個人である。このような社会では、未来のリスクを見越して個人個人が備えることが、合理的な行動となる。
 このことは、人は外から強制されるのではなく自ら進んで、社会規範にしたがっていく身振りにつながる。」

(「第4章 社会の役に立つことを強制される」より)

「数値化・競争主義は、人間を社会にとって役に立つかどうかで序列化する。その序列化は集団内の差別を生む。その最終的な帰結が優生思想と呼ばれるものである。」

「数値において優秀な人間と劣る人間という序列化が生まれ、「劣る」とされた人が差別されるとともに、排除される。実のところ排除の線がどこで引かれるのかは、定まっていない。そのつどの政治経済状況に合わせて変化する(政治経済には顔はない)。数値で社会が序列化されている限り、次は自分が排除されるかもしれないのだ。」

(「第5章 経験を言葉にする」より)

「私は客観性と対照させて「経験の生々しさ」という言葉を使っている。数値によって測られるのが事物の特性だ。これに対して、経験の生々しさは、経験の強度にかかわっている。単にモノがそこに存在するだけでは生々しいとはいえない。人がそこに巻き込まれていて、出来事や状況から触発されて、人が応答せざるをえないときに生々しく切迫する。
 さらに、経験の生々しさは生きている現実感の土台であるが、言葉で表現し尽くすことができない。(・・・)このことは同時に、経験は語り得ないものでもあり、沈黙することも尊重されるべきであるということも意味している。」

(「第7章 生き生きとした経験をつかまえる哲学」より)

「一人ひとりの視点から見た世界を尊重する記述の到達点は、個別の経験をその構造や背景とともに描き出すことである。また、一人ひとりの経験は質的に異なるので、比較し得ない部分を必ず持つ。そしてこの独自の部分こそ聞き手や読者を触発する。」

「統計的な平均値や多数項として取り出された一般性は普遍的なものではない。
(・・・)
 ベンヤミンは、平均によって得られる価額手稲一般性とは異なる場所に普遍と理念があると考える。個別性を追求したはての極限に概念があるという。
(・・・)
 この倫理的な普遍は「人権」と呼ばれるものと重なることになる。個別的経験を尊重することは、あらゆる人を尊重することを意味する。誰も取り残されない世界を目指すということにつながるのだ。」

(「第8章 競争から脱却したときに見えてくる風景」より)

「本書では客観性と数値を盲信することに警鐘を鳴らした。顔の見えないデータや制度からではなく、一人ひとりの経験と語りから出発する思考方法を提案した。この思考は社会的な困難のなかにいる人、病や差別に苦しむ人の声を尊重する社会を志向することにつながる。」

【目次】
第1章 客観性が真理となった時代
1 客観性の誕生
2 測定と論理構造

第2章 社会と心の客観化
1 「モノ」化する社会
2 心の客観化
3 ここまでの議論をふりかえって

第3章 数字が支配する世界
1 私たちに身近な数字と競争
2 統計がもつ力

第4章 社会の役に立つことを強制される
1 経済的に役に立つことが価値になる社会
2 優生思想の流れ

第5章 経験を言葉にする
1 語りと経験
2 「生々しさ」とは何か

第6章 偶然とリズム――時間について
1 偶然を受け止める
2 交わらないリズム
3 変化のダイナミズム

第7章 生き生きとした経験をつかまえる哲学
1 経験の内側からの視点
2 現象学の倫理

第8章 競争から脱却したときに見えてくる風景

◎村上 靖彦(むらかみ・やすひこ)
1970年、東京都生まれ。基礎精神病理学・精神分析学博士(パリ第七大学)。現在、大阪大学大学院人間科学研究科教授・感染症総合教育研究拠点CiDER兼任教員。専門は現象学的な質的研究。著書に『ケアとは何か』(中公新書)、『子どもたちのつくる町』(世界思想社)、『在宅無限大』(医学書院)、『交わらないリズム』(青土社)などがある。

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