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エルネスト・グラッシ『形象の力/合理的言語の無力』

☆mediopos2829  2022.8.16

世界が合理的なのだとしたら
合理的でない世界は
世界には入らないのだろうか

論証によって得られる認識だけが
認識だとしたら
論証によってはとらえられない認識は
存在し得ないのだろうか

科学で証明できるものだけが正しく
証明できないものは正しいとはいえないとしたら
科学的で証明できないものは
どこにその場所を求めればよいのだろうか

エルネスト・グラッシの
『形象の力/合理的言語の無力』は
近代合理主義の論証言語に対し
形象言語の優位を論じ
メタファーによる世界再統合の道を探る
フマニスム形象論である

そして理性では世界が捉えられない
そう考える系譜として
フマニスムの伝統を呼び戻そうとする

論証では到達できない認識がある
というのはいうまでもない

かつてヴィーコは
〈真理〉のみを目指すデカルトを批判し
〈真理のようなもの〉をそれに対置したが

〈真理のようなもの〉を目指すというのは
論証するということではなく「発見術」である
つまりメタファーによる世界の再統合ということ

本書の論を超えるかもしれないが
あえていえば
「論理」「論証」というのも
ほんらいメタファーではないのだろうか
どんなに厳密な表現形式をとっているとしても
そこで使われる記号はほんらい言語であり
言語はほんらいメタファーで
できているのではないだろうか
メタファーの働きなくしては
いかなる言語表現も展開し得ないのではないだろうか

つまりメタファーとは「形象言語」のことなのだ
そして「形象言語とはアレゴリーであ」り
「喩えるものと喩えられるものとが合わさって一つになる」
そのことで「不一致に一致を見」ることができ
「最もかけ離れ最も対立する特定のものを
並べて結びつける」ことができる

なんでも無差別的に
「不一致に一致を見」るというではもちろんない
重要なのは一見矛盾しているかのように見える
さまざまな世界内の存在や認識を
どのように統合し得るかということである

世界はひとつの論理で
合理的に論証できればいいというわけではない
それはひとつの主義で世界を支配しようとすることになる

理性と情熱は
統合される必要があり
ロゴスとパトスは
その根源にあるものによって
統合的に展開していかねばならない

そのためにも
すべての言語や言語を超えたところで働く
メタファーの働きに注目する必要があることは
何度強調しても強調しすぎることはないだろう

■エルネスト・グラッシ(原研二訳)
 『形象の力/合理的言語の無力』
  (高山宏セレクション〈異貌の人文学〉白水社 2016/9)

(「序言」より)

「デカルトが————哲学の礎石とすべく〈第一格率〉の研究にもとづいて————フマニスム諸学を哲学から排除して以来、形象(Bild)の問題は哲学探究によってなおざりにされたばかりか、ないものとされてしまった。第一格率の発見から演繹される過程は、ひたすら合理的なものに終始する。かくして、一般にデカルト魁とする現代思想の開始とともに、合理的、すなわち科学的弁論と、パトス的な、すなわち修辞学の弁論とが分離され、そうして弁論術、つまりは形象言語が、哲学的学問から締め出されたのである。」

「形象的なもの、修辞学、メタファが華々しく活躍するフマニスム論文の本来的形式からは、今日、かくも遠ざかってしまい、もしこれに立ち戻ると、奇異で〈非科学的〉な印象を得るのである。」

「形象の力を復権させ、これにて哲学と修辞学を改めて問うこと、これが本書の課題である。その目的は決して、古代の形式と学問を再生させることにはない。原理的なものを発見し主張することを大事と思う。
 われわれは論理的、合理的図式におさまる論証(beweisende)言語と、純粋に説得的(überzeugende)修辞的言語とを区別しなければならない。では両者の関係の本質は何か? 両者は根拠の提示から出発している。一方は〈ラツィオratio〉、悟性に関わる根拠であり、他方は形象に関わる根拠であり、〈パトスpathos〉、情熱に働くものである。
 けれども根源(Urgründe)そのものを直接発信する言語とは、どのようなものであるのか? それは〈合理的〉性格など帯びるはずがない、というのもそうであれば根拠提示は諸定義をもたらすに違いないのだから。〈合理的〉〈論拠〉言語のかたわらに、合理的論証言語とは個戸原〈非−合理的〉、純〈根源指示的hinweisende〉、意味論的言語を置くことは可能だろうか?
 プラトンは第七書簡において言語不全のテーゼを立てた。すなわち弁論の根源指示の形式同様、論証形式が〈理論/観照Theoria〉に、つまり〈視Sicht〉に根ざすとすれば、〈見るSehen〉とか〈観るSchau〉とかが言語領域を超え、〈形象〉が前面に出るということが認識されるに違いない。合理的言語も指示的言語も、言語行為というよりもっと根源的な行為としての〈見る〉に基づくからといって、言語の不全が主張されるべきであろうか?
 西欧伝統は人間を合理的でパトス的存在であると解する。加えて、理性は決してパトスに作用することはなく、むしろパトスの領域では形象、図式、類が主導するのであるという。かくして哲学者には重大な難問(アポリア)が発生する。合理的で科学的だが効力がない話し方か、あるいは修辞的にして非−合理的。非科学的だが効力のある話し方か。検討していくとこのアポリアは根本的で克服し難いということになろうか? まさか合理的論証過程が、それ自体パトス的でそれゆえ修辞的な力を持つ純指示的、図式いぇき、形象的「洞察」に根を持っていると主張できるとでも?
 パトスとロゴスの統一的実現を要求する哲学伝統を辿っていくと、本質的手掛かりはフマニスムの伝統の中に見出される。」

「「見るSehen」、すなわち〈テオリア、 Theoria〉に宿された「観るSchau」は————すべての合理過程の基礎として————感官によって実行されるゆえに、感官は哲学のなかではメタファの様相を呈するのである。さてメタファは————おおよそ形象に還元され————普通にそう考えられているとおりに純粋に文学的手段と見なされるべきなのか、あるいは根元的なものについての断言に不可欠なものなのか? さらにメタファがテオリアの役割と意味を帯びることになるのは、その形象的性格のゆえだろうか? しかし逆に言語が、先行する形象に対し何も根源的なことを提示することがないなら、そのときわれわれは、形象や見ることのみならず沈黙もまた、言語より根源的であると言うべきか?」

(「9 結語————フマニスムと実践」より)

「フマニスム的、哲学的な伝統は、可能なもの、真理のようなものに、本質的意味有りとするので、真理の優位を拒絶する。それは本質的なものを第一真理の定義や、そこから帰結する結論において見るのではなく、われわれの認識と行動の第一原理を〈見いだすこと(フィンデン)〉、〈発見(インヴェンティオ)〉することに見ている、すなわち真理と真理のようなものの〈発見〉に。本質的なもの、〈原初的なもの〉が————支配するもの、それゆえ秩序づけるという意味で————演繹可能ではないなら、哲学の本質的問題は合理的演繹過程ではなく、本源的なものの〈覚醒〉〈召還〉〈見出すこと〉なのであり、人間の具体的な歴史に、あるいはそこから、執拗にせり出してくる何かがあるのだ。」

「イタリア・フマニスムの問題系は————まさに実践の優位、抽象的合理的言葉の拒否という観点からすると————〈現前し経験される現実〉と〈理性に応じた世界〉との二元性の克服に通じる。それは理論と実践という克服し難いに二項対立に至る二元性のことである。具体的でパトスに作用する問いは、われわれの生きている歴史の中においてわれわれに迫ってくる、そしてこの認識かた世界を能動的に変更しようという傾向は、イタリア・フマニスムが理解した中でも最も深い実践概念に属するのである。」

