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三木那由他「言葉の展望台⑬痛みを伝える」  (『群像 2022年 05 月号』)

☆mediopos2703 2022.4.11

哲学者になりたいと思ったことはない
とはいえほかの何かになりたいとかも
思ったことはないから
哲学者を嫌っているわけではもちろんない
(小さい頃科学者あこがれたことが
少しだけあったけれどいまはそれもない)

じぶんをなにか○○○者であるとするのが
どうにもなにかに閉じ込められるようで嫌なのだ
じぶんの名前にしてもおなじだ

もちろんじぶんを○○○者であるとして
その範囲における責任を持つということは重要で
それはそれで必要なことだけれど

必要なところを離れれば
じぶんの○○○者を
そこに適用するのは気持ちが悪い

たとえばいつでもどこでも「先生」とよんだり
ましてやそう呼び合う慣習などもなんだかおかしい
(シャレのひとつならばそれもそれだが)
役割をはなれたとき自由であるためには
ひとはだれでもNOBODYであるのがいい

役割というのはひとつのペルソナで
ペルソナはある意味人格のひとつなので
じぶんをそのペルソナに同定してしまい
そこから離れられなくなってしまうことはある

じぶんでじぶんにある種の役割なりペルソナなどを付加し
それをみずからのレーゾンデートルとするのは自由だが
それをじぶん以外に適用される範囲を超えて
無差別的に適用しようとするのは悲しい

ひとが目の前で「痛み」を訴えているとき
そのひとがどうしてほしいのか
それにとりあえず対処するまえに
哲学的な懐疑論者が
その「痛み」を懐疑の訴状に載せてしまうのは
じぶんの哲学者であるというペルソナを
TPOを超えて適用させてしまうエラーだ

宗教的にいえば神さまが見ているから
それとも「なにごとの おはしますかは 知らねども」
目の前で困っているひとの助けになることをする
というのはたしかにあって
それは神さまやそれに代わるものが
じぶんのなかに生きているからだが

自分の特定のペルソナだけを生きて
いつでもどこでもそれが命じるように生きる
というのはどこかでなにかが欠損しているのではないか

だいじなことはNOBODY(誰でもない)性のうえに
いろいろ乗っかっているペルソナがあっても
そのじぶんの土台のところは
NOBODYであることを
忘れないでいるということではないか

「私」とはNOBODYだからこそ
だれでもじぶんを「私」と呼べるのだから
そこに普遍性も個別性もともに
絶対矛盾的自己同一することができる

■三木那由他「言葉の展望台⑬ 痛みを伝える」
 (『群像 2022年 05 月号』講談社 2022/4 所収)

「体調を崩しているときに哲学者が考えることといったら何か? それは何といっても懐疑論の問題だろう。いや、ほかの哲学者に「体調を崩しているとき、どんな哲学的問題に取り組みますか?」などと訊いたことはないので、そうでもないかもしれないが・・・・・・。(・・・)

 懐疑論というのは人間の持つ知識が確実性を持たないことを主張する立場で、「このくらい明白な知識ならさすがに確実だろう」と思われるような種類の知識を俎上に載せて、それが実際には確実でないと論じるのをその基本的なスタイルとする。」

「少し身近な懐疑論として、他者の心の懐疑論というのがある。(・・・)自分が心を持っていて、いろいろなことを考えたり感じたりしているということを自分でははっきりと疑いの余地なくわかっている、と多くの人は思っているはずだ。だが、自分以外のひとが心を持っていて、思考したり感情を抱いたりしていると、私たちは確実に知っているといえるだろうか? 「実はきのうこの世界は存在していなかったのかもしれない」と悩む機会はそれほど多くなさそうだが、「本当にほかのひとにも心はあるのだろうか? ひょっとして私だけがこの世界で唯一の心を持つ存在なのでは?」と悩んで覚えがあるひちょはそれなりにいるのではないか。他者の心の懐疑論は、そうした悩みと繋がる懐疑論だ。

(・・・)

