岩野卓司「ケアの贈与論 連載第6回・第7回」/最首悟『こんなときだから 希望は胸に高鳴ってくる』『いのちの言の葉』/立岩真也『弱くある自由へ』/フロイト『不気味なもの』
☆mediopos3603(2024.9.30)
岩野卓司の『贈与論』
およびそれに関連した「ケア」の考え方については
mediopos-1776(2019.9.26)
岩野卓司『贈与論/資本主義を突き抜けるための哲学』
mediopos3479(2024.5.27)
岩野卓司「ケアの贈与論」
連載第1回・第2回(法政大学出版局 別館(note))
mediopos3546(2024.8.2)
岩野卓司「ケアの贈与論」
連載第3回・第4回・第5回(同上)
さらにmediopos3576(2024.9.3)で
『未来哲学』第八号(二〇二四年前期)掲載の
「ケアにおける贈与」をとりあげているが
今回は「ケアの贈与論」第6回・第7回から
第6回では最首悟の話から
「共生」や「共同性」の基盤となる
「頼り頼られる」関係について考察されている
最首悟は相模原障がい者施設殺傷事件の犯人と
往復書簡をかわしたことでも知られているが
そのきっかけは
「障がい者は生きる権利がないという思想のもとで
45人を殺傷した犯人」が
最首氏にダウン症で重度の知的障がいをもつ
娘がいることを知った」こと
最首氏は障がいの視点から「共生」の問題を考え
「健常者どうしの関係を前提にするのではなく、
障がい者との関係も考慮に入れて
「共生」を考えるべきだと主張し」
「人に対して何かをする喜びを手掛かりとして」
この「共同性」について考えを深め
「「自発的に何か他人のためにする」「喜び」が
人間関係の根底にあることを見出し」
その感情を「内発的義務」ととらえている
その「義務」は
「思わず人を助けてしまうような体験」のような
「義務以前の義務」である
そうした「内発的義務」は
とりわけ災害などの危機のときには
「根源的な共同性」としてあらわれるが
平時においては失われてしまいがちであることから
最首氏はケアを踏まえた共生を
障がい者との関係から
自立した個の理性的な関係ではなく
「頼り頼られる」関係としてとらえている
それは「頼られることが同時に頼ることでもあるから、
贈与することが同時に受け取ることでもある」
そうした「贈与による共同性」に岩野卓司は
「贈与と返礼からなる贈与交換よりも根本的なもの」を
見出している
続く第7回では
ケアの肯定と否定の側面が
「ケアの両面性」が考察されている
ケアをする人は
「ケアをすることで喜びを得る」が
「ケアの贈与に喜びだけを見ていく」ことはできない
「ケアする方にも不安、つらさ、負担など」の現実があり
その側面を見なければ「ケアの本質を見落としてしまう」
立岩真也は『弱くある自由へ』で
ケアには肯定的側面だけではなく否定的側面があるという
「ケアの肯定感のみを強調するとすれば、
それはケアの本質を見誤ることになる」
そしてその両面性は簡単に解消できるものではない
ケアの肯定的な面について第6回でふれた最首氏は
その否定的な面として「排泄」を挙げている
「排泄はケアの否定的な面のほんの一部かもしれないが、
それを考えるための端緒になりうる例だ」という
「ケアに慣れてくると、この「臭い」「汚い」にも慣れてくる。
しかし、「嫌だと思うことが薄れているのは危険ではないか 」」と
現代の日本は抗菌・除菌・殺菌など
「清潔であることを暗黙のうちに強いられる社会」である
そのような「無菌化に向かっている世の中で、
ケアは他人の糞尿と接する機会を強いる」
最首悟が往復書簡を交わした
相模原障がい者施設殺傷事件の犯人・植松聖死刑囚は
優生思想の持ち主であり
「生産能力もなく役にもたたず、糞尿や涎を垂らして
周りに迷惑をかける障がい者は生きる資格はなく
抹殺されるべきだと考え、それを実行に移した」
介護士の三好春樹は最首氏との対談のなかで
「植松の行動の背景のひとつに
現代の無菌化した日本社会があるのではないか」と示唆している
フロイトは「不気味なもの」という論文で
「僕らが不気味に感じるものはかつて馴染みであったものだ」
「薄気味悪いドッペルゲンガー現象も
とどのつまりは自分の分身」だと論じているが
排泄物や分泌物ももとは自分の体のなかにあったもの
それが「外に排泄されたとたん異臭を放ち、遠ざけられてしまう」
「無菌社会はそれを徹底し助長する」・・・
岩野卓司はそうした視点から
「ケアの贈与の両面性は、二重のものであり、反転可能」であり
「無菌社会が強いるケアの不快さは、
分身としての排泄物・分泌物との共存というかたちで
快にもなりうる」のではないかと示唆を加えている
