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長尾天『イヴ・タンギー アーチの増殖』

☆mediopos-2319  2021.3.23

先日の「デ・キリコ」に関連して
今回はこれも懐かしの「イヴ・タンギー」を

シュルレアリストのブルトンとタンギーは
ほぼ同時期にキリコの絵画から深い影響を受けているが
ブルトンとキリコがやがて断絶したのとは異なり
タンギーはむしろ当初キリコが描いた形而上絵画の方向性を
さらに極限まで深めていくことになった

キリコとシュルレアリスムの相違は
「無意味への態度決定から」捉えることができる
キリコの形而上絵画は世界の無意味を描いたが
やがてキリコは「技術への回帰」によって
絵画の「真実」へと向かってしまうことになる
シュルレアリスムにおいては
「世界の無限の解釈可能性」が開示されねばならず
恣意的な意味が絶対化されてはならないのだ

シュルレアリスムにおいてはその視覚イメージは
後のキリコのように物質的実在へは向かわない
謎は記号としてのみ謎でありえるからだ
その意味でその視覚イメージは解釈というかたちで
常に言語との特権的関係を保っているという

とはいえ解釈によって謎を解消しようというのではなく
むしろ別の解釈の可能性が生じさせられねばならなず
謎は常に生まれ続け持続してゆくことになる

しかしタンギーはさらにそこから
「謎への触媒としての言語をぎりぎりまで排除し
デ・キリコが顕在化させたイメージの領域を極限化する」

タンギーの描く「不定形の存在たち」は
「不定形」であるがゆえに明確に分節され固定されはしない
そしてさらに「確固たる三次元的イリュージョン」であるがゆえに
「言語を逃れ、名を逃れようとする」

その意味でタンギーの描く世界は
「言語にも物質的実在にも還元できない
イメージの領域を純化したものとなっている」

デ・キリコの形而上絵画は
世界を無意味として描き出し世界は謎となった
そのイメージに触発され画家となったタンギーは
その「謎」を純粋なまでの「不定形の存在たち」の形で増殖させ
そのイメージの領域を極限化させることになった

その最期の作品が「想像上の数」
「想像上の数」とは虚数
「概念上でのみ存在しうる数」である
タンギーは最期に「形而上的な虚無へと辿り着いた」のだという

以上少し煩瑣な説明で
『イヴ・タンギー アーチの増殖』の論を辿ってみたが
シュルレアリスムは「神の死」というニヒリズムによって
絶対的な真実の世界から常に離れ続け
「世界の無限の解釈可能性」を開示しようとする
なんにせよ安易な「信仰の世界」に陥らないように
世界の謎にどこまでも分け入り続けようとするのだ

絶対化を避けようとするところは
禅の世界のようでもあるが
禅の背後にある華厳世界のように
荘厳された宇宙観がそこにあるわけではない

タンギーの絵画のように
世界の無意味を逆説的に絶対化し続ける
謎を無限増殖させていくところが
シュルレアリスムのシュルレアリスムたるところだ

こうして先日来久しぶりに
学生時代にとても好きだった
思い出深いキリコやタンギーについて
あらためて見直す機会ができたことはうれしい
若い頃半ばその中で酔っていた世界の無意味やニヒリズムは
その後それを霊性において克服しなければならなくなるのだが
それはまた別の長い長〜いお話

■長尾天『イヴ・タンギー アーチの増殖』(水声社 2014.11)