 誰かが「痛い」と言っているとする。でも、そのひとが本当に痛みを感じていると私たちは確実に知ることはできるだろうか? 単に言っているだけなら嘘である可能性もあるから、「『痛い』と言っている以上は痛いに違いない」とは言えない。では、脂汗をにじませながらお腹を押さえ、呻くように「痛い」と言っていたらどうか? その場合でもその脂汗も仕草も、すべては非情に上手な演技である可能性があるから、そうした事柄について「このひとは本当に痛いんだ」と確実に知ることはできない。ではほかに何か他者の痛みに関する根拠となるようなものがあるだろうか? 検査によって怪我を見つけたとしても、そのひとはひょっとしたら特殊な訓練によって怪我から痛みを感じないようになっていて、それにもかかわらず痛いふりをしているだけかもしれない。結局、他者の痛みについて確実に知る手段などないのではないか。懐疑論者はそのように言う。

(・・・)

 想像してみてほしい。例えば学校の授業中にお腹が痛くなり、担任に「痛い」と訴えたとしよう。不幸なことに、この担任は哲学者だった。哲学者である担任は、「果たしてこの生徒が痛みを持っているというのは確実だろうか?」と考え始める。あなたはうまく伝わらなかったのかと、あえて苦し気に「痛いんです」と言い直す。担任は「これはひょっとしたらよくできた演技かもしれないから。やっぱりこの生徒が痛みを持っていると確実にはわからない」とよりいっそう深く悩み始める。めちゃくちゃ冷たく感じないだろうか? こんなひとが担任では、あまり安心して学校に通えなさそうに思える。

 こうしたあたりに、私は哲学者の感覚と日常的な感覚のズレを感じる。「痛い」という訴えにも知識の問題を見出してしまうようだ。「これに関連する確実な知識を私は得ることができるのか?」という方向にすぐ進んでしまう。

(・・・)

 具体的な人間である私たちが日常において「痛い」と訴えるとき、私たちはそれによって自分が痛みを覚えていると相手に確実に知ってもらうことを求めているわけでなさそうに思える。むしろ、「通常の仕方で授業を受けることはできない」だとか、「約束通りに事を進めることができない」だとか、「仕事のスケジュールの変更が必要だ」だとか、「いまの作業を止めて手当をしてほしい」だとか、とにかく私とあなたがこれまでやってきたことを続けるのに支障が生じているから、何かしら軌道修正をしたいということを伝えているのではないか。その際、相手がこちらの痛みについて確実な知識を得られるかどうかなどということは究極的には問題でなく、ただ私とあなたとのあいだでの物事の進めかたの変更だけが問題となる。別に確信など持ってくれなくていいのだ。

(・・・)

 知識の問題と、目の前のひととの関係における倫理の問題とをきちんと区別し、後者も意識するということには、単に哲学における新たな視点の可能性を示唆するだけでなく、現実のこの社会における意義もあるかもしれない。

(・・・)

 本当に相手が痛みを持っているかどうかを確かめることに焦点が当てられると、それが確かめられなかった痛みは「なかった」ことにされてしまう。だが確実な知識を絶対視せず、ともかく相手が痛みを訴えていて、それにきちんと対応しなければならないという観点からは、確かめられない痛みを訴える相手にも向き合わなければならない。

(・・・)

 知識よりも倫理を重視するならば、不確実性に由来する不安を引き受けつつも、ともかくはまずは目の前のひとに向き合い、何かをしなくてはならない。ひょっとしたら自分の行動があまりうまくいかないかもしれないという可能性を引き受けつつ。

 以前こんなことがあった。私も含む性的マイノリティをターゲットにしたような差別に関して、問題提起をおこなうような宣言がネットで出された。私の知っている哲学者の何人かはすぐさまそれに賛同の意思を示した。だが何人かは「これが本当に善であると言えるか確信がない」と述べ、意見を保留にした。後者には何度か一緒に食事をしたようなひともいた。確信がないことには黙っておくというのは、ある意味で知的には誠実なのだろうと思う。でも、私が今度苦境に立たされたとき、そのひとたちを頼ることはないだろうとも思った。そのひとたちは、いま私が置かれている状況よりも、自分の知識を重視したのだ、と私には見えた。

 私も以前は、哲学者とはそういう存在なのだ、むしろ誰よりもそのように知を重視することにこそ意義があるのだ、と考えていたことがある。けれどいまはそれを疑っている。それはただ、確実な根拠なしに動き出すことを恐れているだけなのではないか、その不安ゆえに目の前の相手に向き合うことを避けているだけではないか。

 自分が確実な知識を得るということを、目の前の相手のひとよりも重視したりしないような哲学者になりたいと思う。そして、そういう哲学のありかたを語りたいと思う。」

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