ケアの贈与の両面性は重要な視点である
私たちのだれもが多かれ少なかれ
じぶんの内なる「影(シャドー)」を
じぶんの外に投影して生きているからである
そしてその投影された「影(シャドー)」を
不快に感じたり敵対したりもする
その両面性を「共存」というかたちで
いかに意識化し得るかが課題となる
■岩野卓司「ケアの贈与論 連載第6回・第7回」
(法政大学出版局 別館(note))
■最首悟『こんなときだから 希望は胸に高鳴ってくる』(くんぷる 2019/12)
■最首悟『いのちの言の葉』(春秋社 2023/11)
■立岩真也『弱くある自由へ』(青土社 第二版 2019/12)
■H.ベルクソン/S.フロイト(原章二訳)『笑い/不気味なもの』(平凡社 2020/6)
**(岩野卓司『ケアの贈与論』連載第6回より)
*「第6回は、最首悟さんの話から始まります。最首さんが指摘する、「共生」や「共同性」の基盤となる「頼り頼られる」関係。この関係が、ケアや贈与論の根源にもつながっていくことを考察します。」
・頼り頼られるはひとつのこと
*「最首悟は元全共闘の活動家であり、数多くの評論を執筆している。
東大の助手を長く勤めたあと、駿台予備校で教鞭をとり、最後は和光大学の教授になった。彼は生物学が専門であったが、安保闘争、東大安田講堂事件、三池争議、水俣病といった社会問題に積極的に取り組んでいった。近年では、相模原障がい者施設殺傷事件の犯人と往復書簡をかわしたことでも知られている。
この往復書簡が生まれた背景には、最首に障がい者の娘がおり、彼が妻とともにこの娘を長いあいだ介護してきた事実があった。星子(せいこ)という名のこの三女は、ダウン症で重度の知的障がいをもっていた。障がい者は生きる権利がないという思想のもとで45人を殺傷した犯人が、最首に手紙を書いたのは、こういった事情を知ったからである。」
・内発的義務
*「1998年に出版された『星子が居る──言葉なく語りかける重複障害の娘との20年』では、星子との生活についての感想や意見、社会についての批評が記されている。
今日では、ケアの哲学を語る者やケアの立場から哲学・思想を論じる者も増えてきたが、最首は今から20年以上前に障がいの視点から「共生」の問題を考えており、健常者どうしの関係を前提にするのではなく、障がい者との関係も考慮に入れて「共生」を考えるべきだと主張している。」
「障がい者との「共生」に根ざした「根源的な共同性」とはどういうものなのか。最首は人に対して何かをする喜びを手掛かりとしてこの「共同性」を探っている。「人は、自発的に何か他人のためにすることが一番深い喜びを得るようになっている」のだ。「恋愛」も「育児」も、その根底にはこの喜びが存在しているのではないだろうか。」(最首悟『星子が居る──言葉なく語りかける重複障害の娘との20年』世織書房、1998年)
「恋愛や育児を通して、最首はこの「自発的に何か他人のためにする」「喜び」が人間関係の根底にあることを見出した。たしかに恋愛や育児においても、利己的な欲望の満足は存在する。しかし、そうした欲望の満足の限界を超えたところに、この喜びは見出せるのではないだろうか。
そして、この感情は「内発的義務」ととらえられている。
自発的に、内発的に、これは義務と思うようなことが自分の中に形成されてきて、その義務がか弱い存在、愛する存在に向けて行為化されるとき、相手の感謝などには関係なく、深い充足感がはらまれるのだろう。」
「この「義務」という言葉は、捨てられた赤ん坊を拾い上げてしまう例からもわかるように、考える間もなく人がそうせざるをえなくなるような気持ちを、指している。ふつう僕らは「やらねばと思う」ほうを義務ととらえるが、この「内発的義務」は、それに先立つ「義務以前の義務」なのである。僕らは、思わず人を助けてしまうような体験をしたことはないだろうか。」
・災害の共同体
「例えば、大きな火災に遭遇して、おじいさんが腰を抜かして動けなくなったとしよう。そのとき自分が元気で避難できる自信があるならば、おじいさんの手を引いたり背負ったりして助けるのではないだろうか。
危機に際して、一時的にであれ、人はつながり助けあうものなのだ。ふだんは付き合いのない人とも知り合いになり、共同で助け合う。共同でサービスしあい、贈与し合う。まさにクロポトキンの「相互扶助」である。人間の共同性の原点は、こういうつながりにあるのではないのだろうか。」
「災害の歴史は、わたしたちの大多数が、目的や意味だけではなく、つながりを渇望する社会的な動物であることを証してくれる。