「デ・キリコとシュルレアリスムの相違を、無意味への態度決定から捉えることもできる。形而上絵画は世界の無意味を描いてしまった。では、この無意味にどう対峙すべきなのか。デ・キリコ自身は、無意味に絵画という決定的な意味を挿し入れることを選択した。これに対して、ダダは無意味を一つの攻撃手段として利用する。新即物主義は無意味の前で立ち尽くす。シュルレアリスムは無意味に絶えず別の意味を挿し入れることで謎を保持する。
 無意味に挿し入れられる意味は、究極的には恣意的であらざるをえない。危険なのは、そこに何らかの意味が固定されることで無意味が覆い隠され、恣意的なはずの一つの意味が絶対化されてしまうことである。そこに国家や民族やある種のイデオロギーが固定されたとき、何が起こるだろうか。だから、無意味には遅かれ早かれ何らかの意味が挿し入れられてしまうとしても、それを絶対化してはならない。無意味に絶えず別の意味が挿し入れられることによって、常に別の意味の可能性が保持される。そのようにして謎という状態が保持されなければならない(謎とは意味作用が作動し続ける状態である)。
 こうして、デ・キリコにとって天才の特権だったはずの啓示は、シュルレアリスムにおいては、デペイズマン(「ふさわしからざる平面上での互いに隔たった二つの実在の偶然の出会い」)やオートマティスム(「理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり」)といったいかにもあやうい定式(後者は定式を否定する定式である)に方法化される。啓示は方法として共有されることで(デ・キリコにとっては無意味の啓示も、またそこに意味を挿し入れることも独り天才にのみ許されている)、その絶対性をあらかじめ相対化されている。だが同時に、それでもあえてこうした定式に拠ることで、そこから生じたものを説明不可能な何かとしてみなす態度が可能となる。これらの定式にによって、訪れたものを謎として迎えることができる。
 そして、謎は記号としてのみ謎でありえる。だからこそ、シュルレアリスムの視覚イメージは、物質的実在としてのそれ自身へは向かわない。シュルレアリスムの実践は、現実を、物質的実在としてのそれ自身とは別の何かを意味する記号へと変換することにある。また、こうした実践はしばしば解釈という形を取ることになる。対象は、解釈として与えられた言語との関係において、容易に記号となりうるからである。このため、シュルレアリスムの視覚イメージは、常に言語との特権的関係を保っている。
 しかし、勿論、そこでは謎を言語と完全に交換しきることが目指されているわけではない。そうではなく、何らかの決定的な意味によって謎が解消されてしまうことを避けるために、あえてそこに解釈が挿し入れられなければならない。またそうすることによって、さらに別の解釈の可能性がそこに生じさせられなければならない。対象とそれを取り巻く複数の解釈、その間に生じる決定不可能状態において謎が作動し、持続する。言語との交換、つまり解釈によって、逆説的に言語と交換不可能なイメージの領域が保持される。」

