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高橋英夫『花から花へ―引用の神話 引用の現在』・吉岡実『夏の宴』

☆mediopos-2471  2021.8.22

表現するということは
まったくのゼロから
生みだすということではない

引用と編集
そしてそこに
表現者の創造を加えることだ

言葉での表現には

単語
単語と単語を結ぶ文や
文と文を結ぶ文章があるが
それらを構成するのは
基本的に引用と編集である

音楽や舞踏も
基本的に引用と編集を
行うことからはじまるように

引用と編集のない表現は
基本的に存在しないといえる

始原としての神話もそうだが
古典文学の多くも
さまざまな引用で織りなされている

たとえば和歌には「本歌取り」があり
芭蕉の『おくの細道』にしても
さまざまな句歌や歌枕というトポスを
随所に嵌入した引用体で表現されている

そこに表現者の創造がないのかといえば
その引用と編集ということそのものが創造であり
引用されたさまざまな「他者」の表現が
その表現のなかでいかに変容しているかが肝心である

引用論である
『花から花へ―引用の神話 引用の現在』のなかで
高橋 英夫は「引用とは「花」のことではないのか」
「引用は花となって開き、花として人をさし招いている」という

その意味で引用された表現は
まさに「種」であるといえるのかもしれない
種は表現者のなかで芽を出し成長し花となってひらき
そしてさらにその花は実となり新たな種となってゆく

「引用」ということについて
個人的に深く印象に残っているのは
吉岡実の詩集『夏の宴』での《引用詩》である

「引用詩宣言」のようにも読める
「楽園」という詩にはこうある

 「私はそれを引用する
  他人の言葉でも引用されたものは
  すでに黄金化す」

もともと版画家の池田満寿夫の版画につけられていた
「題名」からそうした引用を使った詩を
構想するようになったということだが
その試みはまさに表現することの源にあるものを
示唆しているといえるかもしれない
そういえば能もかつては「猿楽」といわれ
もの真似を事としていた
もの真似は「引用」と「編集」でもある

しかし重要なことは
先の吉岡実の詩にあったように
引用されたものを「黄金化」し得るかどうかだろう

能においては「型」を習得することからはじまる
「黄金化」へのプロセスが重要になるように
文章表現においても「文体」が重要になる

「文体」が効果的に働いていない文章は
「黄金化」されることはなく
ほとんど「死に体」のようになっていることも多いのだ

■高橋 英夫『花から花へ―引用の神話 引用の現在』
 (新潮社 1997/6)
■高橋 英夫『高橋英夫著作集 テオリア2  神話と文学』
(河出書房新社  2021/7)
■吉岡 実『夏の宴』(青土社 1979/10)
■秋元 幸人『吉岡実アラベスク』(書肆山田 2002/5)

(高橋 英夫『花から花へ―引用の神話 引用の現在』より)

「古典文学を読んでいると、いたる所で引用に出会う。かつて謡曲の詞章をさして、つづれにしきと読んだというが、これは謡曲があまたの先行文学の一節、一句を幾重にも綴り合わせて成っていることをさしていた。つづけにしきとは謡曲の引用性であった。謡曲に限ったことではない。古典の文章は、先行の言葉や辞句を取って来て裁ち入れ、折り合わせたものがきわめて多かった。実状はそうでありながら、それを引用と意識し、引用と了解することはほとんどなかった。散文であれば、取って来た言葉や辞句は、引用ではなく「典拠」であり、「出典」であった。他方で、詩歌とくに和歌については、「本歌取り」という方法がひろく行われてきた。しかし本歌取りという用語は普及したものの、これにしても文学史の中の個別的概念であるに止まり、引用とは意識されない時代が長かった、というふうに観察される。それらすべれは、いま包括的に「引用」として、読み直してゆくべきであろう。」

「引用にも、もとより外形、外観上の規模の大小ということはある。著作の半ばが、どうかすると大半が、引用であるような書物も存在する。しかし相対的にいって、引用は小さい。小さな纏まりであり、小さな島である。それはトポス的な小という特性を帯びて、仄かに明るい。時と場合によっては、目眩いほどに明るい。
 引用は島なのである。人間が、言語と表現の領域において作り成した人工の島である。人工ではあるが。これは近代が限りなく現出させた人為的機会性、幾何学的網の目状からは遠く、ほとんど自然としての人間が露呈している不規則性、唐突性、なまなましさに近い。限りなく自然に似ている人工的巧緻、時としては人工的な驚異、それが引用というものである。」
「人は行動する。表現する。言葉を用いる。行動、表現、言語作用において、人は世界やものと関係し、世界やものの名を呼ぶ。これは認めないわけにはゆかない。それを措いては、人間が人間である存在理由はなくなってしまう、というものであろう。
 言葉に話を限ってみよう。いかなる目的、意図、状況のもとで語られた言葉であっても、還元してゆけば、人間的基本動作という意味をおそらく取り出せるだろう。実用的、生活的な言葉があり、記録や法の言葉があり、思惟や感情の言葉がある。それらはどれも共通の基盤に通じている。だがそれらの中に埋めこまれている引用のすべてを意識することが、いま有効なわけではない。引用が、波に洗われた島のようなものとして、木杭を打ちこまれ囲いこまれた牧草地のようなものとして見えてくるのでなければ、意味はない。それは、言葉から人間へという指向性をもったサインの場所、すなわちトポスとして感じられるような引用を見定めることに他ならない。」