日常が引き裂かれ、生存の危機が訪れると、人々は協力し合って危機に対処するのだ。ここにひとつの「根源的な共同性」が垣間見られるのではないだろうか。」
・二者性
「しかし、危機のときにつながった関係も、平時では失われてしまう。人種の違い、貧富の差、宗教の違いなどによる差別や対立が再び頭をもたげてきて、「根源的な共同性」は再び見失われてしまう。」
「仏教の縁起も、他との関係が縁になって物事が生じるのであるから、まずは「関係」が先にある。かつて哲学者の廣松渉はマルクスを読み直して「関係一次性」の考えを提示し、実体論から関係論への転換を主張していた。人間どうしも「関係」がまずあり、実体のとしての個は二次的なものなのである。
最首もこういった関係論に棹差している。彼は「内発的義務」の考えをさらに発展させて「二者性」の考えを展開している。
「わたし」と「あなた」の関係は曖昧である、と彼は主張する。相手の身になって考えるとき、誰でも自他の区別がつかなくなる場合がある。それとともに、自他が区別されて自覚されるときもある。しかし、西欧の個人主義のように、自分と他人のはっきりした区別は存在しない。そこにあるのは曖昧な関係なのである。
関係が曖昧であるから、そこには甘えが生じる。甘えとは、相手に頼ることである。最首によれば、人間関係の根本にあるのは、この「頼り頼られる」関係なのだ。頼ることは、人から何かをうけとること、サービスを受けることであろう。頼られることは、人に贈与したり、サービスしたりすることだと言えよう。自立した個を主張する者は、「頼り頼られる」関係をネガティブなものとしてしかとらえない。しかし、ケアを踏まえた共生は、この関係の上に成立している。」
「そういう、二者を出発点とするネットワーク。その中で、すべてのものがそれぞれに頼り、頼られながら生きている。そのような場の共同性、共生ということが私たちの根本なのではないか。」
「障がい者との関係が教えてくれるのは、自立した個の理性的な関係ではなく、この「頼り頼られる」関係である。この関係を基盤として、最首の考える「共生」や「共同性」は成立する。さらに、この関係は贈与論の根本にもかかわってくるだろう。ここでは、頼られることが同時に頼ることでもあるから、贈与することが同時に受け取ることでもあるのだ。
こういった贈与による共同性は、贈与と返礼からなる贈与交換よりも根本的なものではないだろうか。」
**(岩野卓司『ケアの贈与論』連載第7回より)
*「第7回では、「ケアの両面性」と題し、ケアの肯定と否定の側面に目を向けます。ケアが与える「心地よさ」や「不快さ」とどう向き合えばいいのか、立岩真也さん、最首悟さん、フロイトの議論をもとに考えます。」
・ケアの両面性
*「ケアする人は、ケアをすることで喜びを得る。これは贈与すること、サービスをすることで相手を喜ばして自分も喜びを得ることである。ケアによる喜びを利他という面で徹底していくと、身内に対してであろうと他人に対してであろうと、たぶん最終的には差異はなくなるだろう。それは人間の他者に対する根本的なあり方だからである。
しかし、ケアはそれだけではない。ケアする方にも不安、つらさ、負担などがつきまとうからである。そこには拭いがたい負の側面がある。それを覆い隠してケアの贈与に喜びだけを見ていくのは大変危険である。不安でつらいからこそケアは美しい行為であるという物語に収斂させてしまうことは、現実から目を背けることにつながる。それは、ケアの本質を見落としてしまうことのように思われる。」
・ケアの両面性
*「社会学者の立岩真也は、『弱くある自由へ』のなかでケアの両面性について主張している。まず、ケアには肯定的な面がある。「人の生活を助けたり支えたりすること」はいいことである、という気持ちは誰にでも存在する。」
「しかしもうひとつには、ケアには負担であり、そこから逃れたいという気持ちがともなう。例えば高齢者の介護は、それ以上よくなる見込みがないという前提に立っており、相手は徐々に衰弱していくので、それを見ているだけでもつらい。それが自分の父や母、妻や夫だったら、なおさらつらい気持ちになる。しかも、介護はいつ終わるかもわからない。負担が不安を生んでいく。介護のために仕事を辞めたが故に生活が困窮におちいり、生活それ自体が成り立たなくなるケースも見受けられる
「ケアには肯定と否定の両面がある。「やりがい」や美化に値する面がある一方で、つらい現実や先行きの不安に向き合わなければならない怖さもある。「やりがい」が負担になってくる場合もあるだろう。ケアの贈与の両面を同時に見ていかなければ、ケアの本質はつかめない。ケアの肯定感のみを強調するとすれば、それはケアの本質を見誤ることになるだろう。しかもケアの両面性は、そう簡単に解消できるものではないのだ。」