「だが、特異な例が存在する。イヴ・タンギーが描く不定形の存在たちの世界がそれである。タンギーは、謎への触媒としての言語をぎりぎりまで排除し、デ・キリコが顕在化させたイメージの領域を極限化する。」
 形而上絵画において、事物を結びつける意味連関の収束点(究極的なシニフィエ)が失われた。これにより、そこにあった意味連関もまた崩壊し、世界は謎となった。だが、それでもまた事物の名は残っている。描かれた事物たちが総体として名指せない何かを現出させるとしても、事物一つ一つを名指すことはできる。
 シュルレアリスムにおいてもそれは同様である。シュルレアリスムの実践はしばしば解釈という形を取る。このため、イメージを構成する個々の要素はある程度まで言語と等価、つまり、名指しうるものでなければならない。そうでなければイメージを言語と交換することはできず。それによって交換不可能な謎を生じさせることもできなない。
 これに対して、タンギーが描く不定形の存在たちは名を持たない。それらを「〜のようだ」と形容することはできるが、「〜である」と名指すことは決してできない。何故か。一つには、それが不定形だからであり。もう一つには、同時にそれが確固たる三次元的イリュージョンだからである。
 定型を持つものは、明確に分節され固定されている。これに対して不定形なものは、分節が曖昧であり流動的である。形の曖昧化は、意味と自己同一性の曖昧化につながる。ジョルジュ・バタイユが述べるように、不定形は宇宙の分節化を解体する。不定形のものは、言語を逃れ、名を逃れようとする。
 とはいえ、タンギーの世界はバタイユの不定形とは一致しない。どちらも、同一化不可能で名指せない何かではあるが、バタイユの不定形は必ずしも形態としてもそれではなく、価値下落の操作である。これに対してタンギーの世界は、確固たる三次元的イリュージョンを伴っており、いわば実在からイメージへと昇華されている。
 だが同時に。まさにそのことによっても、タンギーのイメージは名指せない。たとえばアルプやミロのイメージも不定形化によって名を逃れようとするが、名が完全に失われているわけではない。むしろそこにはイメージの平面性、抽象性が強いため、逆にわずかな要素によって名は残存しうる。いってみれば、両眼を示す二つの点が加えられるだけで、アルプの不定形態は「人間」という指示対象を持ちうる。この意味でアルプやミロのイメージは文字記号に近く、やはりある程度まで言語と等価である。そこで問題となっているのは名の消去ではなく、名の変形、名からの距離である。逆にいえば、名が完全に失われた場合、イメージは純粋抽象へと傾き、物質的実在のそれと自身に向かってしまう。
 一方タンギーは、アルプやミロとは異なり、これを三次元的イリュージョンによって描き出す。三次元的イリュージョンである以上、タンギーの世界は何らかの指示対象を持つはずである(それが実在するという意味ではない)。だが、そこに描かれているものが不定形である以上、それを「〜である」と名指すことはできない。(・・・)
 こうして、タンギーのイメージは、名を消去し、言語との交換不可能性を徹底する。そこに残存する言語的要素は、遠近法という統辞構造と、作品の内と外の境界に付与されたタイトルだけとなる。同時にタンギーのイメージは確固たる三次元的イリュージョンであるため、物質的実在としてのそれ自身とも完全に分離している。つまり、タンギーの世界は、言語にも物質的実在にも還元できないイメージの領域を純化したものとなっている。」

「一九四〇年代を通じ、タンギーの存在たちは巨大化、硬質化、複雑化し、全体として次第に過剰なものと化していく。このイメージの過剰は、一九五四年、《弧の増殖》で頂点に達する。画面を埋め尽くした存在たちには、もはや行き場がない。そして、おそらく最期の作品である《想像上の数》で、世界が暗転する。画面を覆っていた存在たちの一部が消滅し、そこに暗い虚無が露わになる。翌年、タンギーはこの世を去った。
 「弧の増殖」は、タンギーのタイトルとしては珍しく直接的な読み方ができる。タンギーのイメージは名指せない、このためタイトルは隠喩的なものとならざるをえない。しかい「弧の増殖」は、「弧」つまり曲線状のものが、画面一杯に「増殖」しているという、イメージをそのまま形容したものとも取れる。さらに「弧」が不定形の存在たちを指すとすれば。タンギーの世界の生成は、まさに「弧の増殖」いい表すことができる。
 そして「弧」はアーチのことでもある。デ・キリコのアーチは記号の孤独を象徴していた。だから、タンギーの世界の生成は「アーチの増殖」あるいは「アーチの積」であり、つまり、記号の孤独の培養である。デ・キリコは形而上絵画によって世界を無意味として描き出した。究極的なシニフィエを失った世界は謎となり、イメージの領域が顕在化する。デ・キリコのイメージに出会い画家となったタンギーは、デ・キリコの謎を純粋な形で自己増殖させ、イメージの領域を極限化させた。
 もう一つのタイトル「想像上の数」は、虚数を意味する。虚数とはi^2=1によって定義される虚数単位iと、実数aとbからなる複素数a+biにおいて、実数とならない(bがゼロでない)もの、つまり、概念上でのみ存在しうる数である。それは確かに、デ・キリコが指し示した形而上的な無意味、タンギーによって純化されたイメージの領域の正確な比喩となっている。それはやはり。言語や概念によっては、ただ指し示す以外にない。アーチの増殖は極限化の果てに、自身の起源である形而上的な虚無へと辿り着いた。」

弧の増殖

想像上の数


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