(「訳者あとがき」より)

「今は形象の力が弱体化している。哲学と修辞学は分離しているという現状認識は前提だ。(・・・)一言でいえば、「形象の力」とは映像の話ではなく、世界を認識する力のことなのである。
 「哲学と修辞学の分離」ということについては、それが起こったのは、古代ではソクラテス、プラトンを契機としており、近代ではむろんデカルトのせいである。これら近代化の理論を批判する原理的な梃子を見つけることが本書の主題である。それはソクラテスが排除したソフィストたちの雄弁術にあり、デカルトを正面きって批判したヴィーコの発見術にある。
 〈哲学〉対〈修辞学〉をはじめ、全体はさまざまに明快な二項対立よって成り立っている。先ずもって古典主義に対する主観文学、論理学に対する修辞学/説得術/雄弁術、理性に対する形象。合理哲学に対する発見術。デカルトに対するヴィーコ。論証に対する鋭察。そうしてひそかにハイデッガーに対するイタリア・フマニスム・・・・・・。
 彼は人間の認識・思考態度をこうやって真っ二つに割り、そのうえで統合の道筋を、というより今述べた二項のうち後者に拠る統合の原理を計る。それを実現するのは形象の力なのだ。この志向は、G・R・ホッケが『絶望と確信』(白水社)においてクルティウスを引用しながら唱えた再統合の学としての形象学(Imago-logie)を思い出さずにはいられない。
 グラッシが狙うのは、修辞学の古典的世界ではないし、説得術がひとを動かす表現法だというのでもなくて、ひとを動かす言葉はどうして成立できるのかという哲学に集中する。」

「形象を生みだす力は(・・・)自明のものではなく、歴史時間の中で発見し、自他を形成しながら表れてくる。それがなければ人間は世界との共振関係には入れない。この意味で形象は論証よりも人間の基本なのである。それゆえ「形相を産む力、人間内部の不穏さのうちに宿るこの力は、実存と不可分なのであり、あらゆる具体的、歴史的状況に働いている」のである。」

「形象言語とはアレゴリーである。
(・・・)
 隠喩にシンボルも、ようするに喩えるものと喩えられるものとが合わさって一つになる。ばらばらのもの、隣り合わせにあるはずがないもの、不一致のものが一致する場合にはなおいっそう機知が讃えられる。本来これが「シンボレイン」、すなわちシンボルの語源たる形象だったとグラッシは説明してくれる。形象はすでにして不一致に一致を見るものである。「最もかけ離れ最も対立する特定のものを並べて結びつける能力」、それは物の根本的類似を認識する力のことであり、イタリア・マニエリストのペレグリーニが「透察」とか「鋭察」と呼んだもののことである。」

「真理ではなく真理のようなものへ。」
「グラッシを敷衍すれば、世界には真理を追究する人と、真理らしきものを喜ぶ人がいる。この二分法は、真理へと孤立する人と、類似へと横滑りする人がいるという二分法に即座に対応する。」

「天啓による働き、霊感とは、諸関係にひらめくことであり、類似を発明することでありそれ自体すべての翻訳行為の前提、つまり「似ている」「のような」というメタファ言語の前提となる働きである。」

[目次]
献辞 ヴィルヘルム・シラージ追憶のために
序言

第I部 芸術作品に至る道と形象
I 経験的確信の〈背後〉に達する芸術の試み
II 説得術と論理学、形象と理性

第II部 言語の十全にして不全であること
I 人間になることとロゴス
II 原初的(アルカーイッシュ)な意味論的言語
III 合理世界の根源たる指示言語
IV 記号と精神

第III部 インゲニウム——フマニスムの伝統
I 理性と情念の統一
II メタファ
III フマニスムの伝統——〈事(レス)〉と〈言葉(ウェルバ)〉 の一致

原注/訳者あとがき/索引

[原題]Macht des Bildes: Ohnmacht der rationale Sprache

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