・排泄物と清潔な社会
*「ケアの肯定的な面を語った最首悟も、論文「ケアの深源」のなかで、その否定的な面にも言及している。それは何かというと、排泄である。排泄はケアの否定的な面のほんの一部かもしれないが、それを考えるための端緒になりうる例だと思われる。」
「ケアに慣れてくると、この「臭い」「汚い」にも慣れてくる。しかし、「嫌だと思うことが薄れているのは危険ではないか 」と、最首は鋭く指摘している。ケアの面倒で嫌な面は、何かを告げてくれるのではないだろうか。」
「今の時代の日本は清潔であることを暗黙のうちに強いられる社会である。ドラッグストアを見てみると、除菌ティッシュ、抗菌グッズ、殺菌スプレーなどが山積みになっている。コロナ禍でアルコール消毒とマスクが強いられて、僕らの清潔の感覚はさらに鋭敏になったかもしれない。」
・分身としての排泄物
*「無菌化に向かっている世の中で、ケアは他人の糞尿と接する機会を強いる。赤ちゃん、障がい者、高齢者のおむつを交換し、排泄物を処理し、体を洗って拭いたり、薬を塗ったりする。否が応でも、排泄の不潔さと向き合わなければならない。介護士の三好春樹は、最首悟との対談のなかで、自分は「介護職よ、北欧に行くよりインドに行こう」と呼びかけて毎年インドツアーをしている、と告白している。社会福祉の先進国といわれる北欧より、衛生観念に乏しいインドのほうが、介護の仕事にとって得るところが多いそうである。」
「植松青年とは、2016年に神奈川県で45人の障がい者を殺傷した「やまゆり園事件」の犯人の、植松聖死刑囚である。この時期、植松は獄中から最首と往復書簡を交わしていた。二人の書簡は、最首の著書『こんなときだから希望は胸に高鳴ってくる──あなたとわたし・わたしとあなたの関係への覚えがき』(くんぷる)のなかで読むことができる。優生思想の持ち主の植松は、生産能力もなく役にもたたず、糞尿や涎を垂らして周りに迷惑をかける障がい者は生きる資格はなく抹殺されるべきだと考え、それを実行に移した。植松の行動の背景のひとつに現代の無菌化した日本社会があるのではないか、というのが三好の意見であり、そうであるから彼は、植松をインドに連れて行きたいと望むのだ。インドは、排泄物や分泌物が辺り一面に感じられる世界なのである。
ここで重要なのは、異臭のする排泄物や分泌物は、もともと僕らの体の中にあったものであり、それが外に排出された結果だということである。だから、それらはもとは僕らの体の一部であり、その意味で僕らの分身とも言えるだろう。こういった基本的なことを確認できると、ケアにおける不快な作業も快に変わる可能性もでてくる。これは排泄物などに無感覚になることではない。それらとともに生きることに、ある種の心地のよさを感じることなのである。
精神分析学のフロイトは「不気味なもの」という論文で、僕らが不気味に感じるものはかつて馴染みであったものだ、と主張する。正体不明の不気味な幽霊も、かつて生きていたときその辺で生活していた人間だし、薄気味悪いドッペルゲンガー現象もとどのつまりは自分の分身である。神経症患者は女陰を不気味に感じるが、これもかつて自分がそこから出てきた馴染みの場所への回帰なのである。不気味なもの(Unheimliche)は、馴染みのもの(Heimliche)なのである。馴染みなものが意識にあらわれようとすると抑圧の刻印が打たれ、不気味なものとしてあらわれるのだ。
この考え方は、排泄物や分泌物にも当てはまるだろう。それらも自分の体のなかの一部で慣れ親しんだものである。ところが、外に排泄されたとたん異臭を放ち、遠ざけられてしまう。無菌社会はそれを徹底し助長する。だから、インドに学ばなければならないのだ。排泄物や分泌物は自分の分身であることを理解しなければならない。不快なものは、排除されたものではあるが、実は馴染みのある心地よいもののあらわれなのである。
そう考えてくると、心地よさと不快さがつながる。ケアの贈与の両面性は、二重のものであり、反転可能である。無菌社会が強いるケアの不快さは、分身としての排泄物・分泌物との共存というかたちで快にもなりうるのだ。
この両面性は、快と不快の両義的な真実を暴いているのではないだろうか。」
○岩野卓司(いわの・たくじ)
明治大学教養デザイン研究科・法学部教授。著書:『贈与論』(青土社)、『贈与をめぐる冒険』(ヘウレーカ)、『贈与の哲学』(明治大学出版会)、『ジョルジュ・バタイユ』(水声社)、共訳書:バタイユ『バタイユ書簡集 1917–1962年』(水声社)など。
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