「極端に開かれてしまった世界の中で、引用もしくは引用論という言葉に呼応するかのように、さまざまなものが身を起こす。それらはそれぞれの身ぶりと表情と声とで、引用へと合図を送ってくる。存在の「起源」が、「神」が。やがて「他者」たちが、他者たちの「複数性」が。それは「再現」であり「再生」であり「変容」であるようだ。それらの一つ一つは、環となって結ばれたり、忽ちのうちに入れ替わって離散したりしている。この変形。変相はともどもない。それは変幻してゆくこそそれ自体の「花」の眺めのようだ。引用とは「花」のことではないのか。引用は花となって開き、花として人をさし招いている。だが、この花は花であることにおいて、存在を閉じ、存在を終わるのだろうか。それは誰にも分からない。分かっていることがあるとすれば、引用は花は次々と咲きあらわれるように、波に洗われたあと島が再びトポスとして回復されるように、くりかえされるだろうということだけである。」


(吉岡 実『夏の宴』〜「楽園」より)

「私はそれを引用する
 他人の言葉でも引用されたものは
 すでに黄金化す
 「植物の全体は溶ける
      その恩寵の温床から
             花々は生まれる」」

(秋元 幸人『吉岡実アラベスク』より)

「一九六七年二月、吉岡実は版画家池田満寿夫の知遇を得た、「吉岡実氏にはじめてお会いしたのは、たしか新橋の灘万での加藤郁乎の出版記念会だったか、受賞記念だったかの会だった」。(・・・)そう回顧する池田は、我々に一つの貴重な証言を遺しておいてくれた。事はすなわち吉岡実が開拓した、他者の著述からの引用をふんだんに嵌め込んだ詩、彼の所謂《引用詩》に関ってくるのである。」
「池田満寿夫の絵画はどれも美しいセンスに溢れた題名を付けられ、画面と相俟って見る者の詩心に強く訴えかけずにはおかない体のものではあった。
(・・・)
池田は前年一九六六年にヴェネツィア・ビエンナーレ展で版画部門国際大賞を受賞し、この年正月、全百二十点の作品を言わば逆輸入するかたちで、新宿京王百貨店で凱旋記念の展覧会を開いているのだが、どうやら吉岡実は持前の好奇心と絵画に寄せる貪欲な関心とからそこに運んで存分に刺戟を受けたものらしい。事実、小林一郎編の「年譜」に拠れば、詩「夏から秋まで」には、一九六七年八月の初出時には、「池田満寿夫銅版画展目録より」ぼ副題が付されていたというのである。参観後の興奮も覚めやらぬままにカタログのあちこちを翻して成ったとおぼしいこの全六十四行の詩は、しかし実際には池田の「版画の題名だけで」作られた簡単な「パロディ」などではなく。それらの「題名」を微妙に崩し、表記を変え、配列を変えて調整されたあげく、総体としては吉岡実独自の表現となりおおせるに至っている作品である。」
「コラージュに似通った趣向の詩を、しかし、吉岡実は「夏から秋まで」以外には発表しなかった。」

「《引用詩》の執筆に当たっても彼が尊重しつづけたのは常に変わらぬ詩的感興であった。」

「引用文は起爆剤として彼の詩心に作用したのである。こうして詩集『夏の宴』開巻の一篇には、(・・・)雄大な自信に溢れた語り口の詩が措かれるに至った。記念すべくまた愛すべきこの《引用詩》は部分的に抽出することが難しく、またそうしてしまっては意味もない。これは、《引用詩》云々ということをさて置いても、疑いも無く吉岡詩の一つの頂点に位置を占めるべき作品なのである。」

「自我を「探求」しこれを豊かに拡張させる手段として、他者へ投影された自我。しかもあくまでも自らの詩心に忠実でありつづけながら、他者へ大きく勢いよく投影された自我。吉岡実の《引用詩》の面目は、(・・・)こうした一事に集約されうる。思えば《引用詩》開拓以前の吉岡を指して池田満寿夫が題した「繁殖する感覚の細胞」という表現ほど、この《引用詩》にふさわしい定義は無かったのである。
 いずれにしても吉岡は、独自の引用法に基づく作品に拠って、詩形を複雑に展開させた。六〇年代末から七〇年代初頭に掛けて雑多に拡散してやまなかった彼の《神秘的な時代》の詩は。この複雑化を被ったことでかえってよく整理され、多声的に膨らんだ風格を獲得してよく昇華されるに至ったのだった。そしてそんな引用の技法がすっかり完成され洗練も加わったとおぼしき頃に、吉岡実は突如として《引用詩》の制作を廃すると断言した・・・・・・。」

「《引用詩》という未曾有の創案を成し遂げた吉岡実は、その快挙に甘んじることもなく、どうやらかつて『神秘的な時代の詩』を上梓した直後に襲われたような脱力感、停滞感の瀰漫するのを再び身近に感じ取り、別種の《新しい詩境を求め》て動き出そうとしていた模様なのである